2021年9月26日礼拝 説教要旨

この最後の者にも(マタイ20:1~16)

松田聖一牧師

「光は暗闇の中で輝いている」この御言葉から改めて確認させていただけることは、神さまであるイエスさまは、光であり、光として来られたお方でありながら、暗闇の中で、暗闇の中から光り輝いてくださるお方です。ということは、イエスさまは暗闇の只中に来られたし、暗闇の中におられたということです。そしてその暗闇の中で、暗闇の中から光輝いてくださったし、今も光輝いてくださっているということです。それは今日の聖書の御言葉にありますイエスさまの譬えに出てきます、ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、出かけて行った、その夜明けに、も表れています。というのは、夜明けに、ということは、朝日が昇る、その時に出かけて行ったということですが、そのためには、夜明け前に、この主人は、夜明けに出かけていく準備していたということですし、その準備は夜の暗闇の中で行われていたということになります。つまり、この主人は、ぶどう園で働く労働者を探して、招いて、あなたがたもぶどう園に行きなさいと導くために、明るくなってからではなくて、暗闇の中におられ、その暗闇の中でもうすでに動き出しておられたということでもあります。なぜそこまでするのかというと、それは、一日につき1デナリオンでぶどう園で働く労働者を雇いたかったということ以上に、主人にとって、広場で何もしないで立っている人々を放っておくことができなかったからです。

 

この「何もしないで広場に立っている人々」とは、ただぶらぶらと立ったままでいる人々という意味ではなく、仕事がない人々、怠けている、役に立たないという評価を受けていた人々を指している言葉です。ただぶらぶらと何もしていないというのは、それはそうかもしれませんが、彼らは、仕事がないために、誰からも必要とされていない状態であり、生活の糧を得るための仕事も、やりがいという意味での仕事もない、ということですから、自分の目標がなかったし、何のために生きるのかということもない状態です。それで何をしていいかもわからない状態の中で、結果として「何もしないで広場に立っている」ということになってしまっているのです。だからこそその人々自身が、必要とされていること、自分たちがここにいなきゃダメなんだ、必要とされているんだということを、与えるために、主人は、ぶどう園で働く労働者として雇い、「ぶどう園に」送るのです。それは一回だけではありません。夜明けに始まり、9時にも、12時にも、3時にも主人は何度も何度も出かけて行って、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」あなたたちもぶどう園に行きなさいと、声をかけ、ぶどう園に招いて行かれるのです。

 

そして(6)5時ごろにも行ってみるとほかの人々が立っていたので「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言った。

 

5時頃に行って主人が出会った人々は、「だれも雇ってくれないのです」この5時からの人々は、誰も雇ってくれない、誰からも必要とされていないことを訴えていきます。

 

「だれも雇ってくれないのです。」これがこの人たちの5時までの姿です。5時と言うと、その日一日の終わりに近い、日没に近い時間です。つまりこの人たちは、一日中、その一日の終わりに近い時間まで、誰からも必要とされていませんでした。その時に、主人からあなたたちもぶどう園に行きなさいと言ってもらえたから、だれも雇ってはくれないのですということがなくなりますが、主人からあなたたちもぶどう園に行きなさいと、雇ってくれるまでは、今日の一日をどう過ごしたらいいのか、今日一日をどう生きたらいいのか、分からない一日を過ごしていたのではないでしょうか?今日、僕たちは必要とされていない、今日は、どうやって生きるのか?そういう一日になっていたと思います。そして、今日は誰からも必要とされないままに終るのではないか?そういう不安の中で5時まで過ごされたのではないでしょうか?5時から雇ってもらえる、5時から必要とされていることが、朝から分かっていたら、その前日から分かっていたら、そういう不安はありません。でもそれが分からないわけですから、本当に不安だったと思います。今日やっていけるのかどうか?今日もダメじゃないか?そして、明日もダメじゃないか?この先もダメかもしれない・・・という負の連鎖のようになりかねない中で、5時を迎えるのです。そして主人が出かけてきてくださり、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」なぜ、と自分たちに向かって、聞いてくれた、問いかけてくれたのです。それで、人々はこの主人に「だれも雇ってくれないのです」と訴えることができたのです。それはなぜ、とちゃんとたずねてくれたこと、何もしないでいる自分たちに向き合ってくれたこと、そして自分たちのその訴えを主人はちゃんと受け止めてくれてくださっているからです。だからこそ、誰も雇ってくれないという、彼らにとっては、あまり口にはしたくないことだったかもしれない、口にするのは恥ずかしいと思うことだったかもしれない、でも、なぜと聞いてくれたことで、彼らは訴えることができたのではないでしょうか?

 

それはそうですよね。自分たちに向き合ってくれなかったら、なぜと尋ねてくれなかったから、あるいは言ったことを、受け止めてくれなかったら、言っても相手に響きませんし、言っても無駄になります。言えば言うほど虚しくなるのではないでしょうか?そういう意味で言えるということ、訴えることができることは、その相手が、こちらの投げたボールをちゃんと受け止めてくれるからこそ、初めてそれができるようになります。キャッチボールというのはそういうことです。相手がなぜと向き合ってくれる、だからこちらもボールを投げてみよう、となるのです。

 

そして主人は(8)夕方になってぶどう園の主人は監督に「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」

 

労働者にそれぞれ賃金を払う時になって、5時からの人たちが1デナリオンを受けとった、そのことから最初、夜明けから雇われた人たちが、5時からの人と比べて、自分たちはもっと多くもらえるだろうと思っていたのですが、実際には、夜明けからの人も同じ1デナリオンです。そこで夜明けからの人たちは、この5時からの人たちを、この連中とまで見下げて、自分たちと同じ扱い、同じ1デナリオンであったことに不平を言うのです。不平を言う言い方は、「不平をぶつぶつ言う、つぶやく、小声で話す、ささやく」という言い方ですから、大声で、堂々と言っていません。ぶつぶつ、小声で、ささやきます。ということは、堂々とは言えない何かがあったと言えるでしょうし、そもそもと言いますか、雇ってもらえた側、雇っていただいた側の人間が、賃金の多い少ないについて、あれこれ言えるのかというと、あなたがたもぶどう園に行きなさいと雇われた時、ちゃんと「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言われたことに、雇われた人たちは、ああいいですよと、賃金も含めて受け入れているのです。ということは、主人と賃金についても、約束し合っています。お互いにこれでいいですと納得して、受け入れています。ですから、雇ってもらえた側からは、あれこれ言える立場ではないのではないでしょうか?雇ってもらえたこと、しかも雇っていただく時には、ちゃんと賃金の約束もしていること、それでぶどう園で働けたし、働いたのです。

 

そしてこの最初に雇われた人たちは、もっと多くもらえるだろうと、彼らの中では思っていましたが、1デナリオンずつであった、その1デナリオンを受け取った上で、ぶつぶつ不平を言うのです。約束された賃金を、受け取っているんです。でも受け取っていながら、ささやきます。そして「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」5時からの人たちを、この連中と2回も主人に言っていくのです。一時間しか働きませんでした。私たちは暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは、と小声でささやくんです。小声でひそひそと主人に言うのです。

 

この不平は、5時からの人たちと、夜明けからの人たちと同じ賃金であったことに対する、夜明けからの人たちの不平です。ささやき、小声での不平です。その不平は9時から、12時からの人たちからは出ていません。でも夜明けからの人たちから出ているのは、彼ら自身が、5時からの人たちの賃金と自分たちの賃金が同じだったから、これは労働時間に対して、少なく過ぎるのではないかということで、出た不平なのかというと、それもあるかもしれませんが、この不平のそもそもは、夜明けから働いた人たちが、5時からの人たちに、1デナリオンが支払われた時の思い「もっと多くもらえるだろう」から始まっているんです。長時間働いたからそれに見合う対価、労働時間に見合う賃金が欲しいと言っているのでなくて、5時からの人とを比べて、自分たちが、「もっと多くもらえるだろう」と、自分たちの頭の中で、考え、想像するところから始まっているんです。誰も何も賃金について、言っていません。もっとあげようとか、良く働いたからとか、そういうことは一切ないのに、夜明けから働いた人自身の中で、話がつくられていく、もっと多くもらえるという出来事を想像して、思って、考えていく中で、それが彼ら自身の中に出来上がっていくことにあるのではないでしょうか?そういう意味で、自分たちが賃金を頂く番になった時、5時からの人たちと同じだったということで、自分たちの考えたこと、想像したこと、出来上がったことと違う結果になったことで出ている不平ではないでしょうか?もっと多くもらえるだろう、は、もちろん欲望です。けれども、彼らは、夜明けからぶどう園に行きなさいと言われた時、それに応えて、従っていくのです。このことは、見方を変えれば、賃金ということではなくて、私は必要とされているという時間が、夜明けからの人は、夜明けから日没までずっと続きました。9時からの人は、9時から12時からは12時といった、具合に、それぞれぶどう園で働く時間は違いますが、一番長く働いた人たちには、自分たちが必要とされている時間としては、夜明けからの人は、最も長いのです。この長い労働時間の中で、この人たちの言うように、暑い中、大変だったと思います。シロッコと呼ばれる熱風の中で、本当に暑い中での作業だったと思いますし、ぶどう園は、日当たりの良い、水はけのよいところにありますから、一日そこでいろいろしていたら、それは大変だったと思います。辛抱もしたでしょう。でもそれ以上に、夜明けからの人は、その一日の始まりから、雇っていただけたという安心が与えられていたのではないでしょうか?今日、私たちは必要とされている、それが一日与えられていくのです。賃金がどうのこうのではなくて、今日一日、私は必要とされたということが与えられたのです。それは9時、12時、3時、そして5時からの人たちとは全然違います。

 

それがどこかに行ってしまった時、5時からの人たちと比べ始めた時、自分たちの中で考えたこと、想像したことによって、出来上がった思いで5時からの人たちに与えられた1デナリオンを見た時、多い、少ないが出てきてしまう。自分の中にある思い、ない思いではなくて、もっと多くもらえるだろう、との思いが出てきたのです。

 

そんな不平を言ったその1人に主人は「友よ」あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。そもそも不平を言うなんて言える立場ではないのに、5時からの人に対して、この連中何て言えるわけがないのに、そしてその日一日を、必要としてくださったのに、1デナリオンという約束された賃金まで支払ってくれた主人に対して、無礼なことを言っているにも関わらず、主人は、不平をぶつぶつというこの人に、友よ、同じ立場で、同じ仲間として、友よとそれでも受け入れてくださるんです。友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。」他の人たちに与えられたことに目を向けるのではなくて、自分自身に与えられた、自分の分を受け取って帰りなさい。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」主人は、夜明けからの人も、この最後の人にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ、この人も含めて夜明けからの人たちが、いろいろ不平を言っていることも、全部受け入れた上で、それでも、「この最後の人にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」主人にとって最初からの人たちにも、最後の人たちにも同じ1デナリオン、同じ報酬、同じお恵みを与えたいんです。同じです。主人は同じ恵みを与えることを、心から願っておられるんです。そして与えられた恵みでその日一日を生きられるようにしてくださるんです。

 

そしてそれは最初から、最後までずっと続くのです。さてこの主人は誰か?イエスさまです。イエスさまは最初から、最後まで、変わることなく、ずっと同じ恵みを与え続けておられます。そしてお互いに、もっともらえるだろうではなくて、お互いにイエスさまから与えられたお恵み、不平を言うことがあっても、それでも赦してくださっている、イエスさまの赦しを、共に喜びあえるように、いつも与え続けてくださっているんです。

 

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」イエスさまは、最初であろうが、最後であろうが、同じお恵み、同じ赦し、同じ救いを与えてくださいます。同じように支払ってやりたいのです。私たちはそれを受け取るのです。

説教要旨(9月26日)