2021年8月29日礼拝 説教要旨

すっかり売り払って(マタイ13:44~52)

松田聖一牧師

1947年にイスラエルにあります死海という海の周辺の洞窟でたくさんの聖書の写本が発見されました。世紀の大発見とも言われていますが、羊飼いの少年が発見したことから始まります。しかし、少年が洞窟にあるもの、巻物の断片や、壺などを見て、これは聖書だ!と分かったわけではなくて、その少年にとっては、なんだかよく分からない壺の中に入っていた巻物などの価値を見出してくれた学者たちがいて初めて、これはすごいものだということに繋がっていきました。そして調査が進むにつれ、旧約聖書のイザヤ書がほぼ完全な形で発見されたわけですが、これも学者たちは、これはイザヤ書だということを見つけてくれたから、これはすごい!というニュースとなっていくのです。さらに研究が進むと、死海写本のイザヤ書と、現在の旧約聖書ヘブライ語聖書とを比べても、何千年前に手書きで書かれているものなのに、ほとんど間違えなく書かれていることも分かってきます。その他にも、いまだに研究されていますが、旧約聖書の断片がその写本群の中にあって、それが聖書のどの箇所なのかを、ピンセットや、顕微鏡などを使いながら、どこにあるか、捜して、捜して研究する作業が続いています。そして、その断片が、どの箇所か分かった時には、研究者は大いに喜ぶのです。それほどに聖書が宝物として大切にされているわけですが、そのように、大切なものを、大切にするそのやり方が、イエスさまの譬えに出てきます宝にも当てはまるのです。

 

というのは、当時大切なものは、壺に入れて保管して、畑や土の中に壺ごと隠すというやり方でした。死海写本においては、保管場所は洞窟でしたが、イエスさまのおられた時、壺に入れて、畑や土の中に、壺ごと隠すことが、安全な隠し方でした。そういう意味が「畑に宝が隠されている」にはあります。ただ単に、宝を畑の中に埋めておいたということではなくて、大切なものだからこそ、壺に入れて安全に隠されていたのです。しかも宝と訳されている言葉には、宝箱とか、貯蔵された財宝といった意味も含めての宝が、壺に入れられて畑や土の中に隠されていました。

 

その宝を「見つけた人は、そのまま隠しておき喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とイエスさまは続けますが、宝を見つけたその人が、その宝をそのまま隠して、畑を買うというこの行動は、不思議な行為に見えるかもしれません。せっかく見つけたのだったら、そのままその宝だけを買えばそれでいいのに、どうしてその宝があるその畑ごと買うのか?と思われるかもしれません。実はそれも、この当時のやり方でした。それはその宝を見つけた時、掘り当てたその人のものにすることが出来たのですが、その宝を見つけたその人のものになるためには、その宝があるその土地全部を買い取るという条件で、自分のものにできました。だからその宝が欲しかったら、その土地全部を買いとる必要がありました。だから隠しておいて、またその宝を掘り返して、宝だけを買うのではなくて、その宝がある畑全体を買うということになるのです。

 

そこでこの人は、その宝を自分のものにしようとして、持ち物全部、すっかり売り払ってその畑を買いますが、そもそもこの見つけた宝を買うために、自分の持物をすっかり全部売り払っていいのでしょうか?というのは理由があります。1つは、すっかり売り払う自分の持ち物は、売ってもいいもの、自分の手元に置いておかなくてもいいもの、ではなくて、もともとの意味は、自分にとってどんなに素晴らしいものか、素晴らしいという限度一杯のものを全部、全て、ということです。つまり売ろうとしているその人にとって、本当は手放したくないほどの、すばらしいものをすっかり売り払おうとしていくのです。

 

それほどに、見つけた宝の価値があるのか?畑ごと買ってもいいと受け止められるほどに価値があったのかというと、具体的にその宝の金額が出てはいません。畑がどれくらいの値段だったのかも分かりません。畑の値段よりも、宝の値段は高かったのか?持ち物をすっかり売り払った金額以上に、宝の価値があったのか?具体的な金額が分かりませんから、何とも言えません。そういう意味で、本当にすっかり売り払っていいのか?と思わずにはおれないことをこの人はしています。しかし、この人は、この宝を手に入れるために、自分のものとするために、自分の持ち物、これ以上素晴らしいものはないものを全部、売り払ったのです。

 

それほどに、この人はその宝を必要としていたからではないでしょうか?そのために、見つけた喜びの中の、「見つけた」というもともとの意味にあるように、この人は、本当に努力して、ようやく発見した、尋ねだしたということは、この宝があれば、これさえあれば、もう他はいらない!と言う宝を、尋ね出そうとしていたということです。本当に努力して見つけようとして、捜し求めて、そしてその努力の末に見つけた時、これまで自分が本当に大切にしていたものを、全部手離してもいい!という喜びがありました。

 

それは高価な真珠を見つけた商人も同じです。彼にとっても、その真珠はなくてはならない真珠です。それを必要としていました。そしてその探し求めていた真珠と出会った時、自分にとって、これ以上の素晴らしいものはないというものを、全部売り払うために、出かけて行って、持ち物をすっかり売り払うのです。その時、売り払ったその持ち物を、すっかり買い取ってくれる相手がいたということです。そしてその持ち物を全部買い取ってくれたその人は、この商人が、自分の持ち物を全部売り払ってもいいという、喜びにあふれているその姿にも触れていくのではないでしょうか?そしてこの商人から買い取ったこの人も、この商人の見つけた喜びを、持ち物を全部買い取るという形で、分かち合っていくのではないでしょうか?

 

そういう喜びというのは、広がっていくのではないでしょうか?こんなに素晴らしい、こんな高価な真珠を見つけた!という喜びは、出かけた先で出会った、その人にも伝えられ、広がっていくのです。

 

中学生の時から、大学生にかけて出会った、日本基督教団の先生の一人に松岡忠次郎先生と言う方がいらっしゃいました。初めてお会いした時には84歳になっておられましたが、その礼拝説教が1時間を超える説教であったのに、先生を通して語られる神さまの愛、その愛に触れた喜びにあふれた姿は、大きな感化を与えました。年に何回か来られたわけですが、御自分の惨めさを味わい知ったとき、初めて教会を訪ね、礼拝での説教を聞いた時のこと、説教者を通して、神さまはあなたを罰するために来られたのではない。あなたを愛し、赦すためにイエスさまを送ってくださったのだということに、心打たれたことなど、神さまに愛されていること、赦されていることを、嬉しそうに何度も何度も手をたたきながら語られたのでした。本当ですよ!と嬉しそうに神さまの愛を語られたその先生は、活水の群れに属しておられたことで、戦時中は特高の取り調べを受けたことなど、厳しい時を通られたと知りました。そのことをあまりおっしゃいませんでしたから、相当いろいろあったと思います。そんな先生を通して語られる説教、御言葉の説き明かしを全部覚えているわけではありませんが、神さまの愛、イエスさまの愛は本当ですよ!と語られた、その喜びの姿は、当時の私に大きな深い印象を与えたのでした。

 

そのように、喜びというのは、伝わるものです。広がっていくものです。その広がりを、イエスさまは「また、天の国は次のようにたとえられる」と、魚を集めることをたとえて語られるのです。(47)また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

 

この網とは底引き目の大型の網です。底引き網用のものと言ってもいいでしょう。それで魚を取れば、底引き網ですから、根こそぎということになり、本当にいろいろな魚を集めることになります。その網をあげたら、いろんな魚、いろんな種類のものが中に入っています。

 

それを分けていく分け方は、「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」と良いものは器、壺とも訳せますが、大切なものとして畑に隠されていた宝を入れるように、壺に、良いものは入れるのです。その反対に、悪いもの、古びたとか、腐ったとか、だめになった、役に立たない、質の悪い、不健全なという意味ですが、そういうものが中にいたら、岸から、浜辺、渚、から「投げ捨てる」のです。具体的には、どこに投げ捨てるのかというと、網を降ろした湖にではないでしょうか?例えば、漁師さんが漁をするとき、船の上で網を引っ張り上げていくとき、いらない魚や小さすぎる魚は、海に返していきます。その時、そうっとではなくて、投げていきますね。それと似ているかもしれませんが、役に立たない魚は湖に投げ捨てるわけですが、捨てられるだけで終わるのではなくて、元の湖に戻されるということではないでしょうか?そこでまた生きていくことになりますし、残念ながら、その魚が腐っていたら、湖の中で分解されて、他の魚のえさになったり、土に帰っていきますから、そのまま腐った状態では残りません。分解されて他の生き物の命を支える命として用いられていきます。

 

つまり、見つけた喜びは広がっていきますが、同時に、喜びと共に、喜べないこともあるということです。いろいろな魚が入ってくるように、喜びだけではないものも、いろいろ私たちに入ってきます。喜べないことも、いろいろ経験します。経験したくないことも経験します。そこで受け入れたり、投げ捨てたりしていくのではないでしょうか?もうこれはいらないと投げすてていくのです。でも、もうこれはいらない!もう必要がないと投げ捨てたものでさえも、イエスさまは、それらのものが両方あることを受け入れていて下さるのです。

 

それが「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」のしていることに繋がります。主人が、新しいものと古いものを取り出す前にしていることは、この主人は、新しいものも、古いものも、自分の倉、これは宝箱とも訳せる言葉ですが、自分の宝箱に新しいものも、古いものも、かけがえのない宝として、受け入れて下さっているのです。そして、そこから出していかれるんです。

 

そのようにいろいろあっても、良いものも、悪いものもあっても、両方をイエスさまは自分の宝箱に受け入れて、そこから取り出してくださるのは、私たちにとって、良いものも、悪いものも、私たちは受け入れることができないものでさえも、御自分の宝箱に受け入れてくださり、そこから取り出して下さったとき、新しいもののまま、古いもののまま、良いもの、悪いものと分けられたものではなくて、イエスさまの喜びにあふれたものとして、私たちに与えられていくのではないでしょうか?

 

イギリスのオペラ界で人気絶頂のオペラ歌手がいました。彼女の歌は人々を魅了しました。人気はますます高まり、彼女が歌う舞台はチケットが完売し引く手あまたでした。マネージャーからもドル箱として必要とされていました。しかしそんな彼女にとって、名声や人気というのはしょせん移ろいゆくものであることを感じていました。その世界の中での競争心やねたみ、陰口、良い役柄をもらうための画策をめぐらすことにも疲れていました。自分が場違いなところにいるような気がしてなりませんでした。そういう中で、喝采を浴びれば浴びるほど虚しくなっていきました。そんなある晩のことです。静かな裏町を歩いていると、一軒の家の窓辺から明かりが漏れて、讃美歌が聞こえてきました。その家で家庭集会が開かれていました。そこには彼女の知らなかった安らぎが溢れていました。彼女は引き寄せられるようにその家に入っていきました。やがて教会に通っていくうちに、彼女は、神さまのためだけに歌いたいと思うようになり、オペラ界から引退しようとしてマネージャーに話しました。でも彼女はオペラ界にとってドル箱でしたから、何度頼んでも引退させてくれませんでした。そこで彼女は一つの決断をしました。ある晩、舞台でドラマが進んでいき、オーケストラの前奏に続いていよいよ彼女の出番アリアを歌うシーンに差し掛かった時です。彼女は舞台に立ったまま、沈黙しました。オーケストラの指揮者もびっくり。もう一度繰り返しましたが、何度やっても彼女は歌いませんでした。その劇場にいたお客さんも何が起こったのか?さっぱり分かりませんでした。すると彼女は讃美歌を歌い出しました。そしてこう続けました。「私は今晩のステージを最後に、これからは子どもたちのために、神さまのために歌います」と言って静かにステージを去りました。その時に賛美した讃美歌はこんな歌詞でした。「神の恵みは限りなくとも 赦さるべきか、この罪人は。みいつをなみし、みわざをあざみ、長く恵みに 背きまつりぬ。いかですつべき、惑わで来よと、御手を広げて 主は待ちたもう。主のあわれみの 涙に宿る 父のみかみの めぐみはつきず。」

 

会場は騒然となりました。彼女のアリアを聞くために来たのに何事かと怒り出す人がいると思えば、感動して泣きだす人もいました。そういう両方の方々がいる中で、「惑わで来よと、御手を広げて 主は待ち給う」神さまは手を広げて、私のところに迷わないでまっすぐに来なさいと、待っておられる、その讃美が劇場に広がっていきました。神さまのその恵みは尽きることはありません。と讃美歌が届けられたのでした。

 

私たちにはいろいろなことがあります。良いものも、悪いものも、喜べない者も、いろいろ入ってきます。そんな、私たちにとって、良いものも悪いものも、イエスさまは、両方受け取ってくださいます。両方を宝箱に入れてくださり、そして、そこから出して下さるものは、イエスさまの十字架の赦しと一緒にあります。イエスさまの赦しと一緒にあるので、それら全ては、私はあなたをもう赦しました!この赦しと共に、取り出されたものが、私たちに与えられています。そして与えられたものが、喜びと共に、そこから広がっていくのです。

説教要旨(8月29日)