2026年7月26日礼拝 説教要旨

切磋琢磨か(マルコ9:33~41)

松田聖一牧師

 

人が集まる時、そこにはリーダー、まとめ役、お世話役がいります。ある時、ホテルで集まりがあり、その集まりの裏方役で、いろいろ道具や、書類などを持ち込んで、いろいろしていました。そして食事付きの集まりが終わりまして、その会場から、先に一緒に参加された方々が退場された後も、残った書類などを片付けていましたら、ホテルの従業員の方、スタッフの方が、さあっと入って来られて、椅子やら、机やらを片付け始めました。その時の掛け声たるや、大変なもので、リーダーと思しき方は、スタッフに「次これ!」「早く!」「はい、次これ!何をやっているんだ!」凄い声が飛び交いました。ついさっきまで、サービス精神満載で、優しく、いかがしましょうか?とすごく丁寧に対応していた同じ方々が、打って変わって、凄い声になり、あの優しい姿とは全然違う姿に、びっくりしました。そんな中で、ごそごそと書類など、片づけながらも、内心は「えらいところになってしまった!早くここから退散しなければ」と思いました。

 

さて、そういう激しい、凄い掛け声をするのは、この後予定されている次のお客さんを入れるためです。それがホテル業の1つの姿ですし、そのためにリーダーは、一刻も早く片付けなければなりませんから、はっきりとあれこれ指示されるんです。そうしないと、回っていきませんし、片付けがうまくいきませんし、次の準備が間に合いません。そのためにリーダーが必要です。そういう意味で、リーダーは、表舞台だけではなくて、お客さんには見えない所での、裏方においても必要なんです。

 

それは弟子たちにとっても同じです。だから弟子たちは、イエスさまが(31)「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とおっしゃったとき、そのことが、現実に起こった時のために、イエスさま亡きあとのリーダー選びを、しようとするんです。というのは、イエスさまから、わたしについてきなさいと呼びかけられ、イエスさまの後に従っている弟子たちにとって、イエスさまあっての弟子なのに、そのイエスさまがいなくなってしまったら、イエスさまの弟子でなくなってしまいます。だからこそイエスさま亡き後のことを、彼らは彼らなりに考えていこうとしているんです。

 

そのことを、イエスさまは、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになったんですが、その議論の内容は、「だれが一番偉いか」別の意味では「誰が一番大きいか」です。そのことについて、議論しているんです。

 

それはその通りなので、イエスさまの「途中で何を議論していたのか」に、黙る必要はないんです。イエスさまが、引き渡されるとか、殺されるとか、そうおっしゃったわけですから、弟子たちは、イエスさまがいなくなった後、どうしていけばいいかを話し合っていたとか、自分たちの中で、誰が一番偉いか、誰を影のリーダーにしようかとか、あれこれ議論していた、ということも、そのまま答えていけばいいんです。ところが「彼らは黙っていた」すなわち「心の中で論じ合っていた。よく考えて出し合い、語り合い、討議していた」というのには、いろいろな理由があります。

 

1つは、イエスさまが、今は、おられる中で、イエスさまがいなくなった後のことを、あれこれ考え、議論していくということに、ためらいがあったからではないでしょうか?それはそうです。生きているその人を目の前にして、いなくなった後のことを、残される者同士て、どうしよう?どうすればいいか?誰をリーダーとして立てなければいけないか?といったいろんなことを、すらすらと言えるかというと、これはなかなか微妙なところがありますね。同じことは一般的にもそうです。ただご家族によっては、面と向かって、はっきりと言われる方もおられますね。例えば、こんなやり取りがあります。「ちゃんと通帳とハンコがどこにあるか、分かるようにしておいてね!」とか、「一杯押し入れや、タンスにあるもの、元気なうちに片づけておいてね!後が大変だからね~」といった、素直な、ストレートなやりとりもなくはないですね。じゃあ何もかも全部言えるのか?というと、内容によっては、直接面と向かって、ストレートには言いにくいということもあります。

 

もう1つのことは、今までリーダーとして引っ張って下さったイエスさまがいなくなった、後のことを、残された者たちは、これから自分たちはどうやっていくのか?その生活も含めて、どうするのか?という待ったなしで考えないといけないこともあるからです。いくら何とかなるとか、なるようになる、であっても、これからの現実があります。彼らにも人生がありますから、何とかして生きていかなければなりません。ただ彼らに、たくさんの選択肢があるのか?というと、漁師であった者であれば、漁師に戻れるか?他の弟子たちであれば、弟子になる前にしていたことに戻れるのかというと、戻れない弟子もいるんです。具体的には、熱心党のシモンと言う弟子と、取税人マタイと言う人がいますが、熱心党のシモンというのは、過激派です。ローマ帝国を潰そうと運動していた革命運動家と言ってもいいでしょう。そこから離れて、イエスさまに従って行ったシモンが、じゃあ元に戻れるのかというと、一旦、熱心党から離れたということは、縁を切ったということですから、一旦縁を切ったところに、もう一度戻れるかというと、戻れないものです。かたや取税人マタイは、ローマ帝国に仕えていた親ローマです。そこに、もう一度戻れるかというと、そうもいきません。だからイエスさまが十字架にかかられて、亡くなられ、墓に葬られた後、復活され、生きておられるイエスさまが再び出会ってくださる前の姿を見ると、「わたしたちは漁に行こう」と、ペテロたちと一緒に漁に出ている場面がありますから、弟子になる前に、ストレートには戻れなかったと言えるでしょう。しかしそうは言っても、彼らには、彼らの人生、これからがあるんです。そのこれからのために、どうしていくのか?どうやって生きていくのか?という問いに、自分たちで答えを出さないといけないんです。だから、弟子を辞めるか、どうするかということにまで、議論は展開していったことでしょう。じゃあそういうことを、イエスさまの弟子として、面と向かって、イエスさまに言えるのか?というと、今、そこにおられるイエスさまを、裏切ってしまうことになるのではないでしょうか?

 

と同時に、弟子として、これからも一塊になっていこうとすれば、誰かをリーダーとして立てないといけないんです。その際には、お互いに、お互いを比べて、リーダーにふさわしい能力が、誰であるかということに、思いを巡らせるのではないでしょうか?

 

しかしそれもまた、イエスさまを前にして、素直に言えるかというと、イエスさまに呼びかけられ、招かれた弟子たちは、イエスさまの前では、平等ですから、平等という平らになっているお互いが、「誰が一番偉いか」という議論は、イエスさまの思いとは全く相いれないのではないでしょうか?

 

そういういろいろな理由、要因が重なっているからこそ、彼らは、黙っていたのではないでしょうか?

 

イエスさまはそんな弟子たち「12人を呼び寄せて言われた。」イエスさまは、12人の弟子たちを、もう一度招かれるんです。そして「『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』そして、1人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」とおっしゃられるんです。そのおっしゃっていること、すべての人に仕える者になりなさいということは、なるほどその通りです。

 

そのことをおっしゃられる時に、ただ言われただけではなくて、1人の子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせるんです。ではその1人の子供は、どうやってここにいるのでしょうか?イエスさまは、他のところでも、子供のようにとか、いろんなところで子供と、おっしゃっていますが、この子供という言葉は、新約聖書の中に、52回出て来ます。この52という数字から言える1つのことは、一年間にある日曜日の数と同じです。うるう年を除けば、52回が基本です。その52回の日曜日の礼拝は、それぞれ大体1時間くらいですから、約1時間とすれば、52時間です。一年は365日で、一日が24時間ですから、時間にすれば、8760時間ですので、8760時間の中の、52時間だけが日曜日の礼拝の時間になります。つまり52回出て来る子供の手を取って、抱き上げたということは、52回の礼拝、8760時間ある中の、52時間という礼拝の中でも、そうしてくださっているということでもあるんです。

 

そして52回出て来る子供は、一般的な子供だけを指しているのかというと、実は、イエスさまの弟子たちのことも、イエスさまは子供と呼んでいます。ということは、イエスさまが、その一人の子どもの手を取って、弟子たちの真ん中に立たせて、抱き上げられたという中には、イエスさまにとっては、子どもである弟子たちから、1人の弟子の手を取って、彼らの真ん中に立たせて、抱き上げられたということにも繋がっていくのではないでしょうか?

 

つまり、弟子たちは、イエスさまが真ん中に立たせたその一人の子供と、自分たちとを重ねてみるようになるんです。そしてその子どもの手を取って、真ん中に立たせて、抱き上げられたというその姿を通して、自分たちも、イエスさまが子供として受け入れてくださり、これからのことを考えていた、自分たちを、それでもイエスさまは、受け入れて下さったんだということを、もう一度受け取りなおす機会としてくださっているんです。

 

そこから、『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』「わたしの名のためにこのような子供1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」ということは、ただ単に、弟子たちがお互いに議論していることについて、イエスさま抜きで、してはいけないとか、彼らが自分たちの間で、誰が一番偉いかと、団栗(どんぐり)の背比べをしているとか、弟子たち同士が、切磋琢磨ではなく、足の引っ張り合いをしているとか、そういうことはダメだから、ということだけではないんです。弟子たちは、イエスさまがいなくなってしまったら、自分たちで、どうにかしていかないといけない、そのために、次のリーダーを!といったことを、これから直面するであろう現実から考え、知恵を絞っているんです。ただ、現実という枠の中で考えていくと、現実という枠から出ることができなくなってしまいます。究極は、現実以下のことしか考えられなくなってしまうんです。それが弟子たちにとっては、今目の前にいる12人の弟子たちの中で、どうするか?という議論になり、結局は12人以下のものにしかならない、12を超えるものにはなりません。しかし、そもそも、彼らが従った神さまであるイエスさまは、できないことはない、できないことは、何一つないと言う、そういうお方ですから、12という限られた枠の中で考え、議論する必要は、本当はないんです。

 

しかしイエスさまは、目の前の現実は、その通り、現実であっても、その現実を見て、しっかり考えていくことがただダメだということではなくて、現実を越えたところから与えられることを、1人の子供を通して見せて下さっているんです。その時、現実を越えたところから、新しい視点、そのための具体的なことが、具体的に与えられていくのではないでしょうか?

 

神学校を卒業して赴任した教会でのことです。建物が相当傷んでいました。それでもお金がないから…ということで、屋根や壁などおペンキ塗りができないままになっていました。ある時、玄関の屋根が、腐って落ちかけていましたので、急遽大工さんに来ていただいて、直してもらいました。そこだけは綺麗になったので、ああよかった!とやれやれと思っていましたら、その時、大工さんが真顔でこうおっしゃいました。「先生、この教会、このままだったら、つぶれまっせ!もう建物全体に雨がしみ込んでいるので、早く屋根や、壁を直さないと、この教会つぶれまっせ!」真剣なまなざしで、大工さんが心配してくださいました。これはえらいことになったということで、相談することになりました。こんな人数では無理だとか、どこかに援助をお願いするか?もう少し様子を見るか?いろんな意見が出されましたが、最終的には、自分たちで、祈って、ささげて教会の屋根も、壁も全面に塗り直そうということになりました。それから1週間後のことです。担当の方は、飛んで来ました。「先生、ほとんど満たされました!」それから工事に取り掛かり、壁も綺麗に塗られていきました。屋根も塗り替えるときには、何色が良いか?ということになった時、赤とか、緑とか、そういう段階になると、喜んでどんな色にしたらいいか?ということを考え出すんです。結局、緑色で塗り直すことになりました。大工さんたちも、つぶれまっせとおおっしゃっていましたから、毎日心配で見に来られ、出来上がった後からも、何度も見に来られました。

 

この出来事には、何も苦労がなかったとか、悩みがなかったとか、不安がなかったわけではありません。現実を見て、現実から判断して、みんな不安で、無理だ!これはダメだと思っていました。しかしそれでも、その現実の中で、現実を越えたところから、神さまは前に進めて下さった出来事でした。

 

現実を考えること、現実から物を見ていくことも、大切なことです。ただし、現実という枠の中だけで、考えていくと、現実以下のことに心も、信仰も向いてしまうことがあります。しかしイエスさまは、その現実を越えた外から、新しい答えを示すために、「12人を呼び寄せて」1人の子供を抱き上げてくださることを通して、私たちも招かれ、私たちを、イエスさまは、子供として抱き上げて下さるお方だということを、見せて下さいます。その通り、どんな子供であっても、イエスさまは、抱き上げてくださいます。そして、私たちがお互いに切磋琢磨しながらも、切磋琢磨では終わらない、切磋琢磨を越えたところから、招いて下さるイエスさまに、従っていくんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月26日)切磋琢磨か(マルコ9:33~41)