2026年7月19日礼拝 説教要旨

「できれば」と言うか。(マルコ9:14~29)

松田聖一牧師

 

「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」

 

今日与えられた聖書の言葉は、イエスさまと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネとが、高い山に上られ、そこでイエスさまが神さまとしての姿を現されたということから、山を下り、ほかの弟子たちのところ、すなわち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちのところに来てみると、大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた、という場面から始まります。

 

ここで、「議論していた」と言う意味は、一緒に捜すとか、一緒に調べると言う意味です。つまり、イエスさまと一緒に山に上らなかったほかの弟子たちと、律法学者たちは、ここでお互いに意見をぶつけ合って、対立し合っているのではなくて、共通の事柄について、一緒に捜し、調べるといういわゆる共同作業をやっているんです。

 

不思議な光景です。どういうことで、ほかの弟子たちと、律法学者たちは、一緒に捜し、調べているのでしょうか?またどうして、そういう共同作業が出来るのでしょうか?その要因、理由は何でしょうか?

 

そこでまず律法学者たちについて確認しましょう。そもそも律法学者たちとは、神さまを信じて、神さまの言葉を徹底的に学んで、それを実践してきた人たちです。また神さまの言葉の意味を、人々に教えてもいました。ところが、イエスさまも12節で「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」とおっしゃっている通り、イエスさまを十字架につける計画を進めようとして、作り話を語り、群衆をだまして扇動して、イエスさまを十字架につけていくんです。そういうイエスさまに対して大変なことをしようとしながらも、律法学者たちは、表舞台に出るのではなくて、むしろ隠れるようにして、自分達のやりたいことを、やりたいように、行っていくんです。でもその行為、そうしようとする動機は、神さまの律法の1つ「殺してはならない」に違反します。律法を破ってしまったら、律法学者としてはやっていけなくなります。それでも、それを破って迄、律法学者たちは、しようとしているのかというと、実際、彼らはイエスさまに直接手を掛けないんです。陰に隠れるように、自分たちは何もしていないかのようにして、人を使っていくんです。それが具体的には、イエスさまを十字架につけろという叫び声を、群衆を扇動して、群衆に言わせていくんです。

 

でもどうしてそこまでしようとするのか?それは律法学者たちの立場とか、生活そのものが、イエスさまによって脅かされると、彼らが受け取っていたからではないでしょうか?

 

というのは、律法学者は、人々にとって、もちろん神さまではないけれども、神さまの代わりと言いますか、神さまのことをいろいろ教えてくれたり、導いてくれる方々です。だから、人々は、何かあっても、何もなくても、教えを乞い、いろいろなアドバイスをもらうために、律法学者のところに集まって来るんです。ところが、イエスさまの登場によって、人々が、律法学者から、イエスさまのところにいってしまうんです。それは律法学者たちにとっては、自分達のところから離れて行ってしまったと言うことだけではなくて、自分たちから人々を、イエスさまが、奪ってしまった、になっていくんです。その結果、自分たちがこれまで築き上げてきた立場、生活の基盤というものも、失われてしまうという危機感、そしてそういうイエスさまに対する脅威も、彼らの中に出てきてしまうのではないでしょうか?

 

それはちょうど、縄張り争いと似ています。例えば、ワンちゃんは、散歩に連れて行くと、必ずしるしをつけますよね。あれは自分のなわばりはここだ!ということを、他の犬に示すためです。それはワンちゃんだけではなくて、ほかの動物も、鳥もそうです。自分たちの生活のテリトリーがちゃんとあって、そこに自分たちとは違う動物や、鳥が入ってきたら、追い払おうとします。人間も同じです。ここは自分たちの領土だ!ここは自分たちの領海だ!ここは自分たちのものだ!自分たちの守備範囲だ!というところに、別の何かが入ってきたら、それを追い出そうとします。他にもいろいろありますが、そういうことが、いろんなところに当てはまるのは、自分の身を守ろうとする、自己保身という本能が働いているからです。

 

つまり律法学者たちは、単にイエスさまが嫌いだから、だからイエスさまを十字架につけて排除しようとしたということではなくて、結局は、自分自身の立場を、自分自身の手で守りたい、という自己保身から来ているということなんです。

 

それは、ほかの弟子たちにおいてもそうです。ほかの弟子たちとは、イエスさまと一緒に高い山には上らなかった、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちですが、彼らにとって、高い山に上らなくて良かったというよりも、自分たちはイエスさまに、連れて行ってもらえなかったとか、自分たちは選ばれなかった、排除されたという疎外感もあったことでしょう。また、なぜ自分たちではなく、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを、イエスさまは高い山に連れて行ったのか?とか、またペテロや、ヤコブ、ヨハネに対する嫉妬もあったことでしょう。しかし彼らの本音は、「ほかの弟子」ではなくて、イエスさまに弟子であり続けたいんです。イエスさまの弟子という立場を、守り続けたいんです。それなのに、なぜ外されたのか?なぜ自分たちが選ばれなかったという、ことも「ほかの」という言葉に現れているのではないでしょうか?

 

それに拍車をかけているのが、イエスさまの「何を議論しているのか」に、群衆の中のある者が、霊に取りつかれ、ものが言えず、所かまわず地面に引き倒され、口から泡を出し、歯ぎしりし、体をこわばらせてしまうという、自分の息子を、ほかの弟子たちのところに「この霊を追い出してくださるように」願いに来るんですが、ほかの弟子たちには、できなかったということなんです。自分たちでは、できなかったことも大きなことですし、そのことを、イエスさまに「できませんでいた」と答えていることも、彼らにとっては、自分たちがますますイエスさまの弟子から、外されていくのではないか?ということに繋がっていくのではないでしょうか?

 

また律法学者の立場に立てば、ほかの弟子たちが出来なかったと言う時、律法学者たちのところにではなくて、イエスさまのところに来たというのも、律法学者にとっては、人々が自分たちから離れているという現実を見せつけられ、それがまた嫉妬心に繋がっていくのではないでしょうか?

 

その結果、律法学者たちと、ほかの弟子たちとが、一緒に捜し、調べるという、議論になっていくんです。つまり、一緒になれたというのは、お互いに仲良くなったからではなくて、お互いに、疎外されたことによる嫉妬とか、自分の立場を守りたい、ということで、一致しただけです。そういう共通点ですから、お互いに、自分の身を守る事、自分のことばかりを考えているところに立って、一緒になって捜し、調べていくと言う行動ですから、そもそも一緒ではなく、バラバラです。それなのに、一緒に議論ですから、こういう一緒というのは、もろいと言いますか、何かあると、すぐにバランスが崩れ、あっという間に一緒でなくなる一緒ではないでしょうか?

 

ただそもそも一緒ではないということは、何か特別なことなのか?というと、自然なことです。それは私たちにおいてもそうですね。お互いに、同じなのか?

というと、同じではないですよね。お互いに、考え方も、感じ方も、聞き方も、話し方も、声も、心もみんな違います。それらのことは自然なことです。でも逆に、一緒にしようとしたら、大変になりますね。例えば、声が全員全く同じ声だったら、どうでしょうか?困りますよね。誰が言っているのか?さっぱりわかりません。名前も全員が一緒だったら、これも大変です。ただ名字(みょうじ)が一緒の方は、多くおられますね。あるちょっとした小話ですが、「伊那市駅で、伊那でよく見かける名字で〇〇さ~んと呼んだら、たくさんの方から「は~い」って返って来るよ。」確かにそうだなと思います。場所によっては、同じ名字の方が多く住んでおられますから、名字という、ことでは一緒になれる場合もあります。でも名前がいくら同じであっても、名字が同じであっても、人間はお互いにみんな違いますよね。兄弟同士でもそうです。正反対の性格とか、いろいろです。だから、そもそも一緒ではないというのは、ほかの弟子たちと、律法学者とのことだけではなくて、また大勢の群衆も、この一人の息子さんにおいても、ごく日常のこと、自然なことです。

 

そういうバラバラ、みんな違う者同士が、ここに集まっているのは、そこにイエスさまがおられ、イエスさまが、1つにしてくださっているからです。そして皆違う者それぞれに、イエスさまは語り掛け、問いかけ、時には言葉をぶつけるほどになりながらも、向き合ってくださるんです。

 

だからイエスさまは、はっきりと、ストレートに「なんと信仰のない時代」すなわち、一時代に生きている人間全部なのかと、群衆のなかのある者に対してだけではなくて、大勢の群衆に取り囲まれ、一緒に尋ね、調べて議論しているほかの弟子たちと、律法学者たちに対して、おっしゃられるんです。続く「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」この言葉を見ると、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」の、いつまでと、わたしは、の間には点がありませんが、続く「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」には、いつまでと、あなたがたに、の間には点があります。この違いの意味は、ほかの弟子たちと、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか、もう共にいることはできないと言うこと以上に、イエスさまの我慢、忍耐がより強くあるということではないでしょうか?そのイエスさまの我慢は、ほかの弟子たちや、律法学者たち、また大勢の群衆と、群衆の中のある者に対する、我慢であり、忍耐です。では何を我慢しておられるのか?それは、一緒にしてくださっているイエスさまに、それぞれの思いや、課題や、心からの願い、祈り、あるいは疑いも含めて、なかなかイエスさまのところに持ってこないでいる、その姿に対する我慢ではないでしょうか?

それでも、イエスさまは、彼らと一緒にいて、彼らを一緒にしてくださっているんです。だからどんなことでも、自分たちではできないことも、それでも何とかしようとしていることも、全部、イエスさまのところに持ってこれるんです。イエスさまに、どんなことでも言えるんです。それなのに、なかなかそうしようとしないことに、イエスさまは「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とぶつけながら「その子をわたしのところに連れて来なさい」とおっしゃられた時、初めて、この息子を「人々は」イエスさまのところに連れて来たんです。

 

ここに至るまでに、イエスさまの我慢は、相当です。いつまで、我慢しなければならないのか。ここまで言わないと、なかなか人は動こうとしないということの現われです。しかしそうであっても、この息子がイエスさまのところに連れて来られ、苦しんでいる息子を前にして、イエスさまは、「このようになったのは、いつごろからか」と尋ねた時、ある者は、ある者のままではなくて、この人は「父親」となっているのは、この時初めて、ある者は、この息子の父親になれたということ、この息子の父親であることを、ある者は、やっと受け入れることができたということではないでしょうか?そして父親になれた、この人に、イエスさまは、息子について尋ね、父親は、息子のことを、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」という、恐ろしい出来事を、初めて話せるようになっていくんです。ということは、この時まで、父親も我慢していたということです。本当は言いたいこともたくさんあった、でも言えずにずっといた、息子がいつ殺されるか分からないこと、その度に、この霊から幼い息子を何とかして守ろうとし続けて来たけれども、守ることができずにずっといたことも、イエスさまにやっと話せたのは、父親の苦しみ、恐怖、言うに言えなかったことも、イエスさまが受け取ってくださっていたからです。

 

そこから「おできになるなら」「わたしどもを憐れんでください」となるんです。できた経験ではなくて、出来なかった経験、何をやってもダメだったということをも、イエスさまは受けとってくださるんです。その時、「できれば」と言うか。を返していかれるのは、憐れんでくださいと言いながらも、できないのではないか?ということから抜け出せられないでいる、父親の真実、またこの父親の、イエスさまへの信頼が、「できれば」で止まってしまっていることを、はっきりと、ずばっと、示され、明らかにされるんです。だからこそイエスさまは、「できれば」と言うか。と語りながら、イエスさまを信じる、という信仰は、できれば、で留まるのではなくて、それでもそこから一歩踏み出すことのできる信仰を、与えようとしておられるんです。

 

そのために、この霊に向かって「この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と激しくおっしゃられる時も、神さまとしての権威をもって、「わたしの命令だ」出て行け。二度と入るな。という時も、できれば出て行けとか、出来れば二度と入るなではないんです。「出て行け」「二度と入るな」です。その結果、この息子の手を取って起こされると、この息子は立ち上がったということを、出来ればという父親や、自分たちのことばかり考え、自己保身に走っている、ほかの弟子たち、律法学者たちがいる前で、見せて下さったのは、イエスさまを信じて、神さまであると信じていく生き方には、中途半端はないということを、はっきり語り示すためです。

 

神学校で旧約を教えてくださった先生が、いつだったかこんなことをおっしゃいました。「慈しみ深き」の讃美歌を引き合いに、「慈しみ深きの信仰で止まっている人がいる」慈しみ深きの讃美歌は、イエスさまが、いつも優しく労わりながら、ともなるイエスはとある通り、共にいてくださるという、慰めの讃美歌です。この讃美歌がいい~とおっしゃっておられた方もいました。確かにその通り、イエスさまは慈しみ深い神さまです。どんな時にも変わらず、慈しみ深いお方です。しかしそれだけなのかというと、イエスさまの真実、神さまとしての真実は、慈しみ深きだけでとどまるのではなくて、わたしの命令だ、とか、できれば、というか。とおっしゃられるほどに、激しいもの、熱いものです。たとい「弟子たちが『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と、イエスさまが家の中に入った後、イエスさまに直接言えずに、イエスさまがそこにいないところで言ってしまう、弟子たちの真実、本音があったとしても、イエスさまが与えていて下さる、信仰には、「できれば」はありません。できれば、ではなく、何でもできるという信仰です。神さまだから、何でもできる、その信仰です。だからこそイエスさまは、信じるということは、どういうことかを、信頼できないでいる真実、本音の中で、明らかにされ、叱りつけるのではなくて、そこから、「信じる者には何でもできる」神さまには何でもできるという信仰を、わたしたちにも、いつまで、我慢しなければならないのかと語りながらも、与え続けてくださるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月19日)「できれば」と言うか。(マルコ9:14~29)