2022年7月31日礼拝 説教要旨

親ができること(マルコ9:14~29)

松田聖一牧師

 

親という漢字は、木の上に立って見ると書きます。その通り、親は子どものすべてに関わり続けることはできません。子どもは親離れをしていきますし、同時に、親も子離れをします。でも離れたからと言って、放っておくわけではありません。すべてに関わること、はできなくても、木の上に立って見守り続けています。

 

あるテレビ番組で小さい子どもさんが、お母さんの手から離れて、初めて一人でおつかいに行くという様子を紹介していました。ある男の子が、お金をあずかって、一人でお店に出かけて行きます。その子も不安そうですが、お母さんはもっと不安です。だからマンションのベランダから、その子をじっと眺めて、ハラハラドキドキしながら、道に迷わずにお店に行けるか?お店の中で、買い物ができたか?とハラハラしながらも、母親は、そこに行くことができません。それでもただ、見守るしかありません。そうこうするうちに、その男の子が無事におつかいを済ませて、お母さんの所に帰って来た、その瞬間に、お母さんは、その子をぎゅっと抱きしめて、よくやったね~とほめながら、時には感極まるという場面も展開していきます。それを見た視聴者も、やれやれと安堵するわけですが、そのようにその子と一緒にいたくても、行けないこと、関われないこと、親として、してあげたくても、代わってあげたくても、代わってあげられないということが、買い物だけではなくて、いろいろなことで、あるのではないでしょうか?それこそ木の上に立って、見守るしかないことが、あります。

 

イエスさまのもとに駆け寄って、挨拶した群衆の中のある者、ある人もそうです。彼は、わたしの息子をイエスさまのそばにお連れしましたと言って、連れて来ましたが、それはこの人が、息子の事で、どうすることもできないでいたからです。彼はそのことを伝えるのですが、その言葉にどんな息子であったかということが現わされています。

 

「先生、息子をおそばに連れてまいりました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。」

 

その通り、私の息子は、霊に取りつかれていること、ものが言えないこと、所かまわず地面に引き倒されること、これは地面に投げ倒され、打ち倒されることであり、口から泡を出し、泡を吹くこと、歯ぎしりして、甲高い叫び声、金切り声をあげ、ぎしぎしと歯を嚙み鳴らし、そして体が硬直していくのです。それはこの息子にとって、想像を絶する苦しみですし、所かまわず地面に引き倒されるのですから、倒れるたびに、傷を負い続けていきます。体ごと地面にたたきつけられますから、傷だらけになります。そして口から泡を出したり、歯ぎしりして体が硬直することも、大変な負担です。

 

この光景を目の当たりにして、どう受け止められるかというと、どうしていいか分からなくなります。でもそのまま放っておくことなんて、できませんから、何とかしてほしい、元通りにしてほしいと、この人は願うのではないでしょうか?でも、どうすることもできないのです。目の前で苦しんでいる、目の前でのたうち回っているのに、何もできないのです。

 

そこでこの人がしたことは、「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しました」イエスさまの弟子たちに、息子を苦しめている霊を追い出してほしいと願うのです。でも結果は「できませんでした」別の意味では、弟子たちには、その力がなかったので、出来なかった、のです。

 

それで、この人は、イエスさまに、弟子たちに息子からこの霊を追い出してくださるように申しましたが、できませんでした。と答えるのですが、出来ませんでした、であっても、この息子のために何とかしたいと願う者です。でも自分では何もできないし、どうにもならないので、だから、それでイエスさまのおそばに連れてまいりましたとなるのですが、このおそばに連れて参りましたという言葉は、辛抱して、我慢して、わたしの息子を担って、運んできたという意味です。ですから、どうすることもできないことの中で、これまでにも相当忍耐して、我慢していたことがあったのでしょう。息子がのたうち回るような行動をしていても、毎日の生活がありますから、ご飯を食べさせなければいけません。服を着せたりもしないといけません。しかし、のたうち回り、倒されて、泡を吹くといった行動ですから、じっとしていません。もちろんこの人の言う事なんて聞きません。聞こうとしません。それは、生活を共にする者にとっては、助けてあげたいという、気持ちだけでは、どうすることもできないほどに、ストレスが相当かかっていたのではないでしょうか?でも息子だから、他に頼むわけにもいかない、そのはざまで、この人も苦しんでいたのではないでしょうか?

 

それでイエスさまのところに連れて来るのですが、それに対して、イエスさまは、「何と信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と言われるのは、弟子たちに追い出してくれるように申しました、でも弟子たちが、できなかったから、イエスさまのところに、息子を連れて来たからでしょうか?まずイエスさまにではなくて、まず弟子たちに願ったことを、順番が違うでしょ!イエスさまのところに、まず連れてきたらいいのに、ということをこの人に思ったからでしょうか?もちろんそれもあります。

 

しかし、この人が、この息子を何とかしてほしいという願いを、弟子たちに持っていた時、弟子たちにもできなかったという結果ですから、結局は弟子たちには、この息子を助けることはできないことだったのです。ところが、弟子たちにはできないことなのに、それを弟子たちが、請け負おうとしたから、彼は息子のことで、弟子たちの所に連れて来たのです。でも弟子たちはできないんです。できないのだから、私たちにもできないと言えば、そして私たちにはできないけれども、イエスさまにはできるよと紹介すれば、一番にイエスさまの所に行くことができたはずです。でも弟子たちは、自分たちで、それを何とかしようと思ったので、この息子を抱えたこの人は、弟子たちのところに行くのです。

 

そういうことから、まず言えることは、人を助けること、助けようとすることは、素晴らしいことです。助けてほしいと願って来られたら、何とかしたい、何とかしてあげたいと思います。しかし、その助けてほしい、とどれほど願うことでも、内容によっては、できないこともあります。どんなに頑張っても、できないことは、どんなに助けたいという思いがあっても、できません。その力がないからです。であれば、素直にできないと認めたらいいのに、それでもやろうとしてしまうことはないでしょうか?そうすると、自分が請け負えないことなのに、自分が助けられないことなのに、できるかのように受けてしまうと、できなかっただけではなくて、助けてほしいと願った、その人も、できなかったということを受け取ってしまいます。

 

だからこそイエスさまは、この息子を連れて来たこの人に対してだけではなくて、この人を助けようとした弟子たちに向かっても、語られるのです。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」イエスさまに頼めばいいのに、どうして自分たちで何とかしようとするのか?順番が違うでしょ!ということ以上に、弟子たちのイエスさまに対する姿を、ここでおっしゃっているのです。つまり、自分たちだけで助けようとしている姿は、イエスさまから離れた姿であること、イエスさまの所に持っていけばいいのに、それを自分たちでしようとしたら、それは、共にいるとおっしゃったイエスさまと一緒に、いないことになります。イエスさまを遠ざけてしまっている姿です。その姿をイエスさまが「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」いやいられないとおっしゃっているのは、イエスさまから共にいられないということではなくて、もうすでに弟子たちが、イエスさまと一緒にいなかったという事実を指しているからです。

 

イエスさまがいつも一緒にいてくださるのに、いろいろなことを何でもイエスさまに頼めばいいのに、それをしないで、自分たちだけで何とかしようとする、そのことを「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃられるのです。

 

そのように、できないことは、できないと認めて、受け入れることは、悪いことでは決してないです。できないものはできないんだから、それを認めることで、本当に助けて下さるお方、イエスさまの助けを必要としている方を、イエスさまに、繋げることになります。だからできないことを認めることは、悪いことじゃないのです。出来る方に、繋げるためには、できないことを受け入れることも、必要です。

 

だからこそ、「その子をわたしのところに連れてきなさい」とイエスさまの方からおっしゃられるんです。その意味は、そう言わなければ、いつまでも弟子たち自身が、この息子を抱えたこの人を、手離せないままになってしまうし、弟子たちが、自分たちの力、能力に、その時はできなかったけれども、なお未練を残していくからではないでしょうか?それはある意味では自分の力を、過信してしまうことにもなるからです。そしてこの人も、弟子たちから、本当に癒してくださるイエスさまに向かうことができません。

 

そのために「その子をわたしのところに連れてきなさい」なんです。

 

その上で、イエスさまは、この息子を苦しめていたものを追い出され、二度とこの子の中に入るなとおっしゃられ、癒していかれるのですが、そのプロセスで、イエスさまは、この息子だけではなくて、父親とも向き合われるのです。

 

父親が抱えていたこと、息子が何度も何度も、火の中や水の中に投げ込まれ、死にそうになったこと、それと向き合い続けていたこと、本当にいろいろあったことを、イエスさまに声に出していくのです。これまで、本当に大変だったと思います。想像できない辛さを経験された父親が、イエスさまに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と、やや遠慮がちに言っているようですが、それは父親も含めて、その息子の家族が、いろいろなところに助けを求めても、できなかった、そして、弟子たちに助けてほしいと願って、弟子たちに助けていただこうと思った、でもできなかった、ということに、ぶつかり続けていたからかもしれません。そうなると、信頼して、助けてくださいと頼んでも、できなかったということが続いていくと、信頼することに、恐れと言いますか、信頼しても、結果が裏切られたようなことになって、それでまた傷つくということから、自分の身を守ろうとしているのかもしれません。

 

そこにイエスさまは、ちゃんと向き合われるのです。「できれば」というのか、信じる者には何でもできる、と、イエスさまは、この父親にも、イエスさまが癒してくださるのだから、イエスさまの所に息子を連れてくればいい、ということと、この父親にも、他の人ではだめだったけれども、イエスさまにはできる!何でもできるお方だ、ということを信頼したらいいんだということを「信じる者には何でもできる」と、与えていかれるのです。

 

もちろんそれは、イエスさまを信じた私に、何でもできる力が与えられるということはなくて、自分では何もできなくても、それでも、何でも、どんなことでも出来るイエスさまが、いらっしゃることを信じて、このお方に委ねる道が、確かにあることを、与えておられるのです。

 

シンガーソングライターの岩渕まことさんという方がおられます。ドラえもんの映画の主題歌を歌われたことがあったりと、様々に活躍されていますが、1980年に信仰に導かれ、受洗をされ、イエスさまを信じて歩まれた、その道すがらで出会った様々なことを通しても、歌にしていかれた方です。その岩渕さんの一人の娘さんが、小学校1年生の時、脳腫瘍になられました。その知らせをコンサート直前の楽屋で聞かれた時、何をしていいか分かりませんでした。父親として、何もできませんでした。それでも、手術をすれば命が助かるかもしれないということで、手術を受けられるその時、医師から言われた言葉がありました。岩渕さんたちはクリスチャンなんですね~だったらぜひ祈っていてください~そして27時間の手術を経て、それからもいろいろな治療がなされました。でも言葉が出なくなり、最後の意思疎通が、岩渕さんの「イエスさまが見えるか?」との問いに、こっくりうなずいたことでした。

 

その時のことを通して、1つの曲が与えられたのでした。

 

父の涙

 

心にせまる父の悲しみ

愛するひとり子を十字架につけた

人の罪は燃える火のよう

愛を知らずに今日も過ぎて行く

十字架からあふれ流れる泉

それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉

それはイエスの愛

 

父が静かにみつめていたのは

愛するひとり子の傷ついた姿

人の罪をその身に背負い

父よかれらを赦してほしいと

十字架からあふれ流れる泉

それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉

それはイエスの愛

 

十字架からあふれ流れる泉

それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉

それはイエスの愛

 

親として何もできなかった、祈ることしかできなかった、その祈りを祈るイエスさまも、そして神さまも、十字架にかかられた時、何もできませんでした。ただその上で祈るしかできませんでした。しかし、何もできなくても、何もできない、できなかったというところにこそ、イエスさまの十字架があり、その十字架においてイエスさまの愛、神さまの愛が現わされています。

 

イエスさまはそういうお方です。そしていつもわたしのところに連れてきなさい。わたしのところに持ってきなさいと、招き続けておられるのです。

説教要旨(7月31日)