2022年1月1日元旦礼拝説教要旨

少し漕ぎ出すこと(ルカ5:1~11)

松田聖一牧師

新しい年がスタートしました。このスタートと言う時、いろいろなスタートがあると思います。スタートのやり方ですね。例えば陸上の100メートル走では、スタートのやり方の中に、スタンディングスタートとクラウチングスタートといった2つがあります。他にもあるようですが、スタンディングスタートというと、たった状態で、よーいどん!するわけですが、一方でクラウチングスタートは、しゃがんだ状態から、スタートしていきます。スタンディングは、中距離とか、長距離を走る時に、またクラウチングは短距離で瞬発力が非常に必要な時に用いられます。このクラウチングスタートは100年以上前の、アテネオリンピックで本格的に普及したということですが、いずれにしてもスタートの仕方がいろいろあるという意味は、それぞれの競技によって相応しいスタートの仕方があるということです。

 

そのように、私たちにとってのスタートのやり方も、いろいろなやり方がありますし、実際にいろいろなやり方でやっていると思います。

 

イエスさまが今日読んでいただいた聖書の箇所で漁師たちに、最終的に求めていくのは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という彼らが使い、持っていた舟を沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁をせよということですが、最初から、のっけから、沖に漕ぎ出せとはおっしゃっていません。

 

最初は、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」イエスさまは、もうすでに漁を終えて網を洗って片づけをしていた漁師たちに、「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」と大変下手に出ておられます。漁師たちに気を遣ったのでしょうか?でもこのお頼みになった時、イエスさまはどこからお頼みになったのかというと、(3)「そのうち1そうであるシモンの持ち舟に乗り」舟にもう乗っているんです。舟に乗る前に、陸から、お頼みになったのではなくて、舟に乗ってもいいよと言われていたわけではないのに、また舟に乗っていいですかとお伺いを立てたわけでもなくて、もうすでに舟に乗って、そこから頼んでいるのです。

 

ということは、イエスさまはもう既にお頼みになる時には、この舟を漁師たちが、少し漕ぎ出してくれるということを、信じて、信頼しているのです。やってくれる!言ったとおりにしてくれるとイエスさまの漁師たちへの信頼があります。しかしこの姿は、見方を変えれば、信頼があるとはいっても、イエスさまは結構厚かましいですよね。舟に乗ってもいいよと、言われていたわけではないのに、もう乗っている、大胆と言いますか、漕ぎ出してくれるという信頼があることは分かるような気がしますが、漁師がいいよという前に、もうすでに乗っているという姿は、大胆ですね。

 

ここから人にものを頼むという一つの姿を見ます。それは人にものを頼むとき、やってくれるかと頼むとき、もちろん丁寧に頼むことは大切なことですが、それ以上に、相手のその方が引き受けてくれるかどうか、どちらでもいいという気持ちではなくて、結果がどうなるかは別にして、相手のその人は引き受けてくれるということを、こちらが信じて、信頼して、多少前のめりになったとしても、言ったらやってくれる!とまずは信じていくことではないでしょうか?

 

人が人を信頼できる関係というのは、こちらからまず信頼していくこと、信頼しようとしていくことから、信頼関係が始まっていくように思います。たとい、信頼に足る何かの事実がなくても、それでもこちらから信頼していくことから始まっていきます。

 

そんなイエスさまの信頼、厚かましいほどの信頼に、漁師たちは応えて、少し漕ぎ出すのです。では少しで終わりかというと、今度は沖に漕ぎ出してとおっしゃられます。イエスさまもなかなか図々しいですね。でも少しから、沖に漕ぎ出してとおっしゃられた時、彼らは昨晩の漁がどうだったかをイエスさまに答えていくのです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。」昨日の夜、今朝にかけてあった事実、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでしたという、労多くして収穫がなかったということをイエスさまに「何もとれませんでした」何も取れませんでした、何もなかった、漁をしても何も取れなかった、という事実を告げ、訴えるのです。

 

これはわがままや、言い訳ではなくて、事実です。彼らは彼らなりに努力しました。努力したけれども、何も取れなかったという残念な事実、気持ちも含めての事実をイエスさまに伝えていくのです。

 

こういうことが言える関係っていいですね。できなかった。努力したけど、だめだったということを言える関係というのは、お互いに心を開いている関係ですね。何も取れませんでした。もうそれしかない、何も取れなかったという、それ以下がないという中から、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言う言葉が、イエスさまからではなくて、漁師たちの方から、出て来るのです。

 

イエスさまは、何も取れませんでした。何もありませんでした。魚がないという状態の中から、もう一度やってみようという思いを、押しつけではなくて、自分たちの中から出るように引き出して下さるんです。もちろんこの時、魚が取れるという確証は漁師たちにはありません。取れないかもしれない。舟を沖に漕ぎ出して、労多くして何もないという可能性もあります。何も取れませんでしたということになるかもしれない。魚が取れるという彼らにとっての良い結果が来るかどうかも分かりません。そういう中での、少し漕ぎ出すことも、沖に漕ぎ出すことも、楽な中での一歩ではなく、苦しい中での一歩です。苦しくないなんてとても言えません。でも確かに苦しい中にあっても、イエスさまが少し漕ぎ出すように、また沖に漕ぎ出して漁をしなさいとおっしゃられた、その言葉に信頼していくとき、その言葉だけを頼りにしていくとき、イエスさまのそのお言葉通りに、少しであっても、前に向かって進むことができます。

 

星野富弘さんの詩にこんな詩があります。

 

苦しい時の一歩は

心細いけれど その一歩のところに

新しい世界が

広がっている

 

私たちにとって、大きな一歩を最初からはできないことがあります。でも少しだけでもいいです。少しだけであっても、その一歩を踏み出す時、その一歩のところに、イエスさまがおっしゃられた言葉通り、新しい世界が広がっています。最初から大きくなくてもいいです。小さな一歩で大丈夫です。

説教要旨(2022年1月1日)