2023年12月23日 クリスマスキャンドルサービス説教要旨

地には平和(ルカ2:14)

松田聖一牧師

 

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」

 

かつて、ローマ帝国という国がありました。地中海世界を包む、広大な領土を持ち、強大な力、軍隊を持っていました。そのローマ帝国内で、戦い、戦争がなくなり、皇帝が帝国を安定して治めたことで、平和が続いた時代があります。そのことを、「ローマの平和」パックスロマーナと言っています。確かにその時、その国の中では平和でした。そこに住む人々も平和に暮らしていました。でもローマ帝国に支配されている属国、植民地と言ってもいいでしょう。それらの国々に対しては、重税を課し、その中で、人々は重税に苦しみ、抑圧され、ひどい扱いを受けていました。それらのことは、その国の人々にとって、もちろん平和ではありません。安心して暮らすことはできません。しかし、ローマにとっては、「ローマの平和」なんです。つまり、この平和は、ローマの支配する国々の平和を潰してもたらされた平和であるとも言えるのです。

 

見方を変えれば、「ローマの平和」とは、周りの方々が平和でなくても、平和が潰され、平和が壊されても、自分の国が平和であれば、それでいいということを、作りあげた見せかけの平和とも言えるのではないでしょうか?

 

ですからその平和には、平和と言いながらも、大きな矛盾があります。そんな中で、クリスマス、イエスさまが生まれたという喜びの知らせが羊飼いに告げられたところも、平和、平和と言っている、ローマ帝国内の場所ではなくて、平和とはとても言えない、ローマ帝国の属国の1つユダヤの国のベツレヘムという町の郊外なんです。

 

そしてその場所は、今、報道等で連日取り上げられているガザのすぐ近くでもあります。先日、国境なき医師団の医師としてガザに行かれ、帰国された方のことが、紹介されていました。

 

イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘が始まってから2カ月が過ぎた。イスラエル軍の激しい攻撃が続くパレスチナ自治区ガザで緊急援助チームの一員として治療にあたった「国境なき医師団」の医師、中嶋優子さんが帰国し、12月13日の会見で現地の厳しい状況を語りました。

 

「空爆は日を追うごとに激しくなって、病院は常にキャパシティーを超えていました。オペ室は満室で、床の上で治療せざるを得なくなり、注射器が足りず、消毒も不十分で、ガーゼ交換が十分にできなかったり、抗生剤が限られていたりして、継続した治療が難しかった。風邪や感染性の胃腸炎なども伝播(でんぱ)しやすい状況にありました」「10歳の女の子は、足の骨が粉々になり、もう足を切断しなければならなかったけれど、手術に同意をしてくれる家族がひとりも生き残っていなくて……。結局、数日後に亡くなりました。他にも0歳の赤ちゃんを含めて、家族が誰も生き残っていない子どもたちを何人も診ました。回復したとしても、この子たちの人生はこれからいったいどうなるんだろう、と思うと本当につらかったです」「ここまで戦争の破壊力を思い知らされたことはなかった。ここまで自分が弱ってしまったのも初めてで、自分の無力さも感じました。命をつなぐ限界があった」と言葉を詰まらせ、涙を流しておられました。

 

そしてその先生は、「今日死ぬかもしれない」と本当に思ったともおっしゃっていましたが、このような出来事は、氷山の一角です。しかし、そういうところになっていても、神さまが「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、告げ知らせてくださり、そのすぐ後で、羊飼いに、与えられた大きな讃美が「地には平和」なんです。

 

でもこの時、羊飼いたちにとっても、この賛美の通りに、平和であるかというと、平和だとは決して言えないことばかりです。というのは、羊飼いたちには戸籍がありませんから、そこに羊飼いとして、確かに生きているということが、公に認められないままであるのです。羊飼い以外の仕事をしたいと願っても、職業選択の自由はもちろんありません。つまり、どこの誰だかわからないまま、社会からも認められず、受け入れられないままに、生涯を終えてしまいます。これと同じことが自分にあったら、どうでしょうか?誰からも認められず、受け入れられないでいることが、一生続くことを考えたら、ぞっとします。一体、私は何のために生きているのか?といくら問うても、答えはありません。

 

それは、イエスさまの両親のヨセフ、マリアにとっても、同じです。ベツレヘムで、イエスさまがいよいよ生まれるという時でも、誰も受け入れてはくれませんでした。その結果、馬小屋で、イエスさまが生まれたのは、疎外され、追いやられたことも、また平和ではないという現実をも、すべて受け入れながら、イエスさまは神さまとして、平和ではないという変えられない現実の中で、生まれ、新しい命を、与えもたらして下さっていたとも、言えるのではないでしょうか?

 

それは私たちにとってもそうです。私たちにも変えられない現実があります。疎外され、受け入れられない現実があれば、それは今ある現実です。平和とはとても言えない現実であれば、それも変えられない現実です。しかしそこに私たちを救う、救い主としてイエスさまが生まれて来てくださっているんです。

 

そして、共に過ごし歩んでいたヨセフ、マリア、そして救い主イエスさまの誕生の知らせを受けて、やって来た羊飼いたちを、イエスさまは、神さまとして、受け入れて下さっていたのではないでしょうか?

 

生まれて間もない赤ちゃん、まだ人見知りの時期が来ていない赤ちゃんは、誰にでも、ニコッと笑顔を振りまきますね。赤ちゃんが、こちらを向いて、ニコッと笑ってくれたら、いかがでしょうか?かわいい!となりますよね。うれしくなります。不思議なことに、赤ちゃんが一人そこにいるだけで、周りにいる方々は、赤ちゃんのところに集まってきます。だっこさせてとか、手を触らせてとか、いろんなリクエストが生まれてきますね。それはただ単にかわいいとか、笑ってくれたから、だけではなくて、この赤ちゃんに、私が受け入れられていると感じるからです。赤ちゃんにとって、周りにいる人が、どんな人かも、名前も分かりません。でも、その独りの赤ちゃんは、周りにいる人を、受け入れているんです。それは私たちもそうでした。赤ちゃんの時がありましたね。少し前かもしれませんし、何十年も前かもしれませんが、おぎゃあと生まれた赤ちゃんでしたよね。ニコッと笑顔を振りまいていたのではないでしょうか?その笑顔に、ご家族も含めて、周りの方々はうれしくて、幸せな気持ちになっていたのではないでしょうか?

 

赤ちゃんが生まれるということ、そこにいるということは、そういうことです。つまり、イエスさまが、平和とはとても言えないような中で、そこに生まれ、そこにいるという意味は、私たちにとって、どんなに平和ではないことがあったとしても、それらを受け入れ、また乗り越えて、私たちと共に歩み、そこで過ごしている私たちを、すでに受け入れてくださっているのです。

 

だからこそ、地には平和、が、今、ここにあるのです。そしてイエスさまが、平和のとりでとなって、平和とは言えない、平和ではないところにいる人々と共に歩み、すべてのことを受け入れ、乗り越えながら、そこにおられる人々を支え続けておられるんです。

 

フリッツ・アイヘンバーグという版画家の作品に『炊き出しの列にならぶイエス』というものがあります。木版画で線の荒い削り。背景は何も描かれていません。よれよれのコートを着込んだ男たちが一列に並んでいて、みんな下を向いています。コートの襟を立てたり、ポケットに手を突っ込んだりしていて寒そうです。そこに黒いマントを羽織ったイエスさまも、炊き出しのその列に、一緒に並んでいます。そして、イエスさまの光がぼんやりとその列に並ぶ男たちを、照らしています。しかしそうであっても、主イエス・キリストは、最も助けを必要とするまでに、小さくされてしまった、最も蔑ろにされている人びとの間にも共にいて下さり、ほのかな光であっても、照らして下さっているのです。それはその人々にとっての希望となり、平和へと続く光となっていくのです。

 

地には平和。この賛美は、最初から大きな讃美であったわけではないでしょう。最初は、ほのかな光のように、消えそうになっていたかもしれません。でもイエスさまが生まれて、今、共におられるからこそ、どんなに自由が奪われ、抑圧され、争いがあり、平和が壊され、平和でなくなっている現実があっても、だからこそ、「地には平和」、この讃美の声が与えられています。それは、見せかけの平和ではありません。置かれたその場、その場に与えられている「地には平和」の讃美です。その讃美の声を、神さまは、ますます大きく与えてくださっています。

説教要旨(12月23日キャンドルサービス)