2024年1月21日礼拝 説教要旨

「ない」から始まる(ヨハネ2:1~11)

松田聖一牧師

 

当事者意識という言葉があります。それは例えば仕事ということで言えば、どんなことにも自分の事として捉えて仕事をするということです。その時、自分には関係ない、とか、誰かがやってくれるという意識ではありません。たとえ、自分には関係ないことであっても、目の前にあることが、うまくいかないと感じるほどに、悪いと感じる状態であっても、それを自分のこととして受け取って、自分からそれをしようとすることです。では、それはどんな場合でも、当事者意識を持つことができるかというと、どこかで誰かにやってもらいたい、自分は関わりたくないと思うこともあるのではないでしょうか?しかし、それは責任感という点からいえば、「誰か」あるいは「何か」のせいにした時点で、責任感は失われてしまいます。

 

それについてこんな出会いがありました。学生時代のことです。あるオペラを三重県で活動しておられる音楽家の方々が協力してやろうということで、お手伝いをしたことがありました。ヘンゼルとグレーテルというオペラをピアノ伴奏でやるということで、当時は、古くて古くて、ボロボロの、全然響かないホール1つしかありませんでしたので、そこでやるということになり、無事に終わった後、打ち上げがありました。その時、そばに一人の歌手の方がいらっしゃいまして、単刀直入にこう言いました。「こんな響かないホールでは大変だったのではないですか?」そうしますと、その方は、首を横に振って、「そんなことはない!本当に上手な方は、どんなに響かないホールであっても、自分自身を響かせることができるので、どんなホールであっても、響くので、関係ないですよ!」そうおっしゃられた時、目からうろこでした。プロの方というのは、そういう考えをもっておられるんだと思いました。響かないホールのせいにするのではなくて、たとえ響かなくても、そこで何とかしようとすること、そのための技術を持つということなんだと。それはいろんなことに当てはまるようにも思います。つまり、当事者意識を持つという時、自分の責任ではないと人や、何かのせいにして、だからダメなんだと責任転嫁するのではなく、「自分だったらどうする」という意識を持とうとすることが、当事者意識となるのでしょう。それによって、結果としてうまくいかなかったとしても、その経験は、糧となって自分に帰ってくるのではないでしょうか?

 

その当事者意識を、イエスさまの母マリアも、カナの婚礼で、ぶどう酒が足りなくなり、不自由するという大変なトラブルが発生した時に、発揮していくのです。そこで母マリアは、イエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」すなわち、彼らはぶどう酒を持っていません。ありません、不自由していますと、彼らのその立場に、自分を重ねていくのです。

 

でもマリアは、その婚礼の主催者ではなくて、イエスさまやその弟子たちと同じく、婚礼に招かれた側の立場です。だから、ぶどう酒が足りなくなったというトラブルを、マリアは、当事者意識をもって何とかしようとするというのは、そうなのですが、本当はマリアがしなくてもいいことです。招かれた側ではなくて、招いたその婚礼の主催者の方々が、それこそ当事者意識をもって、ぶどう酒が足りなくなったということを、何とか解決しようとするのが、自然なことではないでしょうか?しかし、マリアは、そのトラブルを自分のこととして捉え、受け取ったので、イエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言うのは、婚礼の主催者もどうすることもできないトラブルであったのでしょうか?

 

しかしそうは言っても、ぶどう酒が急になくなったわけではなくて、なくなるということが、どこかの時点で彼らには分からなかったのでしょうか?なくなる前に、ぶどう酒担当、婚宴の責任者に、誰も知らせなかったのでしょうか?あるいは気づかなかったのでしょうか?当事者意識は、どうなっていたのでしょうか?そしてそのトラブルは、イエスさまに直接関係あるかというと、イエスさまも招かれた側ですから、関係ないわけです。

 

だからこそ、イエスさまは「わたしとどんなかかわりがあるのです」ぶどう酒が足りなくなったということについて、わたしとは関りはないとマリアに答えていくのも、当然と言えば、当然のことです。では、それだけなのかというと、この言葉には、もう1つの意味があります。それは、わたしとあなたとはどんな関係か?という意味で、どんなかかわりがあるのですという問いなのです。

 

その問いは、マリアに、イエスさまとの関係の1つの事実を突きつけていくのではないでしょうか?というのは、イエスさまと母マリアとの関係は、イエスさまが、神さまによってマリアに与えられたという事実ですから、血のつながりはありません。それで、イエスさまが、お母さん!ではなくて、婦人よと呼ぶのですが、それはイエスさまが、マリアを拒絶したとか、マリアを母として認めず受け入れていないというよりもむしろ、イエスさまは、神さまとして、マリアに向き合い、マリアに答えておられるのではないでしょうか?

 

十戒の一番最初に神さまがおっしゃっておられるのは、「わたしはあなたの神主である」です。わたしはあなたと関係がある!あなたの神さまだ!そして神さまであるわたしは、あなたをあなたと呼んで、あなたがあなたであることを認め、受け入れておられるという呼びかけです。そのようにイエスさまは、神さまとして、母マリアに、わたしはあなたの神、主であるお方として、関わっておられるのです。単に母と息子の関係ではないのです。神さまと一人のマリアとの関係なのです。

 

そこに立っておられるからこそイエスさまは、「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、神さまとして、今は、神さまの時ではない、今は、待つときである、ということを、マリアに、おっしゃっておられるのではないでしょうか?そのことを、マリアは、婦人よと呼ばれてもなお、イエスさまの母として受け取り、イエスさまの母であり続けているのです。ここにマリアの力強さを感じます。マリアはイエスさまの母となったとき、何度も何度も大変なところを、乗り越えてきたのではないでしょうか?もちろんそこには神さまの助けと支えがありました。しかし実際には、マリア自身が、どうしていいか分からなくなったこともあったでしょう。自分ではどうすることもできない、そういうところを、何度も何度も通らされてきたのではないでしょうか?

 

そんなマリアをイエスさまは、十字架の死に至るまで、母親を思い、母親を気遣い続けていくのです。だからこそ「婦人よ」という時にも、婦人よと言いながらも、「イエスは母に言われた」とある通り、イエスさまにとって、母は母なのです。その母を思っているのです。それは、この時だけではありません。イエスさまが十字架の上で、まさにその命を神さまの御手に委ねていくその間際に、自分の弟子であるヨハネに、母マリアを委ねていく時、ヨハネにこう言いました。「あなたの母です」それは、マリアとの縁を切ったということではなくて、ご自分が十字架の上で亡くなった後の、母を思い、母を気遣い、母マリアが、支えられ守られるようにと、愛する弟子ヨハネに、「あなたの母です」と、母マリアのこれからを委ねていかれるのです。それほどに母マリアへの思いを、イエスさまは、人として最後まで持ち続けておられるのです。

 

そう言うイエスさまとの関係であるからこそ、マリアは(5)しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と、イエスさまを、「この人」と呼んでいるのですが、この人という言葉は、自分の息子と呼ぶ代わりに、この人と言っているのではなくて、重要な人物として、すなわちそれはイエスさまを神さまとして、「ある者」と呼ぶ言葉でもあるのです。

 

つまり母マリアが召し使いたちに、そのとおりにして下さいというのは、それはイエスさまが神さまだからこそ、イエスさまが言われたことを「そのとおりにしてください」と願っているのです。同時に、それは、マリア自身が、これまで当事者意識をもって、宴会のぶどう酒のことで、自分のこととして受け取っていたところから、神さまであるイエスさまに、委ねて、イエスさまがなさろうとする、その時を待つことができるようになっているのではないでしょうか?そしてその時が来たら、召し使いたちに「そのとおりにして下さい」というのも、イエスさまに任せていくことを通して、本来責任をもって、当事者としてやっていく立場に、もう一度返していくように、導かれたのではないでしょうか?

 

そういう意味で、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とイエスさまが言われた時、ぶどう酒のことについては、あなたがすることじゃない、イエスさまに任せたらいいんだということ、そしてその時、マリア自身が、自分には何もでき「ない」ということを、マリアが受け取れたということでもあるのではないでしょうか?

 

元旦の午後に起きた地震によって、火災が起きました。その火災の様子を見た時、阪神大震災で見た光景を重なりました。あちこちから火の手があがったとき、何もできませんでした。ただ火が出ているところから、離れて見守るしかできませんでした。何が起きたのか分からないまま、その時、その日、その日をどう生きるかということすらも考えられないほどに、必死だったように思います。消防士の方も何もできなかったとおっしゃっていました。「火を消すために、ホースを伸ばして消火に当たろうとしても、水が出なくて、立ち尽くすしかなかった・・・あの時は、何もできなかった・・・」そう小さな声でぼそっとおっしゃっておられました。

 

何もできない時というのは、大きな災害だけではなくて、私たちもいろいろな出来事の中で、経験させられることです。何かしようとしても、何とかならないかと努力しようとしても、何もできない時には、何もできないのです。その時、悔しい思いをすることがあるかもしれません。それをずっと引きずることもあると思います。自分に何かできたのではないか?ああすればよかったのではないか?こうすればよかったのではないか?と、過ぎ去ったことを悔やんだりすることもあるでしょう。それがなくなることはありません。しかし、イエスさまは、そんな自分には何もできなかった、私には何もでき「ない」ということを通して、イエスさまに任せるしかない、委ねるしかない、ということに、自分の思いとは反対の方向に、半ば無理やりにでも、向けさせられるんです。でもそれは悪いようにするためではなくて、自分の手から離してくださったそのところで、自分では何もできなかったと悔やんでも悔やみきれない中にあったとしても、それでも、その時、その時に、必要な最善のことをしてくださるお方、わたしはあなたの神主であるイエスさまがいる!ということに気づかせてくださるのではないでしょうか?

 

そこから始まっていくのです。それが(6)「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが6つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」とある通り、召し使いたちは、イエスさまに言われた通りに水を汲み、水がめの縁まで水を満たしていくのです。しかしそのためには、多くの水が必要です。ユダヤ人の清めの水というのは、食事の前や、帰宅したら手洗いをするなど、いろいろなところに必要な水です。そのために、本来は、その家族の若い女性たちが、朝早いうちに、その日使う水を汲みに行くのです。その水くみを、母マリアも若い時にはしてきたことでしょう。でもこの時、自分からそれをしていません。もう若くはない年齢でもあったからでしょう。何も関わっていません。

 

しかし、彼女が何もできなくても、その水くみをこの召し使いたちが、担っていくのです。ただですね、実際に水を汲み、水がめ6つに水をいっぱいに入れるというのは、大変なことです。なぜならば、水を、町はずれの井戸まで行って汲む必要があるからです。そして、この水がめに水をいっぱい入れるためには、約117リットル必要ですから、それだけの水を井戸から汲むということは、水を汲み、水がめに水を入れ、また水を汲みに行くということを何度も繰り返すことになります。しかも、水くみをしながら、水がめに水をいっぱい入れることで、どうなっていくのかは、水くみをしている召し使いにも、誰にも分からないことです。そしてその水がめ6つに水をいっぱい入れていくことで、何か褒められるわけではありません。評価されないままだったかもしれません。そういう意味では、召し使いたちも、水汲みができても、水をいっぱい入れることができても、誰からも、感謝されるとか、労をねぎらってくれるということも、「ない」のです。

 

それでも、召し使いたちが、イエスさまから言われた通りに、水汲みをしたのは、ただ単に水「かめの縁まで水を満た」すためだけではなくて、「かめの縁まで」とある言葉の意味にある、上に向かって、上にあるものを求めて、神さまに向かって、神さまを求めているからこそ、水がめに水を満たしていくのです。

 

そして、イエスさまから「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われ、召し使いたちは運んで行った、その水が良いぶどう酒となったその時、そのぶどう酒は、召し使いたちのものではありませんでした。自分たちの手元にはありませんでした。しかし、それ以上に、神さまであるイエスさまが、この良いぶどう酒を与えてくださったのだということが、分かった時、神さまがしてくださった素晴らしいお恵みの婚宴の場が、彼らに与えられていたのでした。そしてその素晴らしい神さまの恵みは、マリアにも、婚礼に招かれた方々にも、与えられ広がっていたのでした。その恵みの始まりは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた、イエスさまの言葉によるんです。神さまであるイエスさまの言葉が、神さまの恵みの中心にあるんです。

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、一患者の詩としてかけられているものがあります。「大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった。より偉大なことができるように、健康を求めたのに、より良きことができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。人生を楽しもうと、あらゆるものを求めたのに、あらゆることを楽しめるように、命を授かった。求めたものは1つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。背ける身にもかかわらず、言いあらわせなかった祈りもすべてかなえられた。私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」

 

何かをしようとして、当事者意識をもっていろいろと努力をされてこられたことがあったでしょう。自分の願いを実現するために、あれこれとされてきたことと思います。そして、それらのことが、思うようにはならなかったこともあったでしょう。しかし自分の願いが、たとい実現しなかったとしても、自分ではどうすることもできないことがあっても、神さまはそれらを越えて、私たちの、ないということを用いて、祝福へと変えてくださいます。神さまがしてくださったことを、共に喜び祝うことへと導いてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月21日)