2024年2月18日礼拝 説教要旨

いのちの言葉(マタイ4:1~11)

松田聖一牧師

 

今日の舞台は、荒れ野です。荒れ野というところは、砂と岩が果てしなく続くところです。その荒れ野には、いろんなことが起こりますが、その1つには砂嵐が起こります。ものすごい砂嵐のために、全く視界が遮られ、周りの景色が見えなくなります。そういう砂嵐が、例えば、砂漠地帯の空港の周りで起きると、飛行機の離着陸ができなくなります。サンダーストームで飛行場が閉鎖されています~というニュースが飛び込んでくることもあります。そんな周りが見えないほどの砂嵐が収まった後、それまでなかった、大きな砂山ができていたり、道が砂で埋まってしまうこともあります。また荒れ野は、見渡す限り荒れ野ですから、同じ風景ばかりが、ずっと続きます。同じ風景が一日歩き続けても続くというのは、想像しにくいかもしれませんが、端的に言えば、目印になるような、特徴のある景色が見当たらないということです。同じ景色ばかりというのは、東西南北どちらを向いても、同じ景色ですから、方角が分からなくなることもありますし、それによって、道に迷うことにもなります。さらに言えば、荒れ野には、今日が何日という時、時間の分かる目印もありません。ただ太陽が朝上り、夕方には沈むという毎日が、同じ景色の中でずっと続きますから、今日が何日なのか?何曜日なのかを、ちゃんと記録していないと、分からなくなってしまうところでもあるのです。他にも野獣がいたり、昼間はものすごく暑くても、夜は氷点下に下がること、水がないという場所ですから、環境的にも大変厳しいところです。

 

他にもいろいろな特徴があると思いますが、そういう荒れ野で神さまが、荒れ野を旅するイスラエルの人々に、まず与えられたものが、十戒です。この十戒というのは、10の戒めですが、あれをするな、これをするなという人々の行為を制限するとか、禁止するために与えられたものではなくて、むしろ、その人が、その人らしく、神さまと共に、周りの方々と共に、どう生きたらいいかという、積極的な生き方を与え、ともすれば、自分がどこにいるのか分からなくことがあるからこそ、荒れ野で導いてくださる神さまを指し示しているのです。その中で、安息日を覚えてこれを聖とせよという戒めがありますが、これはもちろん神さまに7日ごとに礼拝をささげなさいということなのですが、カレンダーも何もない、荒れ野で7日ごとにささげなさいということを、きっちりと守り続けることによって、今日が何曜日であるかということを、見失わないで済むのです。そこから今日は何日か?ということも、季節も含めて、神さまに7日毎に礼拝をささげるということを通して、自分が何者なのか、自分がどこにいるのか?も含めて、迷わずに済むのです。そういうことを守りながら、荒れ野を神さまが、こっちだ、あっちだと導かれた時、200万人ほどの人の大移動が守られ、200万の人々が移動した後には、道が与えられていくのです。そして、その道は、神さまが導いてくださった道でもあるのです。

 

そういう荒れ野に、イエスさまが、洗礼を受けられた後、誘惑を受けるために「霊に導かれて」すなわち、神さまに導かれ、誘われ、そこで大変なことに遭われるのですが、この「導かれて」という言葉には、神さまが、死者の中からイエスさまを引き上げて下さり、復活の命である神さまと共に、神さまの命に生きるところへ導くという意味の、上へ導くとか、上へ連れて行く、導きのぼる、ということと、そのために、イエスさまを神さまに犠牲としてささげるという意味があります。さらにはこの言葉は、「導かれて」という、受け身の形ですから、その形になると、出帆するとか、船出するという意味もあるのです。つまり、イエスさまが荒れ野に行かれたという意味と目的は、ただ悪魔から誘惑を受けるためだけではなくて、そのことを通して、イエスさまが、神さまの命に生きるために、神さまにささげられて、新しい出発、船出に向かうということなのです。と同時に、その荒れ野に船出するという意味は、かつて神さまが、イスラエルの民を導いて下さり、与えてくださった道に、神さまであり、神さまの御子であるイエスさまをもう一度、導かれるということではないでしょうか?

 

このことを、私たちに置き替える時、私たちが神さまに導かれ、イエスさまを信じて洗礼を受けてからの歩みに、イエスさまが、神さまに導かれて、もう一度辿って下さるということではないでしょうか?

 

そこで、洗礼とは何かということですが、洗礼とは、イエスさまを信じて、洗礼を受けることによって、あなたの罪は赦され、あなたは神さまの子どもとされ、神さまと共に、神さまに愛されて支えられて歩むことができるということです。その時、私は、私を受け入れることができるようになっていくのです。それが洗礼によって、スタートするのです。それはスタートですから、学校に譬えれば、洗礼を受けて神さまの学校に入学することでもあるでしょう。一般の学校でしたら、入学したら、それで終わりではないですね。入学してから、いろんなことを学びますね。勉強であれば、国語や算数などを学ぶことになりますし、人間関係も学んでいきます。でもそれは、いつもハッピーハッピーというわけではなくて、友達とけんかしたり、ぶつかり合ったり、傷ついたりすることや、傷つけることもあります。辛いことや、悲しいこと、悩んだり、迷ったりいろんなこともあります。しかし入学してその学校で学び、経験したことは、何1つ無駄なことはありません。凡ての事が相働きて、万事を益としてくださる神さまによって、良かったことも、悪かったことも、神さまは、良いものへと造り変えてくださいます。そういうスタートですから、洗礼を受けたら、後はすべてハッピーというわけではありません。いろんなことが起こります。

 

しかし、そのいろいろなことが起こるところに、荒れ野に、イエスさまは、洗礼を受けてから、神さまが導かれるという意味は、私たちが神さまを信じる信仰を頂いてからもなお起こる、いろいろな出来事にも、神さまであるイエスさまが、共に歩いて下さるということなのです。

 

だからこそ、イエスさまの荒れ野への船出は、大変な船出になるんです。(2)を見ると、「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」とありますから、イエスさまは、とんでもなく空腹の中にあります。何も食べていないことで、極度の弱さの中にあったのではないでしょうか?それはそうです。食べないと力が出ません。一日食べないだけでも、お腹がすいてたまらなくなると思います。

 

ある時に、当時おりました教会では、イースターの前、受難週の金曜日の夜に、受苦日礼拝として守っていました。それはイエスさまが、十字架にかかられ、その上で私たちの罪のために、苦しまれ、罪を全部背負って死んでくださったことを、覚える礼拝です。その礼拝を毎年イースターの前に、守っていましたが、その礼拝に際して、その教会に以前おられた先生が、その当時、「イエスさまの苦しみを覚えるというために、その日は一日、食べるということをせずにどうぞ夜の礼拝にお出でください」と、そういうお勧めがありました。私がいた時には、そういうことはされていませんでしたが、かつてその先生から言われた通りにされた方から、こんな感想がありました。「その時ね、先生から、一日何も食べずに過ごして下さい。そして夜の礼拝の礼拝にお出でくださいと言われた時に、その通りにしました~そうしたら、私は食いしん坊なので、本当にお腹がすいてすいて、お腹がペコペコになりました。でも、その夜の礼拝の、聖餐式でパンを頂いた時、本当においしかった!体に沁みました~」とおっしゃっておられたことが、印象に残っています。きっと、一日何も食べないで、過ごすことを通して、食べないということが、どういうことかを味わわれたことと、お腹ペコペコの中で、頂いた聖餐のお恵みが、より味わい深く感じられたひとときだったのではないかと思います。

 

そういう何も食べないということが、一日ではなくて、40日続くんですから、イエスさまにとっては、大変なことです。その時、「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』誘惑する者は、イエスさまに、もしも神さまの子ならば、という仮定で言われたのではなくて、あなたは神さまの子なのだから、とイエスさまが神さまであるということを、認めているところに立って、これらの石がパンになるように命じたらどうだ、と言うのです。そしてイエスさまが、この石をパンになるように命じたら、それはパンになるということも、イエスさまにはできるということも認めているんです。つまり、ここでの誘惑の内容は、できもしないようなことを、イエスさまに命令して、させようというのではなくて、イエスさまが神さまだからこそ、できることを、「したらどうだ」と命じていくのです。

 

それに対して、イエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る1つ1つの言葉で生きる」と書いてあると、旧約聖書の申命記を引用されて、答えていかれるのですが、それは、石がパンなるように命じることで、パンになるということを、言われてそうされる神さまではなくて、何よりもまず、神さまの方から、ただ神さまのお恵みによって、パンを与えて下さる神さまなのです。そしてそのパンは、神さまのいのちそのものであり、神さまのいのちの言葉でもあるのです。そして、そのいのちの言葉を、神殿の屋根の端という、一歩踏み外せば落ちてしまうような、絶体絶命の中であっても、瀬戸際に立たされても、そして非常に高い山に連れて行かれ、「世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と、世の富、欲望を、手に入れることができるぞ~という、悪魔の言葉によって、実現させられようとしていても、イエスさまは、なお、誘惑の中で、誘惑する者、すなわち悪魔に対して、神さまのいのちの言葉を語り続けていくのです。

 

そのいのちの言葉「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてあるじゃないかと言われた時、「そこで、悪魔は離れ去った」のです。それは離れ去ったとあっても、なくなったとは書いていません。神さまのいのちの言葉から、神さまから引き離そうとする悪魔は、決してなくならないものです。しかし、どんなに誘惑され、試みられ、辛くて、苦しくとも、それでも、神さまのいのちの言葉、神さまからのいのちそのものが、イエスさまを支えたように、わたしたちも、何度も何度も試みられても、その度毎に、くり返しくり返し、何度も何度も、支えていて下さっていることが分かるように、守り続けてくださるのです。

 

そんな神さまに守られたその人を通して、与えられ、生まれたものの1つに讃美歌があります。讃美歌というのは、神さまをほめたたえ、神さまに感謝をささげるものです。たくさんの讃美歌がありますが、その讃美歌は、ほめたたえることができるような、あるいは感謝できるような出来事の中で、生まれたのかというと、むしろ、感謝すらできないような時、ほめたたえることができないような時に、与えられ、生まれたのでした。

 

1つの讃美歌をご紹介したいと思います。「主なる神をたたえまつれ」という、この讃美歌は、17世紀、1600年代に生まれたオランダの讃美歌です。この時、1600年代、17世紀には、ヨーロッパ全体を、黒死病と呼ばれた、ペストが襲いました。今のような医療が十分ではなかった時ですから、1つの村にペストがはやると、村全体が全滅するという出来事もありましたし、ペストによって、当時のヨーロッパの人口が大きく減少したという記録もあります。人々は、それこそ、明日を生きることができるかどうか?という不安の中にいにいたことでしょう。明日になったとき、昨日会った方がもう亡くなられていたという悲しい出来事、家族をペストで失うといったことが、沢山の方の上にありました。そんな中で、この讃美歌が生まれたのでした。こんな歌詞です。

 

「主なる神をたたえまつれ」

主なる神をたたえまつれ。

まごころささげ、ひれ伏し、聖なる主の御名をあがめて、

みさかえを歌わん。

ときわに。

とわにいます神をほめよ、あらしを鎮め導き、

悩み迫る中にありても、み力をたもう、わが神。

声をあわせ、たたえ歌わん。

あめつちをしらすみ神を。

つよき御手に、導かれつつ、救い主をあがめん、

ときわに。

 

どんなに試みの中にあっても、あらしが吹き荒れるような中にあっても、悩みがどんなに迫る中にあっても、その嵐を静め、悩みの中にも、力を与えて下さる神さまがいらっしゃいます。どんなに悩みが迫る中にあっても、神さまの強い御手の中で、導き続けてくださる神さまがいらっしゃる!のです。そのために、イエスさまは、荒野に導かれ、そこで、神さまのいのちの言葉を語り続けてくださいます。そしてそのいのちの言葉を通して、神さまのいのちそのものが、私たちを支え、生かしてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月18日)