2024年2月11日礼拝 説教要旨

感謝の祈り(ヨハネ6:1~15)

松田聖一牧師

 

野次馬という言葉があります。この言葉は、歳を取った馬や、御しがたい馬を指す言葉から転じて、自分とは直接関係の無い出来事、浅はかな興味を抱いて、集まる人、面白半分に騒ぎ立てる人のこととか、その行為を指します。例えば、火事が起きた時に、消防士や消防団の方々が、駆けつけて消火作業に当たりますが、その時、その周りに、消火作業に関係がないのに、ただ見物に来る人があります。何が起こったのか?どんな火事なのか?と大勢の人が集まって来ようとするわけですが、でもそれは、消火に当たられる方にとって、大きな障害になりますし、危険です。だから規制線が張られて、近づけないようにしています。そんな、その出来事に直接関係がないのに、見物に来る人にとっては、目の前で起きていることが、どんなに大変なことであっても、やはり他人事です。そして目の前のことに、関わろうとしないし、関わることができません。それは、責任を取らないことと同じですし、もちろん責任を取ることもできません。それでも見物するために、そこに集まって来るのです。

 

イエスさまや、イエスさまの弟子たちが、それまでいたところから、ガリラヤ湖の向こう岸に渡られた、その後を追った群衆もそうです。というのは、その時、その人々は、「イエスが病人たちになさったしるしを見たから」すなわちイエスさまがなさったいろいろなしるしを見物した見物人として、イエスさまたちの後を追っているからです。ですから、イエスさまが病気の癒す人々のために、一緒になって助けようとか、何かお手伝いしようともしていません。関わろうとはしていないのです。それなのに、イエスさまが、病人たちになさったしるし、癒されたということを見物したので、イエスさまや弟子たちの後を、追うのです。それは、イエスさまの後を追っていけば、他にもいろいろなしるし、人を癒されることなどを、もっと見ることができるのではないか、いやもっと見たいという、興味もあったのでしょう。そしてそういう不思議なことを、見ることによって、見ることのできた自分たち自身が、凄い人間だということを周りにアピールしたい、自分が目立ちたいという、欲望、欲求もあったのではないでしょうか?

 

そんな大勢の群衆が、後を追ったその時、イエスさまは、「山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」とありますが、この言葉のすぐ前、2節と3節の間には、日本語に現わされていない小さな言葉があります。それは「で」という言葉です。この「で」という言葉は、前後の文脈から、そして、とも、しかし、と訳される言葉です。それがあるということは、後を追った大勢の群衆に対して、そして、も、しかし、も、あるのではないでしょうか?イエスさまを見ると、群集が追って来た時、その群衆をよく来た~と迎え入れようとしていません。むしろ、自分たちの後を追ったその群衆から、離れようとして、山に登るのです。しかしその一方で、弟子たちは、その群衆を迎えたかったのかもしれません。大勢の群衆が自分たちの後を追って来たということで、弟子たちは、自分たちには、それほどに、人気があると言いますか、自分たちが、それほどのものであるということを、顕したかったのかもしれません。そんな中で、イエスさまは、群集から離れて、弟子たちと共に山に登られたのです。

 

つまり、山に登るということが、イエスさまにとっては、そして、であっても、弟子たちにとっては、しかし、になっていたり、逆に、イエスさまにとっては、しかし、で、弟子たちにとっては、そして、山に登った、というところもあったのかもしれません。いずれにしても、この「山に登る」というのは、イエスさまが大切なことを決めようとされる時、神さまに祈るために、それまでいたところから退かれ、山に登るということがありましたから、イエスさまが、弟子たちと一緒に、神さまとの時間を持つ必要があると判断したからではないでしょうか?

 

そして、もう1つは、野次馬的に後を追って来た群衆から、弟子たちを守るために、群集から離れたのではないでしょうか?というのは、自分には関係ない、ただ見物のために集まった群衆に追いつかれてしまうと、弟子たちも含めて、その群衆に巻き込まれて、身動きが取れなくなってしまう危機感を、イエスさまは、持ったのかもしれません。

 

兵庫県に明石市という町があります。以前、明石の海岸で行われた花火大会に来られた大勢の人々が、花火大会の終わった後、歩道橋に集中した時、狭い歩道橋に、あまりの多くの人で、人々は身動きが取れなくなり、人に押しつぶされ、息ができなくなり、亡くなられた方がいらっしゃいました。韓国でも似たようなことが起こりました。それは、いずれも人が狭いところに一挙に集中したことで、大きな事故につながったのでした。その事故をきっかけに人が大勢集まるイベントなどでは、ある一定の警備員を必ず置かないといけないとか、いろいろな決まりができたのです。

 

大勢の群衆が、1つのところに集中するというのは、そういう危険が伴うのです。だからこそ、イエスさまは、その群衆から、弟子たちの命を守るために、山に弟子たちと一緒に上り、「弟子たちと一緒にそこにお座りになった」のです。

それはイエスさまが弟子たちに、一緒に座ろうと言って、座ったという意味ではありません。「お座りになった」とは、イエスさまが神さまであること、イエスさまが神さまのおられるところに、座られたということであり、そこに弟子たちも一緒にいたということですから、弟子たちは、まことの神さまであるというイエスさまと共に、そこにいたということなのです。そして、弟子たちは、イエスさまが神さまであるということを、目の当たりにしたのではないでしょうか?

 

しかし、どうしてそのことを大勢の群衆の前で顕されなかったのでしょうか?大勢の前でされたら、イエスさまが神さまであることが、大勢に知られることになりますから、大勢の人々からますます評価され、人気も出ることでしょう。それによって、イエスさまが凄いお方だということが、もっと多くの人にアピールできるのではないでしょうか?でも、イエスさまは、イエスさまが神さまである、ということを、まず弟子たちに顕されるのです。それは、神さまであるイエスさまに、出会った弟子たちを通して、イエスさまは、まことの神さまだということを、後から追って来た大勢の群衆にも伝えようとしておられるからではないでしょうか?

 

そのために、イエスさまは、(5)「目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちを食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた」のですが、「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」とあるのは、フィリポに意地悪するために、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言って、試みられたのではありません。むしろ、野次馬のように、後を追って来た大勢の群衆を食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうかと、あなたはどうするか?と、他人事ではなくて、自分のこととして、フィリポ自身に考えさせるためです。そしてフィリポが、この群衆に、めいめいが少しずつ食べるためにも、食べさせるだけのパンは、200デナリオンでも足りないと評価したとき、アンデレも、フィリポだけの問題にしないで、自分のこととして受け止めていくのです。つまり、アンデレも、野次馬ではなく、当事者として、私はどうするか?ということを考え始めるのです。そこで5つのパンと2匹の魚を持っている少年がいますと言いながらも、「何の役にも立たない」と、イエスさまに答えていくのですが、これらの2人の評価は、精神論とか感情、気持ちだけで答えているのではありません。ちゃんと計算して考えています。逆算していると言ってもいいでしょう。

 

お料理を作るという時、レシピというのがありますね。そこには材料の量、小麦粉何グラムとか、砂糖は何グラムとか、お塩は少々とか、その作るものによって、材料も、それぞれ量も違いますが、ちゃんと量って、書いてある通りにすると出来上がるように、ちゃんとなっています。そのためには材料をそろえたり、なければ買いに行きますね。その時、どれだけの人が食べるか?食べる予定の人数も当然考えていきます。そして買う時にも、どこのお店に行けばいいか?ついでに色々することがあれば、そのお店に行くまでに、どこに寄ればいいか?ということをあれこれ計算しながら、動くこともあると思います。

 

そういう計算を、フィリポも、アンデレもしているのです。だから彼らは、5000人、いやそれ以上の人たちに、食べさせられるためには、5000という数から、逆算して、これくらいいる!これくらいは必要だ!と評価していくのです。ところが、その5000に行き渡るほどの食べ物があるかというと、ないのです。それで、好きなだけ食べる方法でなくても、「めいめいが少しずつ食べるためにも」と、食べ方と食べる量を、考えるわけですが、どんなに考えても、「足りない」し、パン5つ、魚2匹では男の人5000人、またそれ以上の人に対しても、出来るだけ、多くの人に分け与えようと考えても、「何の役にも立たない」と評価して、判断しているのです。そういう評価と判断は、精神論ではありません。現実をちゃんと見て、足りるか?たりないか?役に立つか、立たないか?ということを評価していくのです。

 

そういう評価をするというのは、私たちにとっても、いろいろなことに対して大切なことですね。何かをするにも、何にも考えずにするというのは、適当ではありません。数字から逆算すること、今あるものがどれくらいであるか?それは足りるのか、足りないのか?役に立つのか、立たないのか?と自分が当事者となって、私だったらどうするか?ということを、自分のこととして、ちゃんと計算して、ちゃんと考えることは、必要ではないでしょうか?ただ感情的に、走ってしまってはいけないのです。ちゃんと計算をして、自分自身のこととして出来るだけ客観的に考えていくことは、必要ではないでしょうか?

 

その結果出された評価と判断は、イエスさまの「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねた問いには答えていません。でもそれは、フィリポやアンデレ自身が、どこでパンを買えばよいだろうか、という問いの答えを持っていない、ということを認めているのではないでしょうか?私たちには、何もできません、パン5つ、魚2匹では、何の役にも立ちませんということを、イエスさまに素直に言えているということではないでしょうか?素直に打ち明けられるということは、イエスさまが、その素直に打ち明けていることを、そのまま受け取って下さっているからではないでしょうか?だからこそ、イエスさまに、できません、役に立ちませんと、打ち明けることができるのです。祈りもそうです。自分は何もできない時あると思います。何の役にも立たないと感じることもあると思います。でも、それも素直に、イエスさまに打ち明けられるのは、イエスさまがそれらのことも、受け取って下さっているからなのです。

 

その上で、イエスさまは、2人の評価を越えたところにある、自分たちの思いにはない、思いを遥かに越えたことを、イエスさまは、与えて下さっているのです。それが、「人々を座らせなさい」と草が生えているところに、座らせていくことなのです。この時の、座らせなさいは、食事の席に着かせなさいという意味なのです。つまり、イエスさまの側では、目の前に在るのは、パン5つ、魚2匹であっても、もうすでに、5000人以上の人々のためにパンが与えられるということを、決めておられるのです。そしてもう与えられるから、じゃあ座って、食事がとれるように、そのために、座らせていくようにと、弟子たちに促しておられるのです。その時、イエスさまは、パンを、少年から受けとられるのですが、受け取ったパンは5つです。フィリポが、足りないと言っている量のパンよりも、はるかに少ないパンです。でもそれをイエスさまは、受け取り、受け入れ、神さまへの感謝の祈りを唱えられるのは、この少年が、自分に与えられたパン、魚、という持てるものよりイエスさまにささげたということを、イエスさまは神さまに感謝しているからではないでしょうか?そして、これから人々に分け与えられていくための、パンや魚が与えられたことへの神さまへの感謝だけではなくて、大勢の群衆が、草の上に座り、まことの神さまと共に、そこにいることができたことへの感謝ではないでしょうか?そして人々に、イエスさまは神さまだという出会いが与えられたことへの、感謝でもあるのではないでしょうか?

 

そこで初めて、「座っている人々に分け与えられた」時、パンも、魚も、「欲しい分だけ分け与えられた」人々が欲しいと願う分だけ、イエスさまは分け与えられたのでした。それは、フィリポの「めいめいが少しずつ食べるためにも」と考えたことや、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たない」と、アンデレが考え、評価したことを遥かに越えた答えです。でもそれでよかったのです。人々は満腹した、満足し、喜んだのです。

 

ここに、ささげるということはどういうことかが、示されています。神さまに神さま、どうぞお使いくださいと、ささげるとき、そのささげられたものは、必要と感じることに対して、足りない、何の役にも立たないと評価されることもあるでしょう。と同時に、自分たちにはできません、何の役にも立ちませんと、できない自分を、イエスさまに打ち明けることも、ささげているということではないでしょうか?これでは無理だ!何の役にも立たないということであっても、自分が何もできないということも、自分の限界も、もう私には無理だということも、イエスさまにささげたらいいのです。それを、イエスさまにささげていくとき、その小さなささげものを、イエスさまは、受け取ってくださり、それをイエスさまは感謝して、感謝の祈りを神さまにささげて、その小さなささげものを祝福して、喜びへと造り変えて下さるのです。

 

歳末助け合い運動というのがあります。小学校6年生の時、12月に入ってからだったと思います。担任の先生が、ある時こうおっしゃいました。「今年も歳末助け合い運動の季節になりました。「クラスでも何か助け合いができたらと思うので、お家の方と相談して、家にある大きなお金ではなくて、1円とか5円とか、小さなお金を持ってきて、この箱に入れましょう。そして終業式の時に、郵便局にみんなで持って行きたいと思います」ということで、クラスの友達は、それぞれにお家にある小銭を、めいめい持って来るようになりました。先生も学級通信などでお知らせをされたと思います。そうして終業式の日、学校が終わると、みんなで近くの郵便局に、そのお金を箱に入れたまま持って行きました。郵便局の中に、40人の子どもたちがぞろぞろと中に入りました。そこで小銭を数える機械に、その持って行ったものを、入れていただいて、いくらあるかを計算していただきました。そうしましたら、何千円にもなりました。わ~と歓声が上がりました。お互いにすごい!とびっくりです。あの1円が、あの5円が、こんなに大きなお金になった!大喜びでした。その喜びは、小さなお金でも、みんなで協力して集めたら、ものすごい大きな金額になって、助けを必要としているところに届けられる!という喜びになっていました。その時、もう一つの喜びがありました。それは、郵便局の方が、はいどうぞと、みんなに鉛筆一本ずつをプレゼントくださったことでした。それでますますうれしくなって、みんなで協力できたこと、1つになれたことを、喜び合う時となりました。

 

イエスさまは、私たちの持てる小さなものでも、ささげ合って、助け合って、協力し合っていくとき、大きな喜びを与えてくださいます。食べた後、パン屑を集めるということも、そうです。草原の中で食べた時に、零れ落ちたものを集めるというのは、至難の業だったことでしょう。しかしそれらを、少しも無駄にならないように、集めなさいと、その通りにした時、5000人以上の人々が、食べた5つのパン、小さな小さなささげものは、小さな5つで終わりませんでした。5つのパンを感謝して、神さまにささげ、神さまのものとされたその5つのパンを、分け与えて行った時、食べて満腹した喜びと共に、みんなで集めたパンが、12の籠いっぱいになっていた喜びがありました。それは弟子たち全員に、1籠ずつ分け与えられるパンとなって、再び集めた彼らに、ささげたもの、何もできなかったことを、はるかに超えたものが、与えられたのでした。そこでまた与えられた12の籠のパンが分け与えられていったのです。

 

それは感謝の祈りから始まっていくのです。神さま、この小さなものを与えて下さり、ありがとうございます。この小さなものをおささげできることを、感謝します。自分にはできません、何の役にも立ちませんということも、受け取って下さり感謝します!そのことから、大きな喜びと祝福に繋がっていきます。

説教要旨(2月11日)