2022年12月25日礼拝 説教要旨

地には平和(ルカ2:1~20)

松田聖一牧師

 

先日に守られました子どもクリスマス会では、礼拝の後、ゲームを一緒にしました。その1つに、子どもたちにそれぞれ紙袋が手渡されて、その中には目や、口や、耳などが入っていて、その目や、口、耳などを、顔に思い思いに張り付けていきました。すると大変面白い顔になっていきまして、それがまたほのぼのとした笑いを誘います。結局その顔は、誰の顔だったのかというと、サンタクロースでした。おひげも面白いところに張り付けられていて、こんなサンタさんもいたら楽しいなという感じでした。そういう目や、口や、鼻、耳も、おひげも、貼る場所によって、本当にいろんな顔が出来上がります。貼る場所が少し違うだけでも、全然違った顔になります。そういう意味で、顔というのは、本当にいろいろです。いろいろな顔があります。そのいろいろな顔についての学問としてあるのが、人相学というものです。いろんな顔のタイプ、目がどうとか、鼻がどうとか、眉毛がどうどか・・・によって、その人の特徴が現われて来るそうですが、それは、根拠がないのではなく、統計学的にまとめられた学問です。そしてその学問は、イエスさまが誕生した時代には、もうすでにありました。ここでなぜ人相学ということを紹介するのかというと、人相も含めて調査をしたのが、今日の聖書に出てきます人口調査でもあるからです。つまり、この調査は、人口がどれくらいかということだけではなくて、人相も含めて、その人の名前、家族構成、財産がいくらあるか?といったことまで、いろいろなことを調査するのです。ではなぜそこまで調べたのかというと、どこに誰が何人いるのかということだけではなくて、領土内にいる人々には、どんな人相の人がいるか、ということを確認することで、当時のローマ帝国内で争いが起きないように、争いを起こしかねない人を監視するためでもあります。人々の間で、財産と言ったことで、もめごとがないように、国をしっかりと治めるために、人々を把握する必要があったのです。

 

そういう内容も調べる人口調査の対象に、ヨセフも、「ダビデの家に属し、その血筋であった」ことから、なっていました。だから、ベツレヘムというダビデの町に上って行くのです。その際(5)身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ということですが、「登録するためである」と言う言葉を詳しく見ていくと、今登録するということのために、と言う意味ですから、登録が完了したとはなっていません。つまり皇帝アウグストゥスの勅令に基づいた人口調査、登録ということを、ヨセフは確かにしようとしていますが、マリアはいいなずけ、婚約中の身でありながら、神さまによってイエスさまを身ごもるという中で、登録することができる条件が整っていたのか?というと、決まりごとに反することをしたということで、本来ならば、石打の公開処刑で命が失われてしまうのです。ということは、マリアの住民登録というのは、そもそもイエスさまを身ごもったことで、公開処刑者の1人として見られることで、もはや成り立たなくなっているのではないでしょうか?つまり、もはや生きてはいけなくなった彼女が、人口調査に答えて登録をする必要がなくなっているのです。けれども、ヨセフは、マリアと「一緒に登録するため」にベツレヘムに上って行くのです。ということは、もちろん神さまが2人も含め、イエスさまを守って下さるという約束があることは確かではあっても、現実にはヨセフにとって、マリアと一緒に登録するということは、命がけのいろいろな場面があったのではなかったでしょうか?

 

杉原千畝さんと言う方が、リトアニアに戦時中おられました。その領事館にたくさんのユダヤ人の方が押し寄せました。そして、リトアニアを通って、日本に行けるように願い迫った時、彼は、外務省の命令に背いて、日本を通過するビザを発行し続けたことが、6000人の命のビザと呼ばれている出来事に現わされていますが、でもそういう素晴らしい評価を得られるようになったのは、ずいぶん経ってからのことです。当時は、外務省の命令に背いたということで、外務省を追われることになったのでした。それは職を失うということになりますから、ご本人はもとより、ご家族も大変だったと思います。けれども命令に背いてでも、ユダヤ人の方を助けたいという願いで、日本通過のビザをギリギリまで発行し続けたのでしたが、そうすることは、自分がこれからどうなっていくか分からないことに足を突っ込んでいくことですから、ある意味で命がけのことです。それと同じことが、日本通過ビザで日本にやって来られたユダヤ人の方々を、助けていかれた方々がいました。その中で、迫害を逃れて神戸に来られたユダヤ人の方々を助けていかれる方々の存在もあります。その時のことについて「神戸にはユダヤ難民に対して反ユダヤ主義はなかった。あったのはあたたかい思いやりとやさしさばかりだった」と言われていますが、しかし当時は日本とドイツは同盟国同士ですから、日本でユダヤ人の方々を助けておられた側の方々も、いつどうなるか分からないような中での日々ではなかったでしょうか?そういうことから言えることは、人を本当に助けようとする時、ただ大変だ、かわいそうといった人情だけでいけることかというと、助けようとする側も、助けようという覚悟と、場合によっては命がけのことになります。それでは、このことを私たちに当てはめていく時、本当に人助けができるか?という問いには、いろいろなことがあると思います。助けようとして一緒に行こうと、どんなに思っていても、そこに命がけの覚悟がいる、ということになった時には、しり込みしてしまうこともあるのではないでしょうか?

 

ヨセフがマリアに対してしようとしたことは、そういうことです。マリアと一緒に行こうという気持ち以上に、ヨセフにも身の危険が迫る中でのベツレヘム行きです。それに続いて「ところが」という言葉が続きますが、5節と6節の間には、日本語の聖書には現わされてはいませんが、もともとのギリシャ語新約聖書には、5節と6節との間には空白があるのです。すぐに6節が始まってはいないのです。ということは、ベツレヘムに上って行ったはいいけれども、そこでヨセフ、マリアが願っていた住民登録ができたのか?ベツレヘムに着いて、すぐにできたのか?そのことについては、空白はあっても、具体的には何も書いていないんです。でも、ところが、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちで、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」イエスさまが生まれたということが続くのですが、イエスさまが生まれたということは、ヨセフ、マリアにもう一人家族が加わったということになります。人口が2人から3人に増えたのです。ということは、住民登録の必要が、2人ではなくて、3人になったのです。それなのに、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」その意味は、ヨセフとマリアはダビデ家の「その血筋であったので」とはっきり書かれているのに、イエスさまが生まれたことで、ヨセフにもマリアにも、場所がなかったこと、イエスさまは、宿屋ではなくて、飼葉桶に寝かせられたということは、イエスさまも含めて、住民登録の対象にはならなかったのではないでしょうか?つまり、ダビデ家の血筋だったのに、ダビデ家に属さないことになり、人としてベツレヘムにいるのに、またイエスさまが生まれたのに、登録の対象ではないということによって、人として数えられないことになるのです。それは人として、自分がここにいるのに、自分の存在を奪われたかのようにも受け止めてしまうのではないでしょうか?

 

それは羊飼いもそうです。羊飼いも、人として数えられるということが失われていました。人として生きているのに、生きてはいないものとみなされ、誰からも顧みられない中にありました。しかしイエスさまは、そこに生まれて下さったのです。そしてイエスさまの誕生によって、ヨセフもマリアも、羊飼いと同じところに立たれたのです。

 

それは、イエスさまが人として数えられない立場、立場を失い、場所がない、ということがどんなに大きなことか!そして人が、人として認められないでいるということの、いろいろな現実、場所がない、立場がない、というところで受けるいろいろなことも共に受けて下さるだけでなく、それがどんなに大変で大きなことかを、分かっていてくださるのです。どんなに大変か!どんなに辛いか!を分かったうえで、共に受けて下さっているからこそ、イエスさまは、そこで救い主となっておられるのです。

 

命を失うか、声を失うかという選択を迫られている25歳の女性の方のことが紹介されていました。難病を負い、家族からは何も音沙汰がなく、家族や親せきの方は誰も来てくれませんでした。でもその中で、介護してくださる方、看護してくださる方が大きな支えとなっていました。その方々との日常会話、話をしたり、聞いたりすることが、彼女にとっての大きな喜びであり、励ましでした。しかしそんな彼女は、生きるために、声を失うということを選択していくという時、その前に伝えたいこととして、こうおっしゃっていました。「世間一般でいうお父さんお母さんがいて、当たり前に「いってらっしゃい」と「おかえり」を言ってくれる。。。それだけが欲しかった」それに対して、いろいろな方の反応があり、その1つにこうありました。

 

「おかえり ただいま」の何気ない言葉のやり取りに夢を抱いていた。その気持ちすごく分かります。言葉を交わす人が一人でもいい。そばにいてくれるって本当にありがたいです。 私もいろいろあって子供の頃、神様に「一人でいい。私の味方になってくれる人といつか出会えますように。」って辛かったり痛い目にあうといつもお願いしてました。 あなたはまだまだ言葉にしたいこと一杯あると思います。あなたのブログこれからも読ませて頂きます。思いを聞かせて下さい。

 

お帰り、ただいまという、お互いの会話があるだけで、人は人となっていけますね。私の味方になってくれる人が一人でもいたら、勇気と大きな支えになりますね。自分の場所ができるからです。自分がそこで生きていていいんだ、という安心が与えられるからです。でもそれがない時には、自分の場所がないと感じるだけでなく、私は私として、ここにいていいんだという安心も何も感じられません。それこそ平和がないと感じてしまいます。

 

羊飼いたちも、また場所がない、立場がない、というところにいました。家族はどこにいるのでしょうか?そのことには何も触れられていません。そして羊飼いたち同士が交し合った言葉も、野宿をしながら羊の群れの番をしていた時にはありません。そんな羊たちに与えられた大きな喜びの知らせ、「あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」を聞いた時、彼らにとって、私たちのためにイエスさまが、救い主として生まれたということを初めて知りました。あなたがたと呼んでくださる神さまがいることに初めて出会いました。そしてあなたがたと呼ばれて、初めて、私たちに気づけたとき、あなたがたと呼んで、受け入れてくださっているお方のそばに行きたいと思えるようになりました。

 

そこから初めて、羊飼いたちはお互いに、あなた同士だということが分かりました。お互いに『あなた』と呼び合う、その言葉を交わし合う関係となっていくのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」この時から、羊飼いたちは人として生き始めていくのです。場所がなかった、立場もなかった、誰からも顧みられなかった、そのところにイエスさまが救い主として来てくださったことで、彼らも、やっと人間になっていけたのです。そして自分たちの世界から出かけて、喜びを伝える平和の使者として生き始めることができるのです。

 

地には平和と讃美した天使たちの讃美は、世界平和のことだけを思って讃美したのではなくて、人として、人となっていける、会話、おかえり、ただいま、あなたがたと呼んでもらえること、あなたとして受け入れられることを通して、自分の場所が与えられた時、私たちにとっての地には平和との讃美が、本当に私たちにとってのものになっていけます。なぜならそこに、救い主イエスさまが、生まれて下さったからです。

説教要旨(12月25日)