2024年4月21日礼拝 説教要旨

わたしを愛しているか(ヨハネ21:15~25)

松田聖一牧師

 

プロジェクトXという番組があります。1つのプロジェクトに、沢山の、いろんな方が、関わりながら、作りあげていくという姿をドキュメントとしてまとめています。結論から言うと、すんなり完成するのかというと、そんなことはないのです。順調にはいかないのです。関わる人たちが、批判されたり、誤解されたりしながら、関わる人同士でも、紆余曲折、すったもんだしながら、ようやく出来上がっていくという姿があります。その中で、東京スカイツリーのことが取り上げられていました。全国から、えりすぐりの、優秀な職人たちが集められ、関わっていくのですが、えりすぐりの職人というのは、別の見方をすれば、頑固で、融通の利かない方々ばかりです。ですから、みんなと協力しながら一緒に・・・どころか、お互いに口も利かない、受け入れ合おうとしないことばかりで、なかなかまとまらないのです。そんな中で、何をしたかというと、関わる職人さんが、一堂に会して、一緒にご飯を食べるということでした。でも、せっかく食事会が始まっても、最初は、お互いにぎこちないのです。同じ会社同士で固まってしまい、別の会社の方とは、話も弾みません。しかし、食べて、ワイワイとしていくうちに、所属する会社は違っても、同じ目的に向かっていくということでは同じ職人だということを、確認し合うことができ、お互いを受け入れあっていきました。そしてその食事は、和解の食事会となっていました。そこから協力し合えていくのですが、建設途中、東日本大震災で、スカイツリーが大きく揺れた時にも、いろいろな困難なことがあったときにも、それらのことによって、より強い絆となっていきました。そのことを振り返られて、番組に出られた、えりすぐりの職人さんたちが、こうおっしゃっていました。一緒にご飯を食べることができた・・・あれがあったから、みんなで協力できたんだと思います~と、異口同音におっしゃっていました。

 

一緒にご飯を食べるということが、和解の食事会となり、凄いことを生み出すのだ、と改めて思います。なぜなら、そこには赦しが与えられているからです。イエスさまの用意してくださった食事に、イエスさまが、弟子たちを招いて、一緒に食事をしたということもそうです。この時、イエスさまは、イエスさまの方から、十字架の上で、傷ついたその傷跡を持ったままの、その手と足、体全体を使って、弟子たちのために食事を準備されました。それはまたイエスさまが、十字架の上で、手と足に打たれた釘からも、その十字架の死からも、完全に解放され、自由にされた姿でもありました。そしてその食事を弟子たちが頂いた時、弟子たちは、イエスさまからの赦しを、受け取っていました。

 

その赦しの食事が「終わると」、すなわち、イエスさまから赦しの食事を受け取ったその時、イエスさまがペテロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。イエスさまが、ペテロに、わたしを愛しているかと問われるわけですが、そもそも、愛するとはどういうことでしょうか?

 

愛するということについて、ある時、一緒に聖書を学ぶ中で、質問と言いますか、こんな思いを打ち明けてくださった方がいました。それは「愛する」という言葉は知っているけれど、実感として、愛するということが、よくわからないんです・・・愛することって、どういうことですか?一瞬戸惑いました。そして愛するとは、こういうことだ~と、答えることができませんでした。それで、こう尋ねました。「どうしてそう思うの?」「実は、私は自分が愛されていると感じたことが、今までないんです・・・。もちろん愛という言葉は知っています。その意味も知っています。でもどういうことかよくわからないんです。」はっとさせられたことでした。何も答えを持ち得ない自分自身が、そこにいました。

 

私たちにとっても、愛するとは、どういうことでしょうか?単に大好きと言っていたら、それで愛することになるのでしょうか?もちろんそういう言葉がけは大切なことです。しかし愛するということの実態、事実は、結局はよくわからないということもあるのではないでしょうか?なぜかというと、愛するということは、目に見えないものであると同時に、目に見えないということは、いろんな形があるということだからです。

 

そしてその愛のかたちの中には、傷つくことも含まれるのではないでしょうか?傷ついて、傷ついて、泥にまみれて汚れることで、愛がそこにあるとも言えるのです。

 

このように傷つくということで、愛することになる、別の言い方をすれば、大切にするということによって、大切にしようとするその人が、傷つくということを、金管楽器を例に挙げてみましょう。金管楽器というのは、トランペット、トロンボーンなど、口から息をその楽器に吹き込んで、音を鳴らす楽器です。その音を鳴らすという時、マウスピースという小さな部品ですが、そこに自分の唇を当てて、空気を送るその時、そのマウスピースがぶ~と音を出します。それは、唇が振動することによって、そういう音が出ます。それで初めて、楽器の音が鳴るようになります。ところが、始めたばかりの時には、唇を振動させることがなかなかできません。ぶ~という音が出せないのです。それで、小さなマウスピースを唇に当てながら、ぶ~と唇を振動させる練習を、ひたすら繰り返していきます。少しでも時間があれば、ポケットからそれを取り出して、ぶ~ぶ~やっています。それでも、なかなか唇は振動しません。ぶ~という音が鳴らないのです。それでもなお、ひたすらぶ~ぶ~吹いていくのですが、そのうちに、唇がはれてきます。時には唇が切れてしまって、本当に痛いです。痛いから、やめたとなったら、それでは音がでませんし、音を大切に鳴らすこともできなくなります。だから、痛くても、唇が切れて、傷だらけになっても、腫れあがっても、それでもぶ~ぶ~吹き続けていくうちに、切れた傷が、ふさがり、その筋肉が、だんだんと鍛えられ、コントロールできるようになっていくことで、ようやく、その楽器が鳴り始めるのです。その楽器だけではありません。ハープもそうです。最初は、指が血だらけ、傷だらけになります。しかし、傷だらけになって、指が固くなり、丈夫になっていくことで、ハープの音が出て来るのです。つまり楽器を大切にするということは、その楽器本来の音を鳴らすということであり、そのために、その楽器を弾こうとする人が、傷つくのです。人間も同じです。人が人を大切にしようとすればするほど、またその人が、その人らしくなるために、関わるその人は、傷つくのです。

 

そう言う意味で、イエスさまがペテロに、問われた「わたしを愛しているか」は、ペテロ自身が、イエスさまを愛するために、大切にするために、傷ついたのか?あなたはわたしを愛するということのために、傷ついたのか?という問いです。しかし、実際はどうだったのかというと、ペテロは、イエスさまが捕らえられ、十字架にかかられることが起こる前は、どこかでもついていきますと、あなたを守りますとか、立派なことを言ったし、本気でそう思っていました。ところが、イエスさまが捕らえられ、十字架につけられ、自分の身が危なくなった時、自分が、傷つかないように、自分の身を守り続け、自己保身に走りました。だからイエスさまのことを、この人は知っていると、言われた時、あの人を知らない、私は知らないと、イエスさまを3度も否定し、イエスさまのもとから逃げ去っていくのです。その結果、イエスさまを十字架につけ、イエスさまを傷つけ、イエスさまの命までも奪ってしまったのです。そう言う意味で、ペテロは、イエスさまを全く愛することができなかったのです。

 

そんなペテロにイエスさまは、愛しているか、とおっしゃられるのは、1回だけではなくて、3回です。それはペテロが、イエスさまを知らないと言った回数と同じです。ということは、イエスさまは、ペテロに、あなたはわたしを3回知らないと言ったね。裏切ったねという、彼の裏切りを、これ見よがしに指摘しているのかというと、そうではありません。イエスさまは、もうこの時、3回知らないと言ったペテロも、また一緒にいた弟子たちも、イエスさまは赦しておられるのです。であれば、3回もたずねなくてもいいのではないか?と思われるかもしれません。しかし、イエスさまが3回も「わたしを愛しているか」と問われれば、問われるほど、ペテロ自身は、自分が3回、3度イエスさまを知らないと言ってしまったこと、イエスさまを、自分が、十字架につけ、自分が、イエスさまを傷つけてしまった、とりかえしのつかないことをしてしまった、その傷が、ペテロを刺し貫いていくのではないでしょうか?

 

そんなペテロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えますが、この時、「はい、主よ」を、ペテロは繰り返しています。その意味は、はい、を繰り返せば繰り返すほど、本当にそうですと、はい、がますます強調され、確かにそうですという誓いになっているのです。つまり、この「はい、主よ」は、わたしが裏切り、傷つけてしまったイエスさまの方から、十字架の上で全部受け入れて、傷ついて下さり、傷つくことで愛してくださった、主であることを、彼自身が認めて受け入れている、信仰告白となっているのではないでしょうか?はい、主よ、その通りです。本当に、私があなたを傷つけたことを、あなたは、そのまま受け取ってくださり、傷ついて、傷ついて、愛を現わして下さった主であるということを、「はい、主よ」と告白していくのです。

 

そんなペテロにイエスさまは、「わたしの小羊を飼いなさい」とおっしゃられるのは、ただこれから新しい使命、イエスさまの大切な小羊を、牧場に放し、草を食べさせ、小羊の番、小羊を見張り、守りなさいということを、託しておられるだけではないのです。というのは、「わたしの小羊を飼いなさい」の「飼いなさい」は、本来、イエスさまがおっしゃられた小羊、羊を飼うという時に、使われる言葉ではなくて、豚を飼うという時に、この飼いなさいが使われているのです。

 

当時、豚を飼う働きは、社会の中で最も底辺の、貧しい働きと言われていました。そのことが、ルカによる福音書の、イエスさまの譬えの中に出てきます、放蕩息子は、財産を湯水のように使い果たして、すっからかんになってしまい、誰からも相手にされなくなり、豚を飼う仕事に就くしかなくなりました。そんなどん底の中で、神さまのもとに帰ろうと、立ち帰っていき、赦され、受け入れられていくのですが、そんな落ちるところまで落ちた、そのどん底の中で、豚を飼うという時に、使われる言葉と同じ言葉を、イエスさまは、小羊を飼う、に用いて、わたしの小羊を、そしてわたしの羊を飼いなさいと、ペテロにおっしゃられるのです。

 

それは、取り返しのつかない傷を与え、傷つけてしまったというペテロのその姿に、何もかも失い、どん底で豚を飼うこの息子を、重ねておられるのではないでしょうか?つまり、イエスさまは、ペテロが、どんなに自分には何もできない、誰ともつながりをもてない、誰にも顔向けができない、自分には何の価値もないと受け止めていたとしても、ペテロが、どんなにどん底であったとしても、もう一度、わたしの小羊を飼いなさい、わたしの羊を飼いなさいと、イエスさまのもとに導かれている小羊、羊を飼い、世話をするという働きを、もう一度しなさいと、ペテロを赦して、おっしゃっておられるのです。そしてその働きを、これから先、年をとり、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、自分が行きたくない所へ連れていかれても、死に至る迄、ずっとイエスさまは、ペテロに託しておられるのです。それはあなたには、イエスさまのために、まだやることがあるということを、与えておられるということではないでしょうか?

 

一人の方が教会に導かれて、洗礼を受けられたことを、こう振り返っておられました。

 

私は60歳になるまでキリスト教とは全く無縁でした。そのような私がなぜ教会に行き、洗礼を受け、クリスチャンとなったのかをお証しさせていただきたいと思います。2018年7月当時、名古屋で建設業に従事していた私は、職場の強烈なパワハラと離婚後の孤独感、更には自分以外の周囲の人は皆、輝いて見えて生きている意義や張り合いが見いだせなくなり、ついには死ぬことを選択し、7月28日午前3時ごろに自宅近くの川の端から飛び込みました。気絶し溺死、の予定でしたが、実際は水を飲んだ苦しさから、岸の街灯に向かって泳いでいました。生きたいという本能でしょうか。

今思えばここで生かされたのも、神さまの御業としか思えません。さて、岸に上がり、真夏の1日を川岸の葦の中で過ごすも、行く先も浮かばずで、夜になり星を見上げて思い出したのは、私が5歳の時に、苦しんでいた母親が、クリスチャンではなかったけれども、自宅近くの教会に行き、白髪のおじさん、きっと牧師でいらしたと思いますが、その方と話して何度か通ううちに、元気を取り戻したことでした。「教会に行ってみよう!」そう思い、通勤途中にあった教会に行きました。日曜日の早朝に教会に着き、玄関前で疲れから寝てしまい、礼拝のために玄関をあけに来た教会の方の「わあ」という声で目覚めました。泥だらけのおっさんが、玄関前で寝ているのですから、さぞかし驚かれたことでしょう。死にきれなかったことを説明したら教会内に入れて下さり、そのまま人生初の礼拝に参加しました。皆さんの温かさ、雰囲気は想像していたキリスト教とは違い、安らぎを覚えました。そしてその礼拝にいらした方から、誘われて、西日本豪雨で被害に遭われた倉敷市真備町支援のボランティアへと向かうことになりました。そこでは最初、打ちひしがれている被災者の方々が立ち直っていく姿、一致団結して作業する教会の方々を見て、神さまの存在を確信しました。そして私はその年の12月24日に洗礼を授かりました。そこから信仰生活が始まったのでした。そして救われた者として、次の1人を救うきっかけに聖書を贈る働きをしようと思いました。今は仕事柄なかなか積極的にはできていませんが、聖書を受け取られた方の中から、イエスさまに出会い、救われる方が起こされることを祈りつつ、小さな力ながら歩んでいきたいと思っています。

 

この人は、どん底の中で、イエスさまが主であることを知りました。そして、この先まだやることがあるぞと、イエスさまのために、イエスさまに用いられていく、新しい人生が与えられていました。

 

ペテロは、これからどう生きていいか、先が見えない中にあったことでしょう。イエスさまを傷つけてしまったという、大きな悔いがその心を支配していたことでしょう。しかし、イエスさまは、もう赦して下さっていました。そしてペテロにも、もう一度新しい出発を与えて下さったのでした。それは人生いつでもやり直せるという約束でもありました。

 

イエスさまは、私たちにもその約束を与えてくださいます。「わたしを愛しているか」とおっしゃられるイエスさまは、私たちがどんなに、人を傷つけてしまったとしても、その傷を、赦された傷跡に、新しくしてくださっています。そして、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と、これから先、自分の思うように体を動かせなくなったとしても、それでも、あなたにはまだやることがあると、これからもずっと、イエスさまの羊を飼うという大切な働きを、委ねて下さっています。なぜならば、神さまの働きには、定年がないからです。死に至る迄、ずっとイエスさまは、私たちに、あなたにはやることがあると励まし、そのやることを与え続けてくださっています。

 

祈りましょう。

説教要旨(4月21日)