2022年1月9日礼拝 説教要旨

ふるさとから(マルコ1:9~11)

松田聖一牧師

ふるさとという歌がありますね。うさぎ追いしかの山 こぶな釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと・・・この歌を、今はなかなかできませんが、ホームに入所されている方々と一緒に歌ったことがありました。そうすると、泣き出す方もいらっしゃいました。きっとご自分の故郷を思い出されたんだと思いました。帰りたくても、もうそこに行けないとか、ふるさとそのものがもうなくなっているとか、いろいろ思いがあると思いました。

 

わたしたちにも故郷と呼べる場所がありますね。それぞれの中でわたしの故郷はここだというものが、いろいろな形であると思います。転勤続きの方々にとっては、行った先、行った先がわたしの故郷みたいなものよ~という感覚をお持ちの方もいらっしゃいます。行く先々でいろいろな人と出会い、また次の所に行く時には、寂しさもあるけれども、また新しい出会いもあると切り替えながら、ご自分の故郷を受け取っておられる方もいらっしゃいます。そのように故郷と言うのは、単に地理的なこと、地図上でこの町、この村を指すだけではなくて、出会いも含めてですよね。人とのつながりがそこにあるからこそ、自分にとっての故郷というものが、それぞれの中で、いろいろな形で残っているのではないかと思います。

 

イエスさまにとっての故郷と言うと、ナザレになります。もちろんまことの神さまとして生まれたお方ではありますし、生まれたところはベツレヘムというところです。ところがヘロデ王に殺されかけたことで、エジプトに逃げなければなりませんでしたから、生まれた時から、いや生まれる前から、イエスさまの歩みは、波乱万丈です。人生いろいろが、十分すぎるほどにあります。そのイエスさまにとって、ナザレと言う町は、父ヨセフから受け継いだ大工として仕事をしたところです。大工さんというのは、日本では木材を扱うというイメージがありますが、イエスさまは、石大工、石を切り、石を加工する大工さんです。日本でも、石切り大工さんがいらっしゃいましたし、ここ伊那高遠にも石材を加工する優秀な大工さんがいらっしゃったということもよく知られています。

 

そういう意味ではイエスさまも含めて、バプテスマのヨハネもそうですが、いなごを食べたり、石大工さんであったりという出来事は、身近な感じがします。伊那を舞台にイエスさまのお姿を重ね合わせられるようにも思います。

 

そういう石大工として、イエスさまは一家を支えていました。大工仕事という職人としての働き、技術を身に着け、持っていたお方でもあります。家族を養い、イエスさまの後に生まれた、血のつながりはありませんが、ヤコブを始め兄弟もいましたし、父親ヨセフが早くに亡くなられたようでしたから、ある意味一家の主として、イエスさまは故郷ナザレでの歩みを過ごしておられた、そういう諸々をイエスさまも背負って生きてきた、その「ナザレから来て」ということです。それはイエスさまがナザレから来たという、イエスさまのことだけではなくて、イエスさまがナザレから来てヨルダン川にいかれたということは、ナザレにいる家族の方々はどうなるか?ということです。一家の主として支えていた、イエスさまがヨルダン川にて洗礼を受けて、神さまの働きを神さまとして始めていかれるということですから、残された者にとっては、あるじがいなくなるんです。残された家族はどうなっていくのか?その様子は描かれてはいませんが、書いてはいなくても、そういうことも事実あるということです。

 

でもそれはイエスさまがナザレから離れて、ナザレから分離して、ナザレから去ったことで起こる出来事ですし、それによってイエスさまは神さまご自身の働きを始めていかれるということに繋がるのです。

 

その離れること、去るということを別の見方をすれば、ナザレと一緒だったイエスさま、ナザレで家族を養い、家族を過ごしたイエスさまが、それぞれ2つに分かれるということでもあります。この分かれるという意味は、別離ではありません。別離、別れということではなくて、分離です。

 

それはイエスさまが洗礼を受けられた時、イナゴを食べていたバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、「すぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自身に降ってくるのを、ご覧になった」とある、天が裂けてという出来事にもつながります。というのは、避けてと言う言葉の意味は、天が超自然現象のような姿で裂けたということを強調しているのかというと、そういう出来事であっただけではなくて、もっと身近な言葉だからです。それは「裂けて」と言う意味には、真っ二つに裂けるとか、裂け目をつくるとか、衣服などを裂く、切り裂くという意味もあるからです。ということは、真っ二つに裂けるとことから、いろいろにつながります。竹も真っ二つに裂けますし、空手などでも、瓦が真っ二つに裂けていきます。松の木が岩に張り付いて、岩を裂いて、岩に根を張っていく、その姿もそうです。あるいは人と人との関係もそうですね。人と人との関係を割っていく、裂いていくということにも繋がります。このことから1つのエピソードがあります。

 

それは聖書を学ぶ学校で寮生活をしておりました時に、一緒に生活している友達から言われたのは、「斬鉄剣(ざんてつけん)だ~」あんたは話を切っていく、話に割って入って、そして話を切ってしまう~そういわれた時に、最初は何のことか分かりませんでした。が、ある時に、2人の友達がお互いに会話をしていた時に、そこに私が行きまして、何かをどちらかにしゃべった時に、どうも話に割って入って、話を切ってしまったようで、しかも、切られた2人も、切られたことにすら気づかないくらいに、スパッと切ってしまいましたので、それで石川五右衛門の斬鉄剣のように、話を切ってしまうということがようやくわかりかけた次第でした。斬鉄剣は切っていきますね。切られた方も切られたことにすら気づかないくらいに切られていく、それで2つに分かれるし、話であれば2つにあっという間に分かれていきます。

 

そういう出来事は、それだけを見れば、1つだったものが2つに分かれてしまうということです。大きさがそれまで1つだったのが、2つに分けられてしまい、それぞれが二分の一になってしまいます。分かれて、それぞれが離れていくことは、それだけを見れば、人と人との関係では、別離のように受け止められて、もう会えないというもの悲しさ、マイナス受け止められることかもしれません。

 

しかし2つに真っ二つに裂けて、割れていくことで、そこに根を張り、しっかりと土台を据えられ、新しい命と、さらにはしっかりとした木、木材が作り出されていくということになっていくことからすれば、それはまた素晴らしいことではないでしょうか?

 

一塊であり続けることだけではなくて、イエスさまの洗礼を通して、また真っ二つに裂けるということを通しても、新しいものが産み出されるのです。真っ二つに裂けることで、新しい命が生まれ、新しいものが生み出され、新しい出発が与えられていきます。

 

そういう意味でふるさとを離れるということも、離れたところでまた新しい出会いが与えられ、新しい恵みが加えられていくということではないでしょうか?

 

洗礼もそういう意味です。これまでの生き方から離れ、イエスさまと共に、イエスさまを信頼して、イエスさまが与えて下さる道を進もうとすることです。それは確かに分離であり、真っ二つに裂けることかもしれません。でもそれは、自分と言う一人の人が物理的に真っ二つに裂けるということではなくて、私はわたしであることに変わりはなくとも、私自身が、丁度紀元前と紀元後に分かれるように、これまでの生き方、性格が変わるということではなくても、自分自身の土台が、私という自分の土台に自分が立つことから、神さまというどんなことがあっても、どんなときにも誠実で変わらず、私と言う一人を本当に大切にしてくださるお方を土台として、また共に歩んでくださるお方として、新しく歩み出すということです。洗礼を受けたから、これまでの人間関係を切る必要もないし、別れる必要もありません。それまでの人との関係を大切にしながら、それに加えて、その人を神さまから与えられた人だと受け取りなおすことを通して、そういう意味で新しい出会いと新しい関係が与えられていくのです。そしてそれだけではなくて、いままでの人間関係が、神さまからの贈り物であること、神さまが与えて下さった良い出会いであったということに始まる、一つ一つに意味と目的があるという気付きも与えてくださるのです。

 

なぜならば、神さまから与えられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、真っ二つに裂けた、その関係それぞれに、与えられていくからです。私だけではなくて、私と繋がりのあるあの人、この人も、これまでの出会いも含めて、全てが、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だという神さまからの、あなたはわたしの愛する子だという恵みの贈り物が、与えられていることに気づけるようになるのです。

 

1つの関係に留まり続けることも大切です。真っ二つに裂けないものもあります。しかし時には真っ二つに裂けていくことによって、そこから新しいものが生まれてきます。それがイエスさまの故郷から出て、新しい歩みに向かう出来事を通して与えられた出来事であり、神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、この私にも与えられているという出会いの再確認となるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月9日)