2021年7月18日礼拝説教要旨

そのひと言が(マタイ8:5~13) 松田聖一牧師

電車の運転手として仕事をしておられる方から、一言こんな言葉がありました。「お客さんの命を僕らは預かっているから~」人を乗せて運転する仕事として、僕らは命を預かっているから~という言葉は、重い言葉でしたし、本当ですね。

そのように、今日の聖書に出てまいります100人隊長も、100人の部下の命を預かっています。それは100人の命だけかというと、その100人に繋がる家族や、財産、生活といったものも、預かっていると言えるでしょう。

そして、その隊長自身は、ヘロデアンティパスという大王の指揮のもとにありますから、王に絶対服従です。ヘロデの命令に絶対に従わなければならないということは、ヘロデの命令が第一であり、それ以外にはないということです。それ以外の指揮系統はありません。ということは、何かの指示を受けることも、相談することがあっても、それはヘロデの指揮系統の中でしなければならないということになります。そこから外れるようなことをすれば、規律違反になります。それが百人隊長という立場であればなおさら、違反行為をしたとなるのではないでしょうか?そういう意味で、百人隊長がイエスさまのところに「近づいて来て懇願」することは、軍隊の規律のギリギリのところで動いているということではないでしょうか?でもそこまでしようとするのは、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んでひどく苦しんでいます」と自分の僕、部下を何とか助けていただきたいという一心で、です。

さらに言えることは、僕が「ひどく苦しんでいます」と言えるためには、隊長自身が僕と同じところに立とうとしなかったら、こんなことは言えません。なぜならば、「ひどく苦しんでいます」というのは、隊長のことではなくて、僕のことだからです。それと似たようなことが、わたしたちにもありますね。苦しいということも、周りから見て苦しそうだとは思いますが、苦しいのは、その苦しい経験をされている、当事者のその人です。そして苦しいということは、その人にしか分かりません。どんなに周りで心配しても、本人ではありませんから、分かりません。分かったようなつもりにはなっても、本人ではありませんから、限界があります。それは痛いということもそうです。悩むこともそうです。本人にしか分かりません。その人自身が感じていること、本人が経験していることですから、それ以外の人には、いくらここが苦しいとか、ここが痛いとか、悩んでいるとか訴えても、100%分かるかというと、分からないものです。

それは百人隊長も同じです。僕が苦しんでいることを、全部わかっているわけではありません。しかし彼は彼なりに、「わたしの僕が、寝込んで、ひどく苦しんでいます」と、僕は苦しみで何も言えない状態であったかもしれない、でもその僕に代わって、イエスさまに、僕の苦しみに少しで寄り添おうとして、イエスさまに「ひどく苦しんでいます」と訴えて、懇願していくのです。

一方でこの懇願は、百人隊長にとっては、非常に危険なことです。規律違反になるかもしれません。でもそんなことよりも、イエスさまに僕に代わって訴えて、懇願していくそのとき、イエスさまは「わたしが行って、いやしてあげよう」とこの百人隊長の願いを聞いてくださり、イエスさま自らが、わたしが行っていやしてあげようとおっしゃられるのです。こんなことは願ったりかなったりです。でも隊長は、ありがとうございます。どうぞ来てくださいとは言いませんでした。

(8)すると百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」これはイエスさまに対する遠慮とか、隊長がイエスさまに申し訳ないという思いで言った言葉というよりも、または謙遜な態度をとったということよりも、百人隊長にとって、それができないからです。自分は軍隊に属する者であること、軍隊の命令を絶対に守らなければならない者であること、それを100人の部下にも模範を示さなければならない立場です。だからイエスさまを迎え入れたら、だめです。命令違反となり、百人隊長としてやっていけなくなるし、自分がそういう違反行為をしたら、100人の部下たちにも迷惑がかかります。そのことを彼自身もイエスさまに言っています。(9)『わたしの権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、その通りにします。』という通りに、軍隊にある指揮系統、命令系統は、絶対に守らなければならないこと、破ったらわたしの下にいる兵隊にも、部下にも迷惑がかかることも、イエスさまに言っていくのです。

しかし同時に僕を助けてほしいのです。だから彼は軍隊の決まりのぎりぎり、すれすれのところで何とかしようとして、この僕も、また100人の部下も守るために、イエスさまに、「自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と、イエスさまに来ていただくことができないと答えていくのです。同時に僕のために、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」イエスさまの、ひと言、イエスさまの言葉を、預かって、そしてそれを持って帰って、苦しんでいる僕に、イエスさまの言葉を伝えようとするのです。イエスさまがこうおっしゃっていたと、イエスさまが言葉を託してくれたと、イエスさまの言葉、ひと言によって、癒される!治る!回復する!全快する!とひたすら信じて、隊長として、できうるギリギリのところで僕の癒しのために、動くのです。

イエスさまはこの隊長のことを聞いて感心し、びっくり仰天し、驚き、感嘆し、不思議に思うという意味ですが、それほどにイエスさまを驚かせる出来事であったし、その時イエスさまに従っていた人々に、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と、百人隊長に対してではなくて、もうすでにイエスさまに従っていた人々に向かって語るのです。

この中で、御国の子らというのは、誰を指すのか?イエスさまに従ってきた人たちのことなのか?あるいは意味を広げてイスラエルの子らということから、自分たちは神さまに選ばれた者だから、ただイエスさまと一緒にいたらそれでいいという思いでいた人たちのことなのか?具体的には分かりませんが、このことをイエスさまに従っていた人々に対して語りますから、イエスさまに従っていた人々に、語る必要があったということです。そしてこの従っていた人々とは、文字通りイエスさまが行かれるところに、いつもついてきた人々のことです。イエスさまが人とかかわり、人と出会い、そして病気を癒したり、人々に神さまのことをお話されたりといったところに、いつもいた人々です。その人々は、イエスさまに従っていた人々であることは、確かに尊いことですが、その世界以外の世界、つながりに向かって、出かけて行こうとしていたのでしょうか?

つまり、イエスさまと一緒にいること、イエスさまを信頼して、イエスさまがいかれるところにいつもついてきたということでは、一番いいところにいます。ではそこから一歩出て、イエスさまに例えば、癒してもらいたい、イエスさまだったら、癒して下さると藁をもつかむ思いで、誰かのために動こうとしたかどうか?誰かのために、何かをしようとしたかどうか?イエスさまに本当に願ったのか?イエスさまに本当に祈ったのか?ひょっとしたら、何もしようとしなかったのではないか?ということがあっても、彼らはイエスさまに従っていた人たちです。今も従っている人たちです。でも今、動こうとしない、今、動いていない、願っていない、祈っていない、ということであれば、それは、今、従っているのではなくて、今は、従っていないことになります。従っているという現在形にはならないわけです。

イエスさまは、わたしに従いなさいと言われる時、うまくいったかどうか、結果がどうであったかということよりも、イエスさまに従おうとしたかどうかです。そして従おうとしたとき、何も動かないのではなくて、何かが動くのです。その時の気持ちはいろいろあるでしょう。何とかしたい!何とかならないか!癒してほしい!癒されたい!と本気で願ったら、じっとしてはいられません。何らかの動きをし始めます。どういう結果が出るかは分からなくても、何とかしようと動こうとするのではないでしょうか?でもその時に、動こうとしなかったら、それはイエスさまに従おうとしているのかどうか、イエスさまは、イエスさまに「従っていた人々」に、語る意味はそこにあるのではないでしょうか?

百人隊長のようになりなさいとは一言も言っていません。ただこの隊長が、自分の僕のためにどれだけ動こうとしたか、どれだけ危険を顧みず、自分の部下のために、自分のことも含めて、どれだけギリギリのところで、イエスさまに懇願したかということを、このイエスさまに従っていた人々に分かってほしかったのではないでしょうか?

そして「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と従っていた人々の前で、言われたとき、僕の病気は癒されたということをされたということも、百人隊長の懇願を聞いてくださっただけではなく、僕の病気を癒して下さっただけでなく、イエスさまに従っていた人々にとって、イエスさまを信じて、従うという意味、姿を、見せようとしておられるのではないでしょうか?それは一言で言えば、愛するとはどういうことかということです。愛するとはただ単に好きと言えばそれでいいというのではなくて、愛するというのは、もっと熱い、もっとエネルギーの塊であり動くものではないでしょうか?そしてじっとしていない、自分の場所から、思いや、行動も含めて、自分の殻から出て、出かけていくことです。それをイエスさまは、しなさいとおっしゃってくださるのです。やってみなさいと、じっとしているところから、動かそうとしてくださるのです。

イエスさまに従うということは、従っていたという過去形ではなくて、現在形であり、今、従っているということです。そしてその従っている中で、動かずにはおれない時、じっとしていられない時があります。その時、自分の中で、これはできない、これはだめだと決めてしまうことがあるかもしれません。自分ではもうできないとあきらめかけてしまうこともあるでしょう。しかし、イエスさまに従うという時、それをしなさいと言われる時には、結果がどうなるかは分からなくても、そこに向かって動けるようにしてくださいます。できる時を与えてくださいます。イエスさまがそれをしなさいと言われる時、そのひと言を、そのまま受け取って、どうなるかは分からないけれども、そのまま信じて、動こうとする中で、イエスさまは、わたしたちの口から出る、このひと言を通して、また用いて、イエスさまのひと言から始まる、イエスさまのしようとしておられることを、わたしたちに与え、イエスさまが私たちのためにしてくださいます。

そこに神さまの愛があります。

説教要旨(7月18日)