2022年12月24日 クリスマスキャンドル礼拝 説教要旨

クリスマスの喜び(ルカ2:8~20)

松田聖一牧師

 

中学生から大学生にかけて、長野県の飯山というところにある戸狩スキー場に、春スキーに毎年出かけていました。スキーと言うのは楽しいという思い出がありますが、最初から滑れたわけではなくて、初めてのスキーは、こけてこけて、すべるどころではありませんでしたが、そんな何もかも初めてという時に、初めてリフトに乗った時、乗ろうとしたとき、いろいろと教えてくださる方に連れられて、リフト乗り場に行きましたが、リフトに乗れないんです。リフトが目の前で止まってくれると思っておりましたら、とんでもなくて、リフトが動いているんです。そのリフトに、乗らないといけないことに初めて気づかされ、何度も何度も乗ろうとしましたが、止まってくれないんです。それが怖くて怖くて、なかなかでしたが、それでもようやくリフトに乗りましたら、今度は、リフトの下をスキーで滑っておられる方がいる、その姿を見下ろせるくらいの高いところを通っていきます。その瞬間にまた怖くなりました。それで格好が悪いのですが、リフトにしがみつくしかありません。そこにまた風が吹いてくると、揺れます。それでまた余計にしがみつきながら、リフト降り場に近づくのですが、降りる時も、リフトは止まってくれません。リフトが動いたまま、そこからスキーを滑っていくということで、それでまた降りる時にも、怖くて怖くてたまりませんでした。案の定降りる時にも、またしりもちをつきながら、滑ったと言いますか、スキー板で滑ったというよりは、お尻で滑って降りたようなことでした。それからだんだんと慣れてきて、ようやく滑るということが楽しくなってきたわけですが、最初は怖い、恐ろしいです。なぜ恐ろしいのか?それはやったことがなかったということと、何がこれから起こるのかが分からない、というところから来る恐れではなかったかと思います。

 

羊飼いもそうです。というのは、天使がクリスマスの知らせを告げた時、開口一番が、「恐れるな」だからです。それに続いて「大きな喜びを告げる」と続くわけですが、なぜ最初に恐れるなと言われたのかというと、彼ら自身に恐れがあったからではないでしょうか?その恐れの具体的なことは、いろいろと言えると思いますが、まずは羊飼いにとって、天使が現われ、大きな喜びを告げると言われた時、何がこれから起こるのか、分からないという所から来る恐れがあったのではないでしょうか?

 

それは羊飼いだけではなくて、私たちもそうですね。何が何だか分からない時には、恐れます。スキーだけではないですよね。初めて車を運転された時、いかがでしたでしょうか?教習所で初めて、車に乗って、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ時、あるいは初めてバックをしたとき、初めて路上に出た時、いかがでしたでしょうか?今はオートマですが、私自身は、ミッションのギアの時でしたから、半クラッチがなかなかできなかったことでしたし、タイヤがどのあたりにあるのか、全くつかめずに、教習所のコースで脱輪しかけたり、S字カーブを曲がり切れなかったりといったことなどが、山のようにありました。逆走しかけて、隣の教官に急ブレーキを踏まれて、叱られたことなどがありましたが、とにかく運転するというのが、何が何だか分からなかったので、怖い思いをしました。そういう意味で、恐れというのは、何が起こるのか分からない時、自分にとって初めての経験をする時、味わうことです。

 

そして、その恐れは、何に対する恐れなのかというと、結論から言えば、自分自身への恐れです。スキーも、リフトも、車の運転も、それ自体は、怖いぞ~と言っているわけではないのに、恐れを感じるのは、自分自身に、恐れる恐れがあるからです。自分が怖い、恐ろしいと感じている時には、恐ろしくもなんともないものまでも、全部恐れを感じます。こわくないのに、怖いと思うんです。

 

羊飼いたちのその恐れも、彼ら自身に恐れがあったからです。というのは、羊飼いという職種、職業と言っていいでしょうが、彼らが羊飼いとなっているところから、見えて来るものがあるからです。

 

1つには、羊飼いには、住民票、戸籍がありませんでした。その理由はいろいろあります。その具体的な1つには、羊飼いとなった理由が、過去に何か犯罪を犯した人もいたということです。いわゆる犯罪歴を持つために、住民票、戸籍が失われ、前科があるために、町で仕事をもらえず、野原で野宿をする羊飼いにならざるを得なかったことでした。そのために、町の人たちからは、こう言われていました。「チ-ズを買うとき以外は、羊飼いには近づかないように」特に、両親は子どもたちに「羊飼いには絶対に近づかないように」と教えていました。

 

そして羊飼いとなった羊飼いは、羊の世話を毎日365日欠かさずしなければなりません。生き物ですから、その世話をするにあたって、休みはもちろんありません。だから、神さまが与えて下さった安息日を守るという決まりも、守れなくなるのです。そうなると、羊飼いは、神さまの決まりを守れない人たちだということになり、神さまはもう彼らを受け容れてはいないということにされてしまうのです。つまり羊飼いになったら、もう人としても、神さまからも受け入れてはもらえない、という評価を、周りから受けていくのです。

 

それは羊飼いにとって、気持ちも含めて、心穏やかではなかったと思います。自分自身が誰からも受け入れてはもらえない、神さまからも受け入れられない者になってしまったということは、自分の存在価値、自分がここにいてもいなくても、誰も気にかけてはくれないということになりますから、自分がここにいてもいいんだという安心が全くない中で、いつもびくびくしていたのではないでしょうか?恐れが彼らの体全体にしみこんでいる状態だったのではないでしょうか?さらには、過去において、犯罪を犯したということは、その時、何かの争いやいろいろな問題を起こしてきたということですが、それを起こす前から、彼らの生涯において、いろいろな問題を起こすことにもつながる環境が、平和ではなかったということも、言えるのではないでしょうか?ひょっとしたら、羊飼いになる前に、争いの絶えないご家庭で育たれたのかもしれません。争いが絶えない中にいますと、安心できません。心穏やかではいられませんから、絶えることのない争いの中で、怯え、恐れて、それでも自分の身を守らないといけないという思いの中で、必死で人に合わせ続けてこられたことでしょう。周りに自分を合わせないといけない、自分を受け入れてもらうために、恐れの中で、必死で自分の意思を封印しながら、その感覚も麻痺したような中で、いろいろなことを背負ってきたのではないでしょうか?そういう意味で、彼らは、自分がいつ認められなくなるか?その恐れといつも向き合いながらの生涯を送って来られたのではないでしょうか?

 

だからこそ彼らにまず語られる言葉が、「恐れるな」なんです。恐れを背負っていたからこそ、まずは恐れるなと告げられるのです。その意味と目的は、彼らが恐れていること、恐れている彼らに、恐れることを、やめさせようとか、恐れている彼らをダメじゃないかと責めたり、否定するためではなくて、この恐れるな、は、恐れている彼らを受け入れている言葉でもあるのです。

 

なぜかというと、恐れるなという言葉は、彼らに向けて語られている言葉だからです。彼らに向けて語られているということは、恐れている彼らとちゃんと向き合っているということです。それは彼らを、認めて、受け入れている言葉でもあるのです。

 

それに続いて、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」今日、あなた方のために、イエスさまが生まれた!という知らせが届けられたのは、恐れている彼らをも、救う救い主がいるということ、イエスさまと言うお方がいて、恐れている彼らを受け入れて下さるお方であるということも、告げ知らせるのです。つまり、恐れている時には、恐れてもいいんだということなのです。こわいものは怖いんだから、それでいいんじゃないの!ということが、イエスさまの誕生によって与えられていくのです。

 

新潟にある大学では、聖書からのお話を聞く機会があります。その1つに、「恐れからの解放」と題しての講演がありました。その講演の後、学生たちが書いた感想の1つに、こんな感想がありました。

 

葉っぱのフレディという本に「まだ経験したことのないことは怖い」、「怖いと思うものだよ」という言葉があるそうで、今の私はその言葉と同じだなと思いました。私は高校が途中から通信制だったので環境が大きく違う大学生活が始まるのがとても不安でした。そんな中、新型コロナウイルスの影響で遠隔授業になったりと初めてのことが続き、さらに不安が高まりました。ですが、葉っぱのフレディの「まだ経験したことのないことは怖いと思うものだ」という言葉を聞いて、初めてのことに怖いと思ってもいいのだと思いました。今日初めてこの言葉を聞けてよかったです。

 

羊飼いが聞いた、イエスさまがベツレヘムで生まれたという知らせは、彼らにとって、初めてのことでした。それまでにあった恐れも相まって、ますます恐れたことでしょう。でも神さまは、そんな彼らに、恐れてもいいんだということ、そして恐れている彼らを、神さまは、受け入れておられるのです。そのように、誰でも恐ろしいと感じる時があります。そして恐れている中に、恐れで終わりではなくて、その恐れのただ中にあっても、大きな喜び、救い主イエスさまが生まれた知らせを告げるのです。その証拠に、救い主を見に行こうではないかと出かけた時、彼らをイエスさまの両親が迎え入れてくれました。そして飼い葉おけに寝かされていたイエスさまに出会うことができたのでした。それは喜びを与えるものになり、羊飼いも含めて、私たちにある恐れが、恐れのままではなくて、恐れから解放され、恐れにかわって喜びが与えられていく出会いとなったのです。それがクリスマスに与えられた喜びです。恐れている時、恐れてもいいのです。こわい時には、怖がってもいいのです。そこに喜びそのものとしてイエスさまが生まれて来てくださっています。

説教要旨(12月24日)