2023年10月1日礼拝 説教要旨

失ってもなお(ルカ16:19~31)

松田聖一牧師

 

構えの点検というタイトルで、長らく牧師として仕えて来られた藤木正三という先生が、ある本の中にこう記しておられました。

 

構えの点検

 

世の中には、どうにかなることとどうにもならないことがあります。そして、どうにもならないことにどう対するかに、その人の人生に対する構えが表れるものです。どうにもならないことに抵抗するか、耐えるか、避けるか、諦めるか、要するにそれを拒み続けるのか、それともそれを受け容れ、引き受け、自分の生きる道をそこに認めるのか、前者は人生を私物として固執する構えであり、後者は人生を預かりものとして返上する構えです。どうにもならないことは稀ですけれども、構えの点検だけは日頃からしておきたいものです。

 

どうにかなることと、どうにもならないことがある。。。それはその通りですね。そして、私たちにとって、どうにかなると思えることに対しては、どうにかしようとしますね。その時、自分自身に与えられた能力や、人との関係など、フル活用して、どうにかしようとするのではないでしょうか?その一方で、どうにもならないことに直面した時、どうにもならないことを、すぐに受け容れられるかというと、どうにもならないことであっても、それを拒み続けて、どうにかしようとするものではないでしょうか?それが結果としては、人生を私物化してしまうということに繋がってしまうんです。

 

それがラザロと、金持ちの姿と重なります。ラザロは金持ちの門前に、「できものだらけの貧しい」中で、横たわっていました。それは横になったから、元気になれるというのではなくて、死を待つという状態でもあったと言えるでしょう。というのは、できものだらけと言う言葉は、聖書の中にここにしか出てこない極めて珍しい言葉です。そしてできものだらけと言う意味は、重い皮膚病以上の、腫瘍の腫と言う言葉が使われて、腫物だらけということですから、全身ががんに侵され、もはや手の施しようのない状態だったのではないでしょうか?そしてラザロには、マルタとマリアという姉妹がいます。でも彼女たちも、この横たわっているラザロを助けようとしている姿はありません。それは助けたくなかったというよりも、もう彼女たちにも、どうすることもできない状態であったということなのでしょう。そんな中で、横たわっていたラザロは、金持ちの門前にいながらも、助けがどこからも来ないという事実を突きつけられていたのではないでしょうか?誰も助けられない状態にある時、家族もどうすることができません。それは病の原因が分からないこと、あるいは治療方法がないという時もそうです。その時、それをどう受け止められるのでしょうか?どう思うのでしょうか?

 

それは孤独ではないでしょうか?助けてほしいのに、どうにもならない・・ラザロはそういう中にいるんです。ですから、どんなにか孤独を感じながらも、それでもなお、金持ちの「その食卓から落ちる物」食卓の上にあるものではなくて、そこから落ちる物で「腹を満たしたいものだと思っていた」食卓から落ちる物でもいい、それで腹を満たしたい!と熱望し、渇望し、ひどく欲しがっているんです。

 

ある方が、腸閉塞になられて、入院生活を送られた時のことを、こうおっしゃっていました。「毎日点滴で、口からは何も食べることができないですよ。そうすると、口の中が渇いて、渇いて、本当に苦しかった~でも、しばらくして点滴が外れて、食べられるようになったその時、その最初のご飯は、薄~い味のやわらかくしたご飯でしたが、それを口から食べることができた時に、本当においしかった・・・」

 

食べたいのに、食べることができない、たとい点滴で栄養を取ることができても、口から物をいただくことができないというのは、とんでもない苦しみです。その時、その本人にも家族にも、どうすることもできません。そしてその苦しみは、ご本人にしか分からないことです。そういう意味で、ラザロの、手の施しようのない状態の中であっても、食べたい!という思いは、彼の心からの思いであり、抵抗でもあったとも言えるのではないでしょうか?

 

そんなラザロを、神さまだけは助けてくださるんです。もうなすすべがなくても、手の施しようがなくても、神さまだけは助けることがおできになるんです。神さまだけは、決して見放さず、決して見捨てることはないんです。そのことを、神さまは、ラザロにも与えて下さっているんです。それがこの言葉「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」ラザロは、神さまの天使たちによって、神さまと共にある神さまの宴席、宴会という素晴らしいところに、病は癒されなかったけれども、先に天に召されたアブラハムの、すぐそばに連れていって下さるんです。それはまた苦しみのまま、誰も助けることができないまま、看取るものもなく、亡くなったラザロを、神さまは、受け入れ、神さまと共にあるアブラハムも一緒にいるところに、神さまは引き上げてくださったということでもあるんです。その時、ラザロという名前に込められた、神は助けるという意味が、その通りに実現したのです。

 

私たちにとっても、苦しみというのは、避けたいことです。苦しみたくない、楽になりたいというのは、素直な気持ちです。食べたい!腹を満たしたい!と思う時には、どうにもならなくても、思うだけでも思います。口から物を食べたい!と訴えていくこともあるでしょう。でもそれが何一つ叶わなかったとしても、神さまだけは、助けてくださいます。どんな苦しみの中にあっても、自分でもどうにもできない、誰も助けがない、助けられないということであっても、「神は助ける」ということを、その通りに、与えてくださるんです。

 

その一方で、金持ちも亡くなりますが、この金持ちはどうなんでしょうか?金持ちは、陰府で、どうにもならない状態のままなのか?どうにかしようとしているのか?というと、金持ちは、さいなまれながら、苦しみ、大声で叫ぶ、その叫びの中に、彼の必死の抵抗が見えます。「わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水にひたし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」この時、もだえ苦しんでいるということですから、肉体的にも、精神的にも、苦しい状態にありますし、この陰府というところは、神さまから離れた、神さまからも断絶されたところでもあるんです。となると、そこには、神さまもいないということになります。

 

そんな中で、金持ちは、「ラザロをよこして」ラザロに、わたしの舌を冷やさせてくださいと叫ぶんです。でもラザロを、陰府にまで来させて、さいなまれている金持ちの舌を冷やさせてくださいというのは、無茶です。わがまま以上の、誰にもどうにもならない要求です。

 

だからこそ、アブラハムのこの答えがあるんです。「子よ。思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」

 

このアブラハムの答えには、大きく分けて2つのことが言えます。1つは、金持ちが、生きている間に、どんなことをしてきたか?良いものをもらっていたということは、金持ちゆえに、「いつも紫の衣や柔らかい布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」という、贅沢三昧に生きてきたということを指しています。それはお金があったから、できたことです。それがだめだとは言っていません。ただ、そうことが、永遠に続く自分の持ち物、自分の所有物であり続けられるかのように、この金持ちが受け取っていたことに対して、どんなにそう思っていたとしても、それは永遠ではなくて、いつかどこかの時点で、自分の手の中から離れていくことんです。なぜならば、陰府において、この金持ちは、もうすでに金持ちではなくなっているからです。贅沢三昧もできなくなっているんです。それは「生きている間」のことなんです。ところが、金持ちは、生きている間だけではなくて、それ以上に、永遠に自分が持ち続けると思っているんです。だからラザロも、生きていた時と同じように、自分の所有物として、自分の自由に使えると思っているんです。

 

一方で、ラザロはどうかというと、金持ちの家の門前に、横たわって、死を待つしかない状態にあった時も、またそうなる前からも、ラザロは、悪いものをもらっていた。。。。その悪いものが何であるかについては、具体的ではありません。でもラザロには、良いものはなかったし、良いと感じることができないものばかりであったということなんです。それでも、横たわり、どうにもならない中で、食卓の上から落ちる物でもいい、食事の残り物でもいい、それを食べたいと思った時には、彼にとっては、食卓から落ちる物も、良いものではないかと感じていたのかもしれません。

 

そういう対照的な2人に対するそれぞれの言葉、「今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」という意味は、生きている間、どんなによい生活であっても、あるいは悪いものしかなかったとしても、それぞれに亡くなった後、今は良かったけれども、亡くなったら、悪くなるとか、今は、悪いものばかりだけれど、亡くなったら、良いものが与えられるという、それぞれの立場が逆転するということでなくて、生きている間のことは、「生きている間」のことです。それ以上はありません。それはそれで完結です。でも、今は、ラザロは慰められ、今は、金持ちはもだえ苦しむのだという、今のことを、アブラハムははっきりとおっしゃられるんです。

 

そして今、金持ちがいる陰府には、アブラハムが行くことができない、そこにいる金持ちのところにも来ることができないと言われる通り、非常に大きな淵があるんです。その淵という言葉も、聖書の中に、ここにしか出てこない言葉です。それほどに大きな淵、裂け目から、こちらに来ることも、どうすることもできないことを、信仰の父と呼ばれたアブラハムも、この金持ちにもできないと、はっきりと語るんです。それは金持ちに、諦めなさいという意味で言っているのではなくて、アブラハムでもだめだし、もちろん金持ちにも何もできないけれども、モーセと預言者、すなわち聖書を与えて下さった神さまの言葉に聞くことを通して、聖書に約束されている、神さまの救いを実現するために、来てくださったイエスさまは、越えられない淵でさえも、それを越えて、そこにまで行くことができるという約束の言葉に出会えるんです。

 

イエスさまが十字架の上で、神さまを知らないでいる、神さまの言葉を聞こうとせずにいたことを、十字架の上で全部受け取って下さったイエスさまが、その上で、叫ばれた言葉があります。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」聖書には、エリ、エリ、レマ、サバクタニという言葉があって、その後に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると、聖書の言葉が続きますが、エリ、エリ・・という言葉は、アラム語と呼ばれている言葉が、そのまま使われています。このアラム語と言う言葉について、昨日、分区フェスティバルの午前中の講演の中で、講師の先生から教えられたことでしたが、アラム語は、当時の世界の共通語であるということです。つまり、その叫びは、イエスさまが、神さまでありながらも、神さまからも切り離され、全くの孤独の底まで来てくださった時の、イエスさまの、赤裸々な叫びであると同時に、イエスさまは、神さまの救い、神さまが助けてくださるという約束を実現するために、イエスさまは、神さまから切り離された、全く孤独にまで来てくださったことが、全世界の共通語として、全世界の人々に、分かる言葉で語られているんです。

 

でもイエスさまは神さまですから、神さまから切り離された全くの孤独にまで降りられる必要は、全くありません。それなのに、イエスさまは陰府に下られたのは、そこから甦られることを通して、神さまはすべての人々を助けるということを、その通りに実現してくださるためだからです。

 

その通り、イエスさまは、その人の人生、その人の命、その人の苦しみの、その下まで降りてくださいました。亡くなった後の苦しみにまで、誰も越えられない神さまからも切り離されたところにまで、来てくださり、助けてくださるんです。だからこそイエスさまは、神さまでありながら、神さまであることでさえも、固執することなく、陰府にまで下られ、そこから甦られ生きておられるからこそ、救い主であるんです。

 

その時に、金持ちは、自分のことだけではなくて、自分の兄弟5人が、自分のように苦しまなくてもいいようになってほしいと願いますが、それに対して、アブラハムはラザロではなくて、聖書に聞くようにということを、その5人の兄弟にも勧めます。

 

それを、私たちに置き替えればどうでしょうか?それは、私と言う一人の人にだけではなくて、神さまは、私に連なる兄弟5人にも、あるいは兄弟ということから家族ということにも繋がっていく中で、その家族を、救い、家族を神さまが助けてくださるためには、神さまが与えて下さった聖書の言葉に耳を傾けるということ以外に、道はないということを、ここで伝えているのではないでしょうか?そして神さまだけがその兄弟、家族を救ってくださるんだということを、ここで与え、示しておられるのではないでしょうか?

 

人が人を救うことはできません。人が人を、本当に助けられるかというと、本当に助けることは、人にはできません。人の人生を、自分の手でどうにかできるものではないということと同じです。しかし、私たちには、どうにもならないことであっても、私たちが行くことができないところにまで、手の施しようのないところにまで、神さまだけは、人には越えられないことを越えて、その人のところに、行き巡って救い、助けてくださいます。人にはできなくても、神さまにはできます。だからこそ、神さまが約束されたその言葉、聖書の言葉に耳を傾けていくことができるようにしてくださる、神さまに頼ること、そこしかないということへと導いて下さるんです。

 

10数年前のことです。ある方から一枚のお葉書をいただきました。久しくお会いする機会がありませんでしたから、頂いた時にはびっくりしました。その方は、もともとは本当にお元気な方で、しゃべる時には、どこにいるかすぐにわかるくらいに、大きな声でした。ところが、病を得られた後、いろいろなところを通らされたのですが、その病が落ち着いている時に、下さったハガキでした。それは聖書日課という、毎日の聖書個所からのメッセージを、いろいろな先生が順番で書かれたものを読まれての思いも綴られていました。

 

主の恵みに感謝していかされていることを喜んでいます。ご無沙汰しています。お元気ですか?私は今、神さまの御計画の中で、小さく、弱い者に造り変えられています。元気ばりばりはすべて、主に返還しました。代わりに病気をいただき、神さまの愛が深く見えるようにされているところです。実は聖書日課を友達が学び終えると、3カ月後に私のところに回ってくるようになっています。7月7日のところで、「労苦を通して」のメッセージに私の心が動かされ、聖霊の働きを感じ、私の心はおどる喜びでいっぱいです。ハレルヤ、ハレルヤと主を讃美しました。この喜びを今からある方にも持っていきます。神さまはすべてを恵みの内に祝福へと変えて下さる約束を信じて・・・

 

神さまは聖書の御言葉を通して、人がそこまで行くことができない、どうにもならないところであっても、それこそ、それまであったものが失われてもなお、失われたところでさえも、与えて下さるお恵みがあることに、気づかせ与えてくださいます。その神さまの恵み、助けを、人の手が及ばないところにまで、聖書の言葉を通して、神さまは必ず届けてくださいます。神さまは今も、生きて働き、どうにもならないようなところにまで、行き巡ってくださるお方、人には越えられない淵がどんなにあっても、神さまだけは、それを越えて「神は助ける」ことを、その通りに実現してくださるお方だからです。

説教要旨(10月1日)