2026年4月26日礼拝 説教要旨

思い知らされて(ヨハネ13:31~35)

松田聖一牧師

 

レオナルド・ダ・ビンチの作品に、最後の晩餐という絵があります。そこにはイエスさまが捕らえられ、十字架にいよいよつけられていく、その直前に、弟子たちと一緒に食事をした場面が描かれています。また、イエスさまを裏切るユダも描かれていますが、そのユダが、イエスさまとの関係の中で、どこに座っていたか?ということと、イエスさまに対して何をしようとしていたかが、絵を細かく見ると、分かってきます。そのことについて、こんな解説がなされています。

 

本作が描かれたのは、ルネサンスと呼ばれる時代です。この時代の美術は「自然主義的な写実性」という見たままに描くことが重要視され、左右対称(シンメトリー)こそ美しいとされていました。ダ・ヴィンチは、これまでどの芸術家も成しえなかった自然なシンメトリーを、『最後の晩餐』の中に描いたことにあります。改めて作品を見てみると、本作の中に描かれた人物たちは3人ずつのグループに分けられ、キリストを中心とする明快な一点透視図法によって明瞭な左右対称の構図となっています。このシンメトリーは、ダ・ヴィンチ以前に描かれてきたユダだけが仲間外れという不自然な構図を解消することとなりました。確かに、イエスが「この中に私を裏切る者がいる」と言い、あたりが騒然となる中、ユダだけが違う場所に座っていれば、イエスが裏切り者の話をした瞬間に裏切り者はユダだとわかってしまいます。そこで本作ではイエスと横並びにする代わりに、ユダがイエスと同じ鉢に手を伸ばしているという動作を描くことで、誰がユダなのかを表現したのです。

 

つまり、この絵ではユダが裏切り者だということが、すぐには分からないように描いたと言うことと、それでも、イエスさまと同じ鉢に手を伸ばしているということで、ユダを描こうとしたということなんです。

 

この最後の晩餐ですが、ダ・ビンチだけが描いたのかというと、解説にもあるように、ダ・ビンチ以前にも、いろいろが画家が描いています。その絵を見ると、そこには、裏切り者はユダだということが、はっきり分かるように描かれているんです。では、ユダが分かるように描いているのが、正しいのか?分からない方が正しいのか?というと、実はどちらが正しいか?という判断はできません。なぜならば、聖書には、ユダがどこに座っていたのか?イエスさまに近いところなのか?どこにいたのかについては、記されていないからです。

 

それでも、それぞれの画家が自分なりの視点で、ユダと、その裏切りを分かるように、あるいは分からないように描いたということは、そのいずれにも、裏切りということの真相が現れているのではないでしょうか?なぜならば、裏切りというのは、裏で、切るということですから、ユダの裏切りは、イエスさまや、他の弟子たちのいないところのことであっても、また弟子たちが知らないところでのことであっても、やがては、表に出て来るものだからです。そういう、一見分からないように見える、その裏切りが、最後の晩餐という、イエスさまが弟子たちを受け入れて、招かれた席上で始まっていくということでもあるんです。

 

そのことが「さて、ユダが出て行くと」というこの言葉にある、「さて」と「ユダが出て行くと」の間にも現れているんです。というのは、「さて」と、「ユダが出て行くと」の間には、日本語としては訳されてはいない、「実際、確かに、そこから新しいことに移る」という言葉があるからです。つまり、「実際、確かに、そこから新しいことに移る」が、さて、と、ユダが出て行くとの間にあるということ、しかもその言葉が、日本語には訳されていないということも、裏切りということを示すものです。またユダが、イエスさまや弟子たちと一緒にいるところから、実際に、確かに出て行ったことと、イエスさまをお金で祭司長たちに売り渡し、イエスさまを捕らえるために、イエスさまがいる場所を知らせに行ったユダの中に入ったサタンと共に、ユダは、確かにイエスさまから離れて行ったという事実も、強調されているんです。そこから新しいことに移っていくのですが、それは「出て行くと」という、その行為から始まるというよりも、その行為になる前に、サタンが彼の中に入った、すなわち、サタンがすっとユダの中に入り、イエスさまからサタンと共に離れて行ったことに、始まるんです。

 

しかも、その時イエスさまは、ユダに対して「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃられたことで、ユダは「すぐ出て行った」んです。それは、ユダにイエスさまを裏切ることをさせようとか、助長したというよりも、むしろ、サタンと共にイエスさまから離れていくということ、裏切りという、とんでもないことをしたユダをも、それでもイエスさまは、そういうユダであることを知りつつ、受け入れておられると言うことでもあるんです。もちろんイエスさまは、裏切りが良いと、認めているわけではありません。しかし、そういうことでさえも、イエスさまは、ご自身の中に収めておられるんです。

 

それは、ユダだけのことではありません。イエスさまから引き離し、イエスさまを裏切っていく、という表向きは分からない、その内面で起こることは、ユダだけの問題ではありません。私たちの内面においても起こる事、起こり得ることです。すっと入ってくるものですから、一瞬の出来事と言ってもいいでしょう。

 

小学生の頃は、毎日野山を走り回っていましたが、そんなある日のこと、友達と山に出かけて遊んでいましたら、友達が「あっ!こんなところに自転車がある!」と叫びました。見ると立派な自転車でしたが、いろいろな部品が外れていました。「どうしよう?」と顔を見合わせましたが、「このまま放っておいてもいいんじゃない?」とか、「誰のか分からないから、もらっておこうか?」とか、「黙っておけばいいんじゃない?」といった誘惑が、お互いの思いに中に、すっと入って、それが口から出て来たと思います。そんなああでもない、こうでもないと言いながら、結局はどうしたかというと、その壊れた自転車を、交番に持って行こうということになり、交番に行きました。そこでおまわりさんに、どこにあったかとか、いろいろ話して、書類に名前と住所を書いて渡しました。おまわりさんからは「何かあったら、知らせるからね」と言われて、そのまま家に帰ったんですが、その日の夜のことです。交番から電話が入りまして、その自転車は、盗まれた自転車だということと、盗まれた人が、お礼に伺いたいということでした。後日、その持ち主の方が、来られて、「ありがとうございました~助かりました~」とお礼を言いに来られた時、「あの~これ、つまらないものですが・・・」と言って、包み紙にくるまれた大きな箱を、はい!どうぞ!と頂いたのでした。その箱の中を見ると、たくさんのお菓子が入っていました。それを一緒に見つけた友達に、分けたことでしたが、「あの~これ、つまらないものですが…」と言われた時、つまらないものと思うどころか、自転車がどうこうよりも、お菓子に目が釘付けになり、お菓子をもらった!ことが、嬉しくてたまらなかったことを思い起こします。

 

別にいいんじゃない?このまま放っておいてもいいんじゃないの?そういう誘惑というのは、すっと入ってくるんです。一瞬のうちに、さあっと来るんです。そういう意味では、ユダが、イエスさまを裏切ったことと、同じことが、誰にでも起こりうるんです。

 

そんな中で、イエスさまが言われたのは、ただ「今や、人の子は栄光を受けた」です。その意味は、人の子であるイエスさまが、光り輝いたとか、神々しさをもって、その姿を現したということではなくて、神さまの本質が完全に現れたということなんです。そしてその本質は、必ずすぐに与えると言われたイエスさまの十字架の死と復活において、現されているんです。

 

しかし十字架の死ということは、イエスさまがなくなられるということです。

しかも十字架刑に処せられ、見世物として公開処刑されるということですから、このことが、どうして栄光を受けたとか、神さまの本質が完全に現れたと、受け止められるのでしょうか?しかも、イエスさまは「成し遂げられた」と叫ばれて、息を引き取られたその時、「全地が暗くなった」すべてが暗闇に包まれ、暗闇の中にあったということですから、そんな暗闇に包まれている中で、神さまの本質が現わされたと、どうして言えるのか?疑問を持たれるかもしれません。しかし、神さまが神さまとしての栄光を表されるのは、神々しさの中で、光り輝く中で、ではなくて、暗闇の中で、でなんです。

 

だからこそ「光は暗闇の中で輝いている」なんです。その暗闇は、私たちにとっての暗闇の中でも、そうです。たとい、私たちにとっては、何も望めない、希望も何も見えない、真っ暗な中であっても、そこで神さまは、神さまの栄光を表されるんです。しかも、すぐに、直ちに与えられるんです。ということは、私たちにとって、何も見えない、何も望めない、何も物事が動いていないように、見えていたとしても、その暗闇の中で、神さまは、新しいことを、その時すぐに、始めてくださるんです。

 

それはユダの裏切りの中で、共にいた弟子たちにとっても、そうです。イエスさまを十字架につけるということを、具体的に始めてしまったユダとの関係は、壊されました。そしてユダを赦せないと言う思いが渦巻き、暗闇に包まれた関係となってしまったことでしょう。

 

しかし、そんな暗闇の関係の中で、イエスさまは、「互いに愛し合いなさい」と二度もおっしゃられるのです。でも、互いに愛し合うと言うことを、どうやったらできるのでしょうか?どうやってしろというのでしょうか?到底できませんと受け取ったことでしょう。ではユダが出て行った後、残った弟子たち同士が、「あなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた通りにできたのかというと、出来ると思っていたかもしれませんし、できないことを予想もしなかったかもしれません。しかし実際には、イエスさまをも愛すること、大切にすること、守ることが全くできなかったんです。

 

でもそうなって初めて、赦すことも、互いに愛し合うこともできない、そういう人間だと言うことに気付かされ、そういう自分自身に向き合わされ、破れだらけの人間だということに気付かされた時に、自分も暗闇の中にあったんだ、暗闇に包まれた一人の人だったのだと、気づかされた時、初めて神さまの愛を、暗闇の中で、知るようになるのではないでしょうか?

 

では、それを認めることは、簡単なことかというと、大変厳しいことですし、辛いことです。落ちるところまで落ちたと言ってもいい中で、いじけてしまうかもしれません。落ちるところまで落ちても、そういう自分を受け入れることができなくて、なお、もがいて、あがいてしまうこともあるでしょう。しかしそうであっても、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃられたイエスさまに対して、自分の醜さがあるんです。愛のなさ、を思い知らされていくんです。だからこそ、神さまの愛、赦しが、私にも必要なんだと気づけるようになるのではないでしょうか?そして、そんな自分達であっても、それでも神さまが、ついていてくださり、守ってくださり、支えてくださっている、神さまの愛に触れていくのではないでしょうか?そういう意味で、イエスさまがおっしゃられた「互いに愛し合いなさい」というのは、出来る私たちから始まるのではなくて、「できない」ことから始まるんです。そのできないという自分自身の暗闇を、そのまま受け入れた時に、初めて、イエスさまは、「互いに愛し合う」ということを、かたちにして与え、かたちとして受け取れるようにしてくださるんです。

 

先週礼拝後、総会が持たれました。必要な色々を決めることができ、祈りをもって閉じられました。その総会の中で、この新しい会堂の返済についての報告がありました。後240万円ほどになったということでしたが、それは1000万円借りて、その1000万円を10年かけて返していくと言う計画で始まったものです。それで会堂、牧師館が無事に建築できたのですが、具体的には今から6年前、2020年着工でした。さて、2020年というと、コロナが世界中に広まり、4月のイースター礼拝をお祝いすることができなくなり、しばらく教会に集まっての礼拝が出来なくなっていた時期です。人に会うこともなかなかできない、人としゃべることもできない、教会によっては、讃美歌を声に出して歌うことも、できない、どこかに出かけることすらできないといった、できない、できない、ずくめの毎日だったと思います。その他、マスクも手に入らないとか、生活のいろいろなところに、大きな影響がありました。そんな中での着工でしたが、建て始めたはいいけれども、後任の先生もまだ何も決まっていませんでした。決まるかどうかも、誰にも分らなかった中にありました。しかし、神さまはできない、出来ないという中で、また誰にも分からない中で、物事を前に向かって、動かし、進めてくださっていたんだということを改めて思います。やがて建築と同時進行で、招聘の話があり、9月からそのことが動き始めました。一方で、私はというと、会堂建築が着工したことも、何も知らない中にありました。それでも物事は、進んで行くんです。その具体的な1つに、お見合い説教に来てほしいということになりまして、2020年11月28日に初めて、伺ったことでしたが、その時、丁度コロナ対応で、たくさんの方々に旅行をしてほしいというキャンペーンが全国的にありました。それが「GOTOキャンペーン」です。それを使うと、切符代も、宿泊代も大幅に割り引き。お土産券迄ついて、それで格安で伊那に来ることができたのですが、そのキャンペーンは、コロナが、またはやり出したために、同じ月の11月30日で使えなくなってしまいました。だから、11月28日というのは、本当にギリギリのタイミングだったと思います。でもその中に、GOTOがあったんですね。GOTO、そこへ行きなさい、そこに行け!が、お互いに何もできない、できないと思っていた中で、何も分からない、それこそ暗闇の中で、神さまは、物事をGOTO、動かしてくださっていたんです。やがて会堂が建てられて、牧師館も建てられていくんです。そのタイミングもまた、2020年が、ギリギリだったと思います。今、同じものを同じ金額で立てられるかといったら、到底無理です。できません。だから会堂建築にも、神さまは、GOTOだったんですね。

 

こうして出来上がった会堂のために、お借りしたものを返す計画は、10年でしたが、神さまは、10年ではなくて、7年で出来る見通しを、今立てて、与えて下さっています。そして、イエスさまがおっしゃられた「互いに愛し合いなさい」も、できない、できないと思っていた中で、もうすでに、かたちとなって、与えられているんです。神さまが、イエスさまを愛してくださったように、あなたがたも互いに愛し合いなさいが、イエスさまから、もうすでに届けられているからです。

 

祈りましょう。

説教要旨(4月26日)思い知らされて(ヨハネ13:31~35)