2022年8月28日礼拝 説教要旨

何をしてほしいのか(マルコ10:46~52)

松田聖一牧師

 

私たちにとって、いろいろな出会いの中には、長く一緒に過ごした中での出会いもあれば、一瞬と言いますか、その時に出会っていなかったら・・・今のわたしはない、というその時、その場限りの出会いもあります。しかし、そうであっても、その時の出会いが、自分の道に大きく影響し、その道を決定づけていくこともあります。

 

今日与えられた御言葉に出てきます、バルティマイという人と、イエスさまとの出会いもそうです。というのは、このバルティマイが、エリコと言う町で、イエスさまに出会う、そのタイミングは「一行はエリコの町に着いた」時と、「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとされた」時のわずかな間しかなかった、としても、でもそのごくわずかなタイミングと言えるかもしれない、イエスさまとの出会いを通して、バルティマイの生き方が、大きく変えられていくのです。

 

ではバルティマイは、それまでどんな生き方をしていたのでしょうか?そのことについて、まずはバルティマイという名前から言えることがあります。それは「ティマイの子で、バルティマイ」と紹介されている通り、バルの意味である、子どもとか、息子に、ティマイがついているので、バルティマイになるわけですが、ティマイの子、息子であるという以上の名前はありません。ということは、ティマイというバルティマイの父親も含めた家族のもとにいてこそ、バルティマイになるのではないでしょうか?さらには、バルティマイが、盲人という、目が見えなかった息子なのに、ティマイの家には住むことができず、家族からのケアを受けることもなく、道端を住まいとして、「物乞い」という、人から物をもらうという生き方になっていたということは、ティマイも含めて、その家族は、バルティマイを、家族としては受け入れていなかったということではないでしょうか?それはバルティマイからすれば、父親のティマイからも、家族からも見捨てられていたということです。一番信頼していいはずの家族から裏切られ、見捨てられたということは、どう言い表したらよいか分からないほどに、大きな傷になります。また人を信頼するとか、信頼していいんだということが、抜け落ちてしまいますから、信頼ということが、どういうことなのかも、分からない状態になってしまうのではないでしょうか?

 

そして彼の世界は、「道端」に座り、人から物をもらうというその世界しかないのです。それ以外の世界に行くことはできないのです。ただ、道端に座って、音を聞くか、気配を感じる以外にはなかったのではないでしょうか?

 

神学校を卒業して最初の任地で、ある田舎の集落を訪ねた時のことでした。一緒に案内くださった地元の方が、歩きながら、こちらを指さして、こうおっしゃいました。「この建物は、昔は座敷牢だった~ここに人が入れられていた~」小さな声でおっしゃいました。いろいろな理由で家に住むことができない方々が、ここに入れられ、食べ物などを差し入れてもらっていたということでした。訪ねたその時には空き家になっていて、何も使われてはいませんでしたが、かつてそんなことがあったんだということを、目の当たりにしたことでした。

 

座敷牢の中に入れられていた方は、そこから出ることはできません。だからその中の世界がすべてです。そこから外の世界は、別世界であり、そこには一歩も出ることが許されない人生であったと思います。それがバルティマイにとっては、道端であり、じっと静かに座っているしかなかった人生の中で、大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとされた方が、イエスさまだと聞くと、それまで静かだった彼が、自分から叫びだすのです。イエスさまと言うお方を聞いただけで、それが彼の1つの突破口になって、叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」その叫びを、「多くの人が叱りつけて、黙らせようとし」ても、彼は、やめるどころか、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けていくのです。それは、イエスさまだったら、わたしを憐れんで下さると思ったからでしょうか?この時を逃したら、もう二度とイエスさまに会えないと感じたからでしょうか?それもあるでしょう。そしてそれ以上に、言えることは、この「わたしを憐れんでください」の叫びは、イエスさまを、「あなた」と呼んでいる叫び、であり、それはバルティマイが、イエスさまを、わたしにとってのあなたである!と、受け入れている叫びでもあるのです。そしてイエスさまをあなたと叫び、呼べたことで、バルティマイは、わたしがここにいる!というわたし、を、知らせることができたのではないでしょうか?

 

それは、災害などによって、捜索する時の場面と似ています。捜す方は、だれかいませんか~だれかいませんか~と叫びます。その時、建物の下敷きになって、身動きが取れない方や、道に迷ってしまっている方などから、ここにいる~と声がしたとき、私だ、助けて~という声がしたら、その声の方に向かって捜すことができます。でも声を出すことができないと、どこにいるか分かりません。もちろん捜す方々は必死で捜しますが、捜索は、難しくなります。でもここにいる~私だ!と声を出せたら、そこに向かうことができます。

 

バルティマイの叫びは、そういう叫びではなかったでしょうか?そしてその声に、イエスさまは(49)立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。

 

不思議です。イエスさま自らがバルティマイのところに行こうとしたのではなくて、バルティマイを叱りつけ、黙らせようとした人々も含めた人々に、あの男を呼んで来なさいとおっしゃられ、黙らせ、叱りつけていた人々に、イエスさまの言葉「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」を託して、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」イエスさまが安心しなさいと言っていること、立ちなさいと言っていること、イエスさまが呼んでくださっていることを、イエスさまに代わって、その人々が言っていくのです。

 

さっきの態度とまるで正反対です。全然違う態度です。どうしてそうなったのか?は分かりませんが、イエスさまは、初めは叱りつけ、黙らせようとしていた人でさえも、イエスさまからの「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」という言葉をかける人へと変えてくださるのです。その時、その人々に葛藤はなかったのか?さっきのことと、今とは全然違う対応に矛盾は感じなかったのか?その内面についての、具体的な言葉はありません。でもイエスさまは、それまでバルティマイに対して、押さえつけ、叱りつけ、黙らせようとしていたそういう人をイエスさまの思いを伝える人へ、変えてくださるのです。

 

その結果、バルティマイは「上着を脱ぎ棄て、躍り上がってイエスのところに来た」とバルティマイは、本当に心から喜べるようになるのです。そういう意味で、このバルティマイの喜びというのは、イエスさまが呼んでくださっただけではなくて、それまでは叱りつけ、黙らせようとした人々が、イエスさまの言葉を伝える人として用いられたことで、与えられた喜びでもあるのではないでしょうか?つまりその人が喜べるようになるには、1つだけがあるのではなくて、いろいろな人々が、喜びに変えられていく手段、きっかけとして用いられてこそ、その人バルティマイの喜びに繋がっていくのではないでしょうか?

 

そういうことを私たちに当てはめた時、同じ内容であっても、一人の人だけではなくて、いろいろな方が、同じ思いをもって、その同じ内容を伝えていくということも、そういうことかもしれません。お誘いするというのも、そうかもしれませんね。今晩のキャンドルサービスのきっかけとなったのは、伊那フィルの方々が、ぜひ教会で演奏をしたいという願いからでした。常々やらせてくれ、やらせてくれ~いろいろリクエストをいただいておりましたことで、今回このような形に準備され、繋がっています。この中で、その方々が、それぞれに、不思議なことですが、チラシが出来る前に、いろいろな方に、今度教会でキャンドルサービスがあるよと、声をかけて、誘いあっておられるのです。自分の知り合いの音楽好きな方に、ダメもとで誘ってみた~とか、フェイスブックに教会のキャンドルを案内してもらっているよ~とか、夜はちょっと出れないけれど、リハーサルを聞きたいから、午後にちょっとお邪魔したいとか、チラシが出来上がる前に、あれこれと案内がどんどん進んでいるのです。先週日曜日の夜に、伊那フィルの練習に伺いましたら、一人の方から、「今度、教会でいろいろやるみたいだね~」こちらから何も言っていないのに、それをどなたかから、知らされて、知っていて下さる方もいました。そういうことがあるんですね。そういう意味で、いろいろな方から、同じ内容であっても、声をかけること、あるいは声がかかることもそうかもしれません。

 

その結果、バルティマイは、イエスさまの所に喜んで来ることができたし、ティマイの子じゃなくて、イエスさまをあなたと呼べる、わたしになれたのです。そして、あなたと呼べたイエスさまが、バルティマイにおっしゃられたのは「何をしてほしいのか」なんです。でも不思議です。もうすでに彼は、「わたしを憐れんでください」と叫び続けた結果、イエスさまに出会うことができたのです。そしてイエスさまも、憐れんでくださいという叫びに、分かった、私はあなたを憐れみます、とすぐに対応できたと思います。けれどもイエスさまは、そういう方向ではなくて、「何をしてほしいのか」とまたバルティマイに尋ねられるのは、「何をしてほしいのか」という問いにある「あなたはあなた自身に何をしてほしいのか」「何を望んでいるのか」を、彼自身に気づかせようとしておられるのです。

 

あなたはあなた自身に何をしてほしいのか、に気づけることが、この時のバルティマイに必要なのです。イエスさまは、自分が自分に対して、本当にしてほしいこと、自分が自分に、本当に願っていることを、イエスさまは彼自身に、気づかせようとして、そして自分の本当に願い、私は私自身に何をしてほしいのか、僕は、自分自身に何をしてほしいのか?という本当の願い、今まで言えなかった、言葉にもならなかった、思う事すらできなかった、その思い、願いに、言葉を与えていかれるのです。それが、イエスさまに出会って、イエスさまに受け入れていただいて、初めてわたしになれたバルティマイの本当の思いに、イエスさまは言葉を与え、言葉を添えて、それを彼の口から出せるように、引き出して下さるのです。それが「先生、目が見えるようになりたいのです」なんです。

 

「目が見えるようになりたい」という、これまで言えなかった、自分自身への願い、思いを、イエスさまに出せたのは、イエスさまが、バルティマイをそのまま受け入れて下さったからです。

 

NHK全国合唱コンクールが毎年、NHKホールで開催されます。その舞台には各地区代表の合唱部が出場します。そして、そのコンクールの審査発表、金、とか銀とかが発表されるたびに、わ~とかキャ~という叫び声が沸き起こります。そして発表が全て終わった後、参加者全員で、その年の課題曲を歌います。その全体合唱で、今から10年ほど前のことですが、アンジェラ・アキさんの「手紙」という曲を皆で歌いました。

 

その歌を歌う子供たちをカメラが追うのですが、コンクール迄の練習のことやら、いろいろなことが思い出されているのでしょう。心を込めて歌います。中には感極まる子もいたり、ノリノリに歌う子もいます。それはもちろんコンクールだからということもありますが、それ以上にその歌の歌詞、言葉に自分の思いを重ねていけるからです。そして自分自身のしたかったこと、願っていたことを、言葉にして歌うことで、改めて自分自身の思い、自分を受け止められるようになっていくのです。こんな歌です。

 

手紙

 

拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう

十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです

未来の自分に宛てて書く手紙なら

きっと素直に打ち明けられるだろう

今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は

誰の言葉を信じ歩けばいいの?

ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて

苦しい中で今を生きている

今を生きている

拝啓 ありがとう

十五のあなたに伝えたい事があるのです

自分とは何でどこへ向かうべきか

問い続ければ見えてくる

荒れた青春の海は厳しいけれど

明日の岸辺へと 夢の舟よ進め

今 負けないで 泣かないで

消えてしまいそうな時は 自分の声を信じ歩けばいいの

大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど

苦くて甘い今を生きている

人生の全てに意味があるから

恐れずにあなたの夢を育てて

 

私たちは、自分自身の中に、本当の願いを持っています。私が、私自身に願っていること、したいこと、なりたいことを持っています。でもそれがなかなか思いや、言葉にできないことも、伝えられないことも、あります。けれどもそれを持ちながら、いつかどこかで、その思いに言葉を与え、言葉を添えられる時が来ます。その時を、イエスさまは与えてくださいます。そして与えられた時、わたしはわたしとして、新しく道を歩み始めることができるのです。

 

バルティマイは何をしてほしいのか。あなたはあなた自身に何を望んでいるのか?と尋ねられた時、初めて、イエスさま、そうなんです。私の願いは目が見えるようになることなんです!私は私自身に、目が見えるようになりたいと、願っていました!その自分自身の思いに言葉を与えていけるように、イエスさまが、出会ってくださいました。そして本当の自分にも出会い、自分への願いを、イエスさまは受け取ってくださっていました。だから言えたのです。「先生、見えるようになりたいのです。」と。

説教要旨(8月28日)