2024年3月31日 イースター礼拝 説教要旨

おはよう(マタイ28:1~10)

松田聖一牧師

 

オランダ出身で、アメリカのハーバード大学でも教えておられ、後に、大学の教授を辞して、ハンディを持っておられる方々と、共に共同生活をされた、ヘンリーナウエンという方が書かれた本の1つに「嘆きが踊りに変わる」という本があります。そのタイトルは、詩編の言葉「あなたは、わたしの嘆きを踊りに変えてくださいました」から、つけられたものです。嘆きを喜びに、ではなくて、嘆きを踊りに変えて下さいましたというのは、ものすごい変化だと思いますが、そんな、この本の中に、こんな一文があります。

 

わたしたちは喪失の悲しみを目をそらさずに見据えるすべを身に着けることができます。人生で遭遇する痛みを、否定するのでなく、迎え入れることによって、期待もしなかったことを見出すでしょう。

 

喪失の悲しみを見据えること、人生の痛みを否定するのではなく、迎えいれること・・・それはまた受け入れることである、と言ってもいいでしょう。しかしそういうことを、私たちが、ああその通りだと、そのまま受け入れられるかというと、なかなかそうはいきません。なぜなら、私たちにとって、失うことは、悲しい出来事ですし、失うことはできたら避けたいことだからです。痛みも、痛い時は、本当に痛いですから、その痛みを迎え入れるということは、並大抵のことではありません。随分前ですが、歯医者に行って、治療していただきました。その時、歯医者さんから、「痛みますよ~」と言われて、痛み止めを入れておきますから、痛かったら飲んで下さいということで、いただいて帰りました。でもその時には、高をくくっていました。気持ちとしては、多少は痛いかもしれないけれども、大丈夫だろう・・・と思っておりましたら、帰ってしばらくすると、本当に痛み出しました。本当に痛いのです。何をしても痛い!痛みで何もできない状態になった時に、ようやく痛み止めを飲んで、そのまま倒れ込んでしまいました。気が付いたら、寝てしまっていました。そういうことは、いつもあるわけではありません。しかし、本当に痛い時には、否定できるとかできないとかというよりも、その痛みを否定しようがありません。むしろ、痛いことを、迎えいれるというよりも、その痛みを、受け入れるしかないのです。

 

失うことも同じです。失った時には、失っています。だから、失ったものを取り戻すことはできませんし、失う前の状態に戻ることもできません。つまり、失うという時、失ったこと、その悲しみに目をそらさずに、しっかりと見据えていく、あるいは失うということを受け入れるという意味は、失う前のこと、失う前の、過去に縛られることから、離れて、これからに目を向けていく、ということではないでしょうか?その時、期待もしなかったことを見出すことができる、まさに踊りに変えられるということが見出せるという、神さまの約束に向かっていくことでもあります。しかし現実には、なかなかそうはいきませんね。失う前の過去と、失った現実の間を、行ったり来たりするものです。もちろん、過去は変えられないということが、頭では分かっています。でも、時間が経てば、過去を受け止められるようになるかというと、私たちの気持ちは、どんなに時間が経ったとしても、やっぱり揺れ動きます。切り替えができることではなかなかありません。

 

それは、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に墓を見に行った、マグダラのマリア、もう1人のマリア、にもあったのではないでしょうか?しかも、この時、彼女たちは、イエスさまを十字架の死によって失ったばかりです。彼女たちの目の前で、イエスさまが、わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?と叫び、成し遂げられたと言われて、息を引き取られたこと、そしてイエスさまの亡骸が、十字架から降ろされ、墓に葬られ、その墓穴を大きな石で封印するという出来事が、あったばかりです。ですから、過去に向き合うとか、失った過去に縛られているといったことを、振り返る余裕すらなかったのではないでしょうか?

 

そんな彼女たちが「墓を見に行った」とありますが、この時までにも、彼女たちは、イエスさまが葬られる時にも、墓を見ているのです。しかし彼女たちは、イエスさまを十字架から降ろすことにも、遺体を受け取ることにも、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った墓の中に納めることにも、関われていないのです。何も手伝えてはいないのです。目の前であったイエスさまの十字架の死ということに対しても、何にもできませんでしたし、どうすることもできませんでした。ただ見守るしかなかったのです。

 

だからこそ、彼女たちは、イエスさまのために、何かをしたかったのではないでしょうか?イエスさまの亡骸を整えたかったことでしょうし、しっかりとお別れがしたいという思いもあったと思います。そうすることで、自分たちのイエスさまを失ったという悲しみを、悲しみとして出すチャンスとなったと思います。同時に、彼女たちにとっても、イエスさまとのお別れができたという、自分の気持ちの1つの区切りとなっていくのではないでしょうか?そういう意味で、悲しみを悲しみとして、しっかりと出せないままだと、あのとき、何もできなかったという思いが、後々まで引きずるのではないでしょうか?

 

しかし、彼女たちが見に行った、そのお墓の入り口には、大きな石で封印されているのです。またそこには番兵たちがいて、どんなに彼女たちが、墓の中にいるイエスさまの亡骸に会いたいと思っても、勝手に墓の中に入ることができない状態です。ということは、彼女たちが抱えていたイエスさまを失った悲しみ、何もできなかったというその思いも、出せないということになります。それなのに、墓を見に行ったのは、直接亡骸を見ることはできなくても、イエスさまに対して、何もできなくても、少しでも近くにいたい!少しでもイエスさまの近くにいて、同じ空気を吸いたいという思いではなかったでしょうか?

 

そんな彼女たちが墓を見に行った時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」という、今まで経験したことのない出来事に、遭遇するのです。その時、墓穴を封印していた石が転がされ、またその墓に勝手に入れないようにしていた番兵たちも、死人のようになって、何もできない状態になっていたということですから、彼女たちは、自由に墓の中に入ることができるようになり、イエスさまの亡骸にも会うことができるようになったのです。ですから、それだけを見たら、彼女たちの、イエスさまの亡骸を丁重に扱い、しっかりと見送りたいという願いが叶えられていくことになるのではないでしょうか?

 

ところが、天使の言葉は「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」ですから、彼女たちが、おられると思っていたところ、墓穴には、イエスさまは、いらっしゃらないという知らせです。でも、天使のこの言葉をよく見ると、「あの方は、ここにはおられない」ここには、おられないということですから、ここにはおられない、けれども、全くおられない、存在がないということではなくて、ここじゃない別のところにおられるという知らせなのです。

 

それがこの知らせ「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」すなわち、かねてイエスさまがおっしゃっていた通り、復活なさったのだ、イエスさまは生きておられるという知らせです。その通り、遺体の置いてあった場所には、確かにイエスさまはおられないわけですが、彼女たちは、墓穴に入ることができるようになったのに、その墓の中に入って、さあ見なさいと天使から言われているのに、中に入って天使が言われたことを確認していないのです。

 

彼女たちは、ただ「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』と告げられた時、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行」くんです。

 

せっかく墓の中に入れるのに、それをしないで、弟子たちにイエスさまが甦られ、生きておられることを知らせるために、走って行く彼女たちに、何が起こったのでしょうか?その内面については、具体的には分かりません。ただ言えることは、それまで墓を見に行くという方向であった、彼女たちが、イエスさまが復活なさったのだという言葉によって、木っ端みじんに壊して頂けたからではないでしょうか?それはまた、イエスさまの言葉によって、それまで彼女たちが、向かっていた墓を見に行くという方向から、復活のイエスさまへと向きを変えて下さったことでもあるのではないでしょうか?

 

つまり、イエスさまの言葉、イエスさまが復活され、生きておられるという知らせは、人がそれまで抱き、離れられないでいたことを、こなごなに砕いていかれるのです。それはまた彼女たちだけではなくて、私たちがこれまで離れられなかった思いや、行動、こうあれねば、こうでなければ・・・ということを、こなごなに砕いて、壊して下さることでもあるのです。

 

まだ神学校を出たての時だったと思いますが、ある先生から、こうアドバイス頂いたことがありました。「自分の殻を破ってくださいね~」その時は、あまりよく理解できていませんでした。自分の殻って、何だろう?そしてそれを破るということはどういうことだろうか?結局その時は、分からないままで、いたと思います。しかし、ある時に、ふと気づかされたことがありました。それまでは、教会に来ていただくためには、どうすればいいか?ということばかり考えていたことがすべてじゃないということでした。もちろんいろいろな行事を考えたり、教会の皆さんと協力しながらしてきたことは、教会に足を運んでいただくというチャンスという意味では、大切なことです。でも、それだけではなくて、それ以上に、いろんな出会いの中で、教会に行きたくても、行くことができない方々が、山のようにいらっしゃること、それらの方々も、いろんな悩みや弱さを抱えながら、どう生きたらいいか?ということを捜しておられるということに気づかされるためには、待つだけではなくて、そういう方々との出会いを、自分から出かけて、作っていくことではないか?という気づきでした。それはこれまでの、自分自身の考え方が、こなごなに壊されるような感覚でした。

 

その時、この言葉が心に響きました。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」それまでいたところから、急いで出て行くこと、出かけて行くことで、出かけて行ったその先に、もうすでにイエスさまがいて下さり、イエスさまにそこでお目にかかれるという言葉でした。その時、実際に、自分の目の前にイエスさまが現れたわけではありません。でも出かけたその先で、出会うことのできた、その新しい出会いの中に、いつもイエスさまが共にいてくださり、その新しい出会いに出会う前に、もうすでにイエスさまが、その行く手に立っていて下さり、出迎えてくださり、共にいてくださっていたということは、本当だとその度毎に気づかされていきました。

 

その時におっしゃられたひと言が、「おはよう」なんです。「おはよう」は、一般的には、朝の挨拶です。でも、朝だけに使われる挨拶なのかというと、実は朝以外の時にも使われます。午後からのお仕事を始められる方同士、あるいは夕方からお仕事を始められる方同士、夜もそうです。その時間、仕事場に来たら、お互いに「おはよう」と挨拶します。その意味は、これから一緒にやりましょう!これから一緒にこの仕事を頑張りましょう!という励ましの言葉です。イエスさまがおっしゃられた「おはよう」はそうです。これから一緒にやりましょう!一緒にいるから大丈夫!と、励まし、支えてくださる約束の言葉が、「おはよう」なのです。

 

私たちは、時には、方向を見失うこともあるでしょう。どう生きたらいいか?これからどうやって過ごしていけばいいのかと、迷ったり、悩んだりすることもあると思います。恐れと不安に駆られることもあるでしょう。だからこそ、イエスさまはおはよう!今日も一日一緒にやりましょう!「恐れることはない」と、私たちに先立って導き、先立って出迎えて下さいます。そのイエスさまに導かれて、小さな一歩でもいいのです。イエスさまは、その小さな一歩を、さあ、踏み出してごらん!あなたにはできる!おはよう!一緒に行きましょうと、復活され、今も生きて、私たちと共におられ、励ましてくださり、力づけてくださるのです。甦られ、生きておられるイエスさまが、私たちの行く手に立っておられるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月31日)