2024年2月25日礼拝 説教要旨

神の業がこの人に現れるために(ヨハネ9:1~12)

松田聖一牧師

 

10年ほど前に、タイにある教会を訪問する機会がありました。タイのバンコクから、ミャンマーとの国境近くまで、オーストラリアから来られていた宣教師の方の車で案内していただいて、バンコクから何時間もかかって、少数部族の村を訪ねたり、熱帯雨林の中に建てられた屋根と柱だけの教会、壁のない教会を訪ねたり、イエスさまのことを伝える働きをされている方々と、良い出会いがありました。その車での移動の途中だったと思いますが、ある町の、大通りで信号待ちをしていると、窓越しに小さな女の子が、ノックしてきました。大通りですから、車がビュンビュン行きかっているのに、その道の真ん中で車をよけながら、やって来るのです。危ないのにどうして?と思いましたら、彼女はその手に、小さな花束を持っていて、それを買ってほしいという合図でした。その時すかさず、その宣教師の先生からは、買ってはいけないよ~そうおっしゃられるのです。買っても、その子にそのままお金が入るのではなくて、マフィアといったグループにお金が吸い取られてしまうから・・・ということでした。そのことを聞いた時、ショックでした。彼女の人生は一体何なのだろう?お金集めの駒や、道具にされた彼女は、これからどう生きていくのだろう?そう思っても、何もできない自分がいました。やがて、信号が青になり、車はそこから離れていきました。彼女はまた大通りの車が行きかう中を、車を避けながら、花束をもって、売り歩いていきました。彼女の、その姿だけを見れば、とんでもないことをしていると映ります。お金集めの道具にされていることも、とんでもないです。しかし、どうして小さな花束を売り歩かなければならないのか?どうして学校にいけないのか?お金集めの道具じゃなくて、どうして人間らしい生き方ができないのか?車にはねられたらどうするのか?と、思わずにはおれない姿であっても、でもそうしなければ、生きてはいけない、何かの事情があったのです。

 

そう言う意味で、見た目だけでは分からない、その人なりの事情は、彼女だけではなくて、どなたにもあります。誰もが、何かを背負って生きています。そこにはうれしかったこともあれば、悲しく辛かったこともあるでしょう。あまりにも辛く悲しいことがあったために、それを忘れてしまうほどになるさえあるでしょう。忘れたことにして、思い出せなくすることもあるのです。イエスさまは、そこを見て下さるのです。ただ単に見た目だけを見るのではなくて、その人がどう生きて、どう過ごしてきたか?どんな重荷を背負って生きているかということも、イエスさまは、見ておられるのです。

 

それが、イエスさまの、「通りすがりに」生まれつき目の見えない人を見かけられたとある言葉の中の、「通りすがりに」という言葉の中に現れているのです。というのは、この「通りすがりに」という言葉には、そばを通られてとか、そばにいて導かれるという意味と、この目の見えない人の、闇を去らせてくださるという意味もあるからです。つまり、イエスさまは、この人のそばを通られ、そばにいて導かれるという時、この人の闇も見ておられるのです。そしてこの人の暗闇に、イエスさまは、まことの光として、この人の闇の中に来て、輝いてくださり、この人から闇を去らせてくださるのです。そのために通りすがられるのです。

 

それに対して、弟子たちは、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねるのですが、そこには、この当時、病気や、苦しみといったことがあるのは、本人や、両親が罪を犯したから、そうなったんだということが言われ、信じられてきたことを、そのまま弟子たちも、受け継いで、信じていたということがあったんです。だから、この人が生まれつき目が見えないのは、本人か、両親が罪を犯したからですか?と、尋ねているのです。

 

ここに信じるということの、1つのかたちが現れています。信じるというのは、自分が信じている対象を、信じられると思っているからこそ、信じているのですが、その信じている対象が、代々受け継がれているものもあるのではないでしょうか?例えば、信号機を考えてみましょう。信号が赤の時には、何を信じているかというと、次は青になることですね。実際信号は、赤になったら、青になります。赤のままではありません。赤のままがずっと続いたら、故障か何かがあったと思います。黄色であれば、黄色から青になるとは誰も信じていません。ところが、信号の形は、日本では横ですが、外国ですと、横ではなくて、縦型の信号機の国もあります。それを初めて見た方は、びっくりするわけですが、それはこれまで信号は横であると、当たり前のように信じていたことが、ひっくり返されるからです。でも、信号が縦の国だと、そこに住んで生活しておられる方にとっては、信号機は縦だということが受け継がれているので、そこに住む人々も受け継いでいるのです。だから、信号は縦だということを信じているので、驚かないのです。自然なこととして受け止めているのです。

 

弟子たちにも、そうです。だから、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。両親ですか」と、イエスさまに尋ねるのです。

 

それは、昔から言われていたことが、その通りだとイエスさまに認めてほしかったからなのでしょうか?あるいは、昔から言われていたことに対して、彼ら自身が確認したかったからなのでしょうか?あるいは、本人の罪と、両親の罪が、どこで、どのようにして、この人が生まれつき目が見えないということと、関係があるのか?罪というものが、この人の目が見えないということと、どのように繋がるのか?について、答えが欲しかったのでしょうか?

 

そんな問いに、イエスさまの答えは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」本人の罪や、両親の罪とは関係がないと、彼らが今まで言われ続けてきたこと、信じて受け継いできたことを、そうじゃないと、完全に否定されるのです。そうじゃない!この人の目が見えないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもなくて、「神の業がこの人に現れるためである」と、神さまが、この人にしてくださる神さまの業が現れるためであると、答えられるのは、彼らがこれまで信じてきたこととは違うというよりも、むしろ、彼らが信じてきたことを、越える神さまであることへと、新しく導いておられるのではないでしょうか?

 

だからこそ、イエスさまは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」とおっしゃられる時、その時の主語は、わたし、ではなくて、わたしたち、になっているのです。つまり、神さまの業が現れるために、神さまの業を、行わねばならないのは、イエスさま一人だけではなくて、行わねばならないのは、わたしたちでもあるということなのです。それは、それができる時間は、永遠ではなくて、限られた時間しかないからです。その日でなくなるまでにしなければならないということは、言い換えれば、イエスさまが、この日、今、しなさいと言われた時に、また今度と答えてしまったら、二度とそのチャンスが来ないものでもあるからではないでしょうか?今だ、というときは、今なのです。今だというときに、また今度となってしまったら、取り返しのつかないことにもなってしまうかもしれないのです。

 

それはイエスさまにとってもそうです。「わたしは、世にいる間、世の光である」とおっしゃられるのも、世にいなくなる時が来ることを分かっておられたからです。それは十字架にかけられる時が近づいているということを指しますが、それまでにやるべきことをしておかなければ、また今度では間に合わないという、切羽詰まったものが、イエスさまにあったのではないでしょうか?

 

だからこそ、神の業がこの人に現れるためである、とおっしゃられた時、そのまま、「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になった」のですが、この地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗るということを、される時、まずはなぜ唾なのかというと、唾には、癒す力があると当時信じられてきました。弟子たちも含めて、人々は、唾に、癒す力があるということは、信じていたと思います。そのつばをイエスさまは、地面にはいて、「唾で土をこねてその人の目にお塗になった」わけですが、この言葉の意味を詳しく見ると、イエスさまが地面に唾をはいて、そして、イエスさまはそのつばから、泥土、泥を、何もないところから、造られた、すなわち、泥を無から生み出し、創造されたということなのです。つまり、単に、唾をはいてその唾で、地面をこねたのではなくて、つばから泥、泥土を造られたということになるのです。その泥土を、イエスさまがこの人の目に塗ったということは、確かに、当時人を癒す力があると、信じられてきた唾を用いて、ただ唾を目に塗ったのではなくて、唾から何もなかったところに、創造されたその泥を塗っていかれるのです。そしてこの泥、泥土には、命が詰まっているのです。つまり、それまで信じられてきた、人を癒す力がある唾を、越えたものを、たとい泥土であっても、イエスさまは、造り出してくださり、その造られたものを用いて、命をこの人に与えていかれるのです。

 

そしてシロアムの池に行って洗いなさいと言われることも、ただ泥を塗ったところだけ、顔を洗うように洗いなさいという意味ではなくて、潜る所、泳ぐところである池の中に入って洗いなさいということなのです。ということは、この人は、シロアムの池の中に入って洗ったということになりますから、目の周りだけ、顔だけ濡れたということではなくて、全身をその池の水で洗ったということになるのです。それはその人が、全身、清められたということに繋がっていくのです。つまり、水で洗い清めるということを通して、この人の罪が洗い清められ、完全に赦されたという、洗礼をも、神さまがこの人にしてくださるのです。

 

ある一人の方が、その教会の30周年に当たって、こんな証を文章にされました。

 

教会の宣教30周年を迎えるにあたり、そのことと併せて忘れられないのは、教会の先生との出会いです。昭和25年頃、私は重症結核で処置なし患者でした。来る日も来る日も、天井とにらめっこ、極大空洞を持ち、精神的にも、経済的にも、極限で訪ねてくれる人もなく、12年、絶望的でした。そんな日々の中で、唯一の慰めはラジオでした。ある時、私は、ルーテルアワー放送にダイヤルを合わせていました。何もわからぬままに、聞いてゆくうちに、私の心は不思議に落ち着き、このリンゴ箱2つ並べ、戸板をのせたこのベットが、この5尺足らずの場所が、この誰も訪ねてくる人とてなき場所が、パラダイスであるということが分かりかけてきたのです。思い切って書いた1枚のはがき、「私に聖書を送ってくださいませ。ここが天国であることが分かりかけてきました。」娘の書いたハガキを母は投函してくれたのです。やがて先生、祈りの友、教会の方々が訪問してくださり、私の灰色の部屋は、心は、光が差し込みました。灯がついたのです。先生の優しい瞳、あたたかい握手です。言葉少なに語られる先生は、常に行動的であられました。具体的に行動をなさいました。「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。ナザレ人イエスキリストの名によって歩きなさい」絶対安静の床に置かれていた私に、主は歩きなさいと言われたのでした。その歩くということは、神さまの御名を讃える歩であれということに、気づかしめられました。神さまは試練をもって、傲慢な私の魂に命の息を吹き入れてくださったのです。宣教30周年、まことに感慨深いものがあります。後に癒された私は、先生と再会、大変に驚かれ、喜ばれたのは言うまでもありません。神さまは、まことによきようになさるお方であることを、しみじみと思うのです。それにつけても、今も人に、世に見離され、何の手立てもなく、家に閉じこもっている人々が数多くいると思います。そんな人々のためにも、キリストにある者の使命の重さを感じます。合理化が進み、物資が豊かになればなるほどに、魂の救いが今ほど必要とされる時はないと思うのです。しかし、私どもの歩みは、本当にイエスさまを主としているだろうか?自分の信仰を信じているのではないだろうか、自分の真実を、自分の誠実に心奪われているのではないだろうか、キリストの悲しみに満ちたまなざしが、心につきささるのです。主よ、お語りください。そして立っていないで、動かして下さい。いたずらに、過ぎし日をなつかしむという甘えに陥ることなく、あのキリストのゲッセマネの祈りを忘れず、この難しい時代を主に支えられつつ、用いられてまいりたく思います。

 

イエスさまは、この人の目を癒し、見えるようにされました。その時、この人は、暗闇の中を歩く人生から、光の中を歩く人生へと新しく造りかえられました。その時、この人は、自分の目が見えるようになったから、もうそれで終わりではありませんでした。周りの人々が、いろんなことを言う中で、そのことに振り回されるのではなくて、ただ、イエスさまが、私にしてくださったこと、暗闇を去らせてくださったことを、語り続けたのでした。

 

神さまが、してくださったこと、私にしてくださったことを、そのまま語る時、私を用いて、神さまが神さまの業を、その人に現わしてくださいます。その時私が何かをしなければ・・とならなくてもいいのです。わたしを通して、私を用いて、神さまが、神さまの業を現わしてくださいます。そして神さまがしてくださったことが、その人、その人に与えられる中で、わたしたちは、神さまの業を行っているのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月25日)