2023年6月4日礼拝 説教要旨

松田聖一牧師

喜びにあふれて(ルカ10:17~24)

大航海時代、コロンブスがアメリカ大陸を発見するために、船に乗って出発し
た時の金言(きんごん)とされている言葉に「大海原に出て陸が見えなくなる恐怖に耐えられなくては、新しい大陸に到達することはできない。」と言う言葉があります。その通り、自分の知っているところではなくて、全く知らないところに、一歩踏み出すということは、恐れがありますし、それに耐えることも必要です。それはその通りです。でも、現実はいつもできるかというと、そういうことばかりではないと思います。
この72人の弟子たちが、イエスさまからイエスさまの行こうとされた町や
村に遣わされていくというのも、それと重なります。というのは、イエスさまが、今日の聖書箇所の前で、おっしゃっている通り、彼らを取り巻く状況は、彼らを受け入れようとしないだけではなくて、彼らにとって、もっと大変なことがあるということが、十分にありました。だから、イエスさまが行こうとされるところに、一歩踏み出すという時、恐れもあったし、不安もありましたから、なかなか踏み出せない中にあったと言えるでしょう。けれども、イエスさまは、やってごらん、出かけて行ってごらんと、イエスさまが行こうとされる町や村に遣わし、送り出してくださるのです。
そしていよいよ、遣わされようとしたとき、イエスさまは、72人まとめてではなくて、2人ずつ遣わされるのです。ということは、遣わされる側からすれば、それまで72人いたところから、たった2人になってしまいます。それは72人でいた時とは、全然違います。急に減ったと感じますし、心細くなったと思います。しかもその2人にとっては、未知の世界に踏み出していくようなものですから、不安や恐れがますます大きくなったことでしょう。それでもイエスさまは、2人ずつ、遣わされ、そこから、彼らが帰って来た時、「喜んで帰って来て」いるのです。
ここで不思議なことが2つあります。第一に、「帰って来て」と言う言葉は、
2つの言葉、すなわち「背後に、転じる」という言葉が1つになっているのです。
そこから逆戻りするとか、向きを変えるとか、そっぽを向くとか、顔をそむけるという意味で、「帰って来て」という言葉になっているのです。ということは、イエスさまのもとに帰って来た時、喜んでではあっても、イエスさまのおっしゃられるとおりにしようとして、帰って来たのではなくて、イエスさまに背を向ける、そっぽを向いて、逆戻りしているのです。本当はまだイエスさまのところに戻って来てはいけなかったのではないか?まだ遣わされた先で、まだやることがあるのに、それを放り出してやめてしまったのではないか?いろいろなこと考えられますが、でもそういうそっぽを向いた状態でも、喜んで帰って来ているのです。
そしてもう1つ不思議なことは、どうして2人ずつ、ではなくて、72人にな
っているのでしょうか?遣わされた時には、2人ずつです。でも帰って来た時には、72人。どこかで集合できたのでしょうか?どうやって時間と場所を合わせることができたのか?途中でお互いに相談して集合場所などを決めていたのか、あるいは、2人ずつだったけれども、遣わされた先で、やはり2人では不安になってしまったので、その2人ずつが、途中で、集まって、結局は72人一緒に行動するようになっていたのか?いずれにしても、72人は、イエスさまに対して、向きを変え、そっぽを向くという者同士、仲間同士で集まったことを、喜んでいるのです。言い換えれば、イエスさまのおっしゃられた通りにしなかったということ、そっぽを向き、逆戻りをした者同士の一体感が生まれているのです。それが彼らの喜びになっているのです。

あるテレビ番組で、ある料理屋さんを、その道の名人が訪ねていって、そこでなされている料理方法を見て、その名人が、いろいろと指導して、もっと良い料理が出せるように、料理人を始め、お店の方々にいろいろと教えていくという内容でした。そのご指導の内容も、叱咤激励というよりも、厳しく、ご飯はこういう風に炊くんだ~しゃもじの使い方、酢飯にするためには、こうするんだ~というご飯の混ぜ方から何から何まで、1から教えていかれるのでした。そうするうちにだんだん身についてこられて、その名人からも、これでよし!と合格をいただいて、そのお店は再出発をしていく・・そこにたくさんのお客さんが来られて、本当によかった、良かったと終わるのですが、実は、その続きがありました。というのは、同じその名人が、あの店はあの後どうなっているか?ということをリサーチするために、電撃訪問をするんです。あるお店は、正しく指導いただいたことをしっかりと守って、更に良いものを出していかれるようになっていました。お客さんも一杯でした。突然の訪問にも、そのお店の方々は、あの時はありがとうございました~と感謝の言葉を返しておられました。ところが、別のお店を突然訪ねると、そのお店の方々のしていることが、名人が教えたこととは全く違って、それまで自分たちのやり方でやっていたことに戻っていました。それを
見た名人は、何をやっているんだ~ということで、またご指導が入ることになり、ようやくまたきちんなったところで、その番組が終わるのですが、
せっかくちゃんと導いていただいたのに、その指導くださった名人がいなく
なると、自分流の、我流のやり方に戻ってしまうことは、あることです。それはその名人に対しても、その正しいやり方に対しても、そっぽを向いた形になっているのです。でもそれでお店の方々は、ある意味で1つになって、お店をやっておられたのです。

72人も同じです。イエスさまから遣わされたけれども、イエスさまが目に見
る形で傍にいらっしゃらなくなると、元に戻ってしまったのです。その結果、イエスさまにそっぽを向き、イエスさまのおっしゃられる通りにしようとしないということで、集まり、喜んで帰って来て、イエスさまに「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」彼らは、遣わされた先で、イエスさまの名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服する、服従するという出来事があったことを、喜んでイエスさまに報告しているのです。
この彼らの喜びを、別の面から見ると、悪霊が、自分たちに負けたということと、同時に自分たちが、悪霊に勝った、自分たちが、屈服させることができた、私たちに、従ったという、勝ち組、勝者の側に立てたことを喜ぶ、喜びになっているのではないでしょうか?
けれども、そもそも悪霊さえも屈服しました、という出来事は、彼らの力とか能力ではなくて、イエスさまがしてくださったことです。「わたしは、・・蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」と、イエスさまがおっしゃっている通り、そういう力を、イエスさまが授けてくださったからこそ、「あなたがたに害を加えるもの」悪いことをするものは、何一つ、誰も一人もいないのです。それなのに、彼らは、「悪霊さえもわたしたちに屈服します」と、自分たちの手柄のように受け取っていたところがあるのではないでしょうか?
そのことを通して、イエスさまが与え、イエスさまがしてくださったことと、自分との関係を振り返ってみましょう。確かに自分自身が何かをする時、しているのは、自分自身です。それはその通りです。何かをする時、努力もしますし、時間も使いますし、時には、お金も使います。でもそれは、自分がしたことであることは、その通りであっても、そこに遣わして下さったイエスさまが、やりなさい、やっていいよと赦してくださらなければ、何一つできないのではないでしょうか?そういう意味で、自分がしていることは、確かにその通りだけれども、それは神さまであるイエスさまの赦しの中にあるということです。ところが、それを忘れてしまって、自分の力で、何もかもできたと受け取ってしまうことが、この2人ずつから、72人になっていた彼らの姿でもあるのです。
だからこそイエスさまは、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」喜ぶな!と、わたしたちができた!わたしたちにできる力がある!というところから、「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」すなわち、限界がない、すべてを治め、支配し、支えておられる神さまが、あなたがたの名前を憶え、その名前を神さまの中にちゃんと書き記されていることを、喜びなさい!なんです。彼らに自分たちができたこと、自分たちのしてきた実績を喜べとはおっしゃっていないのです。何をしたのか?何ができたのか?ということよりも、ただあなたがたの名前を、神さまは覚えていてくださっていること、神さまの側で書き記されていることを、喜びなさいなのです。
なぜならば、私たちのしていること、私たち自身には限界があるからです。ど
んなに努力をして、どんなに一生懸命したことであっても、それによって、それなりの実績を上げることができたと受け止めていることであっても、それはイエスさまがして下ったことに対して、本当に、小さな小さな、からし種一粒ほどのものです。それは、21節以下にもおっしゃっている知恵ある者も、賢い者も、多くの預言者も、王も、どれほどの能力を持ち、力を持ち、権力を持っていたとしても、1人の人以上のものではないし、自分以上の自分にはなれないものです。
そういう限界がありながらも、神さまであるイエスさまは覚えていて下さるのです。名前を決して忘れることはないのです。
いつも覚えてくださること、いつも覚えて祈って下さる方がいるというのは、
わたしたちにとって本当にうれしいことですね。昨年天に召された飯田馬場町教会の先生のことを思い起こす時、祈りのネットワークと題して、南信分区の諸教会の祈りの課題をまとめて、毎年作ってくださっていました。北は大町から、南は飯田、喬木教会まで、それぞれの祈りの課題を挙げてくださり、共に祈り合いましょうと、いつもおっしゃっていたことでした。そんなお互いに、祈りに覚えていくことは、お互いに祈られているということでもあります。
その中には、わたしのことを祈りに覚えてくださっているということでもあ
ります。私のために、祈って下さる方がいること、祈られているということ、それは、本当に大きな支えです。そして覚えて祈るという時、具体的には、神さまに、あの方、この方のことを覚えて祈っていくのですが、その時、祈る祈り手である私たちの力では、どうにもできないこと、限界があることを、認めている姿でもあるのではないでしょうか?それでも祈れるのは、わたしには限界があるし、何もできないけれども、できない私に代わって、神さまがしてくださると信じて、祈ることができるからです。
なぜならば神さまは決して、わたしたちの名前を忘れないからです。この世に
生まれ、育たれた一人一人の名前を神さまは忘れないのです。ちゃんと覚えていてくださるのです。そしてその人のすべての出来事には、いつも、神さまが支え、導いて下さっていること、そしてそのすべてにおいて、神さまは、守り支え続けてくださっているからです。ああ!神さまに本当にずっと支えていただいていた~本当にお守りくださっていた!そのことを知れば知るほど、そのことを知れば知るほど、喜びがますます溢れていくのです。
イエスさまを信じて、洗礼を受けたいと願われた方のために、時には病床洗礼というのがあります。その病床洗礼を受けられた方々のことを思い起こす度に、本当にいろいろな人生を歩まれて、ようやく神さまに出会うことができた喜びと安心、神さまに守られ、神さまに赦されたことを喜ぶ喜びに出会うことが、その度毎に与えられたことでした。一人の方のことを思い起こします。それは洗礼を受けた後、その日の、夜のことでした。どうしておられるかと病室にお訪ねしましたら、顔から体から全身で、喜んでいました。イエスさまに出会い、神さまから、赦して頂いたことを、体全体で喜びをあらわしておられたのでした。何度も何度も、「本当によかった~神さまを信じて良かった~神さまは本当に私を守っていて下さり、本当にいつも共にいてくださる!もうこれからは大丈夫だ~」という安心と喜びが、あふれ出ていました。それが伝わってくるのです。その姿を通して、すごく教えられたこと、それは、洗礼を受けるということが、こんなに大きな喜びなんだ~ということでした。神さまに赦されていること、神さまに覚えられていること、神さまに守られ、いつも共にいてくださることが、こんなに大きな喜びになるんだ!洗礼の喜びは、こんなに大きいのだ!ということ、を教えていただいたことでした。そしてその喜びは、イエスさまの喜び、イエスさまが誰よりも喜んでおられる喜びでもありました。「天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。」その二重の喜びを見ることができるように導いてくださったのでした。その喜び、あふれる喜びを、見ることができるようにしてくださいます。その喜びを見る目を与えてくださいます。その喜びとの出会いを与えて
くださいます。そして私たちにも、喜びをあふれさせてくださいます。

説教要旨(6月4日)