2021年9月19日礼拝 説教要旨

あたりまえ(マタイ19:13~30)

松田聖一牧師

そんなこと、当たり前でしょう!という時、当たり前でしょう!と言うその人にとっては、これが当然、当たり前だというものがあって、そのところから、言っています。例えば、朝、一日の始まりに、鏡を見るとか、畑に行くとか、水分を取るとか、必ずすることが、それぞれにあると思いますが、それはその人にとっては、当たり前の事です。他にもいろいろあると思いますが、自分にとって、これは当たり前、ということが、それぞれにあります。そこには受け継いだものもあるでしょうし、これはこうするものだ、と有無を言わせずに、教え込まれたものもあると思います。それはしみついていますし、その人自身にもなっていますし、それが自分を支えているものになっています。自分を自分たらしめるアイデンティティにもなっているでしょう。だから、なかなかそこから違う考え方や、行動に移すことは、難しいです。人間は、それなりに出来上がっていますと、変えられないし、変えようとすることは、大変だと思います。

 

それは、弟子たちにとってもそうです。というのは、この聖書の箇所の中にあります、彼らにとっての、当たり前の一つは、子どもたちを祝福する人は、祭司であるということです。子どもたちを祝福してほしいと思ったら、祭司のところに連れて行って、祭司に祝福していただくことが、この時も、ずっと受け継がれていましたから、弟子たちもそれに倣え、でした。ですから弟子たちにとっても、子供を祝福する人は、イエスさまではなくて、祭司です。イエスさまのところに子どもたちを連れて行くのではなくて、祭司のところに連れて行くことが、弟子たちにとっての当たり前です。そして弟子たちは、イエスさまのところに子どもたちを連れてきたこの人々を、叱った、怒鳴り散らした、そして子供たちがイエスさまのところに来させないようにするのです。イエスさまの弟子なのに、イエスさまに従っているはずなのに、イエスさまのところに子供を連れて来るのではなくて、祭司のところに連れて行くようにするのです。

 

それは、ただ単にイエスさまのところに連れて行くのは、間違いで、祭司が正しいということからだけではなくて、弟子たちにとっての、当たり前ではないことを、目の前でされたので、それは当たり前じゃない、違う!ということと、もう一つは、自分自身を支えてきた、私の当たり前が壊されると受け止めたからではないでしょうか?これが当然だ、祭司のところに連れて行くことが、当たり前で生きて来た,その当たり前が自分たちを支えていた弟子たちにとっては、自分の当たり前がガラガラと壊されていくように感じた時、自分自身も壊されていくように思うのではないでしょうか?つまり、自分自身が壊されていくことへの必死の抵抗とも言えるのではないでしょうか?自分の当たり前が壊されることへの、恐れもあったかもしれません。それゆえに怒鳴りつけた、弟子たちに向かって、イエスさまは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と弟子たちに、「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と、弟子たちが拒み、自分の当たり前が壊されることへの必死の抵抗をしようとしている、その弟子たち自身に、今受け止めている、自分にとっての当たり前のこと、そしてそれを当たり前のこととして、握りしめていたこと、これがなくなったら自分自身が壊されていくと受け止めていた、そのことを、弟子たち自身が、壊していくように、イエスさまはおっしゃられ(15)そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

そこから続く、イエスさまが出会う一人の男、後から青年と分かってきますが、その彼が「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」よいでしょうか、ではなくて、よいのでしょうか。ということにも、彼自身の中に、当たり前が見て取れます。というのは、既に彼は善いことをしてきていて、彼自身の中には、もう自分は、永遠の命を得ることができるという前提、実績をこの手に持っているという当たり前、当然というニュアンスがあります。

 

というのは永遠の命を得るには、イエスさまに言っているこの言葉は、これから未来に、永遠の命を得ることのために、という意味というよりも、もうすでに、手に持っている、準備して備えている、握っているということが、「得るには」という言葉に既にあるからです。つまり、この青年の中には、もうこれがあるから自分自身が永遠の命を得られている、もう自分はこれがあるから大丈夫的なものであったことが、彼の支えになっているのです。もう僕は既に得ている、それが彼を支える、当たり前の一つでもあるでしょう。

 

それに対して、イエスさまは、「なぜ善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とおっしゃりますが、掟を守りなさいという意味は、掟に傷かつかないように、汚れない状態を保持しなさい、保ち、持っていなさいという意味ですから、かすり傷一つついてもいけないのです。ちょっとでもダメです。それは旧約聖書では、傷のない羊とか牛をささげていきましたことから来ています。

 

そういう傷一つない状態に守りなさいと、イエスさまから言われたときに、この青年は「どの掟ですか」と答えていくのは、傷のない状態に守りなさい、完全に守れと言われたその掟は、彼にとって全部ではなくて、自分の中で、どれか特定された掟の事をさして、イエスさまがおっしゃっていると受け止めているのです。そして、彼の中では全部、それも完全に、傷のない状態ということよりも、全部から、一部の掟、いろいろある掟の中で、どれですか?ということに、すり替わっているのではないでしょうか?でもそれが彼にとっての、当たり前になっているのではないでしょうか?

 

この掟、この一つを守ればそれでいい、ということ。これをしたら、もう私は全部したことになる。ここまでしたからもう私はした、という感覚です。

 

務めていたある時、家庭科の先生から、家庭科について、教えていただいたことがありました。確か自分の担任しているクラスでお楽しみ会を、家庭科室ですることになり、家庭科の先生にいろいろお願いに伺った時、見てごらんと言われて、家庭科室の中を見せていただいた時の事でした。家庭科では調理実習というのがありますが、それが丁度終わった時の、家庭科室でした。家庭科室を見せていただきながら、その先生が言われました。「お料理を作ったら終わりじゃないわよ~~。作って、食べて、後片づけもちゃんとしないと、最後までできたことにならないわよ~。」そして、ちゃんと片づけができていないところを「ほら!」と見せていただきました。片づけができていないところでした。「お料理を作ったら、それで終わりじゃないのよ~最後までして初めて調理実習なのよ~」

 

それは、調理実習だけではないと思います。自分の中で、ここまでしたら、もうできているという感覚が、他にもあるのではないでしょうか?そのことをしている最中は、自分の中では一生懸命です。自分なりに、出来たつもりになっています。できた、できていると思っています。でもそれはある部分だけであって、全部ではないですね。

 

イエスさまに「どの掟ですか」と尋ねた意味はそういうことです。そしてイエスさまから掟の内容を語られた時には、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」守ってきたという彼の中の当たり前、その当たり前に基いた実績をしっかりと持っているからこそ、守ってきました。「まだ何か欠けているでしょうか。」が出てくるんです。そこには、掟、律法に対して、掟を自分なりに守りさえすれば、それは全部できたことになると受け止めているからです。でも本当は完全に、100%守らないといけません。それなのに、それを100%、全部ではなくて、自分の中で、狭めようとすること、「まだ何か欠けているでしょうか」、欠けているのに、欠けていることに気づかない、気づかないことが、当たり前となっていることが、「どの掟ですか」にも表れているのではないでしょうか?

 

そういう自分の中で、狭めていくというのは、「だれが救われるのだろうか」と言った弟子たちの、この言葉にも見られます。神さまは全ての人を救おうとしておられます。ところがそれを狭くしてしまう、あるいは誰がそれに値するのかと、価するのかと、自分の中で、それを狭く見てしまう、とらえてしまうのではないでしょうか?

 

それはその時々の、当たり前があるからです。その人、その人のマス目があって、その狭いところからでしか見ることができないからです。そこからしか見ていないし、見えないものです。

 

ところがそういうことを言っている弟子たちの中で、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」金持ちの青年が立ち去った後、ペテロがこんなことを言うのは、あの青年は立ち去ったけれども、私たち弟子たちはそうではない、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。と言わしめるペテロの自信、と言いますか、ペテロの自信過剰と言いますか、それも彼のこの時の当たり前というところからの言葉です。そしてついにと言いますか、あつかましくも「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と大変素直に、正直にイエスさまに言っていきますが、だからこそイエスさまは、金持ちの青年もそうです。弟子たちもそうですが、自分自身の当たり前にとらわれているからこそ、それをイエスさまは壊そうとされ、同時に、その当たり前とは、全く違うはるかに超えたことを、イエスさまは、どんなに、自分の当たり前を手放せず、とらわれていたとしても、思いをはるかに越えたところで、思いをはるかに越えたところ、思い描くことすらなかったところから、祝福を与えてくださいます。それは最初からだけではなくて、後からも与えて下さいます。後からやってくるのですから、そこには逆転人生があります。

 

福島第一聖書バプテスト教会という教会があります。今から10年前に、東日本大震災による、原発事故、放射能汚染によって、その教会はそこでの教会活動ができなくなりました。一度20年ほど前に伺い、何日か過ごしたことがありました。礼拝堂が一つだけではなくて、何か所にもありました。家庭集会が何か所もなされていて、そこを先生と一緒に、めまぐるしく車で走り回るといったスケジュールでしたが、牧師の働きというのは、こういうものだということを感じさせられた出会いでした。いいなあと思いました。走り回って、動き回ること、それは自然なことに思いました。また自然が本当に豊かなところで、サケが毎年上ってくる川とか、ホッキガイを初めていただいたことなどでした。ところが、10年前に地震が起きてから、教会の方々と一緒に、山形に行かれ、東京の奥多摩のキャンプ場での避難生活を経て、もう一度福島に戻りたいという願いと祈りを持って、いわき市に新しい会堂を立てていかれるのですが、その先生が書かれた著書「悲しみの過去を手放し、希望の未来へ」と題しての本の、紹介が信徒の友にあり、その紹介にはこうありました。

 

「東日本大震災の福島第一原発事故ですべてを失った佐藤彰牧師。喪失の中で示された御言葉から新たに歩み始めた時、荒れ野に道があったことを知った。その経験に基づき、コロナ禍の不安を生きる人々に、「悲しみで未来を染めるな。必ず道はある」と説く。

 

聖書の御言葉に、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ43章19節)」新しいこと、それをわたしは行う、神さまが行ってくださいます。今や、それは芽生えているのです。私たちの当たり前をはるかに超えて、わたしは行うと約束してくださっています。その約束通りに、与えてくださいます。

 

その時、私たちにとって、その当座の当たり前には、私の当たり前があります。悲しみであれば、悲しみです。失ったということからしか、物事を見ることも、考えることも、出来なくなってしまうことも、その時の当たり前です。それがすぐに解決できるかというと、なかなか時間がかかることもあります。解決できないままのこともあります。それも仕方のないことだという、ある意味で当たり前と受け止めざるを得ないこと、そういうあたりまえを抱えながら、それでも前に向かって行きようとする中で、イエスさまは、今だけを見るのではなくて、それだけで見るのではなくて、必ず道は開かれること、荒れ野に道を、荒れ野に大河を流れさせてくださるお方である神さまが、道を切り開いてくださると、与えておられます。

説教要旨(9月19日)