2026年5月31日礼拝 説教要旨
変わることのない恵み(マルコ1:9~11)
松田聖一牧師
大正15年生まれの方が89歳の時に、教会に来られるようになり、神さまを信じて洗礼を受けられました。その時、聖書の学びを一緒にすることになったのですが、その方は、学校で字を教えてもらう機会がなかったために、カタカナしか読むことができませんでした。それで、毎回の学びの箇所をカタカナに直して、それで一緒に読んで、学ぶということを繰り返していきました。その内に、主の祈りを覚えられるようになりました。毎日主の祈りを全部カタカナに書いてもらって、それを見ながら「天にまします我らの父よ・・・」と、何度も何度も練習しておられたとのこと、一日何回も主の祈りを祈っていかれるうちに、覚えていかれました。そんな中ある時、ご自分のお父さんが山で作業中に、事故で亡くなった話になりました。働き盛りのお父さんが亡くなった時、ホントに生活が大変になられたことをお話されながら、ぽつりとこうおっしゃいました。「お父さんがいなくなった時、ホントに惨めだった・・・」
一家の大黒柱、生活を支える父親がいなくなったら、大変です。困ります。その時、残されたご家族はどうやって生活できるのでしょうか?
それは「ガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた」時の、イエスさまの、ご家族もそうだったのではないでしょうか?というのは、イエスさまが、「ガリラヤのナザレから来て」にある「から」とは、表面から分離して、縁から離れてと言う意味ですから、イエスさまは、自分が育ったナザレから、完全にではなくても、そこから離れることになるんです。それは、父親であるヨセフの亡き後、石切大工として、母マリア、血のつながりはなくても、一緒に育った兄弟たちの生活を、それこそ一家の大黒柱として、支えて、その生活を守って来られた、その仕事からも離れることになるのではないでしょうか?となると、ナザレに残されたマリアや、兄弟たちの生活は、たちまち困ります。働いて生活を支えてくれたイエスさまが、出て行ってしまうのですから、残された家族にとっては、明日からどうしたらいいのか?どうやって食べていけばいいのか?に、すぐ直面します。
もう1つのことは、ナザレから離れるということを、イエスさまと家族の関係から見ると、イエスさまは、もちろん神さまによって生まれた方です。だから、ヨセフ、マリアとも、後から生まれた兄弟との、血のつながりはありません。しかし、ヨセフ、マリアにとっては長男です。そして後から生まれた兄弟にとっては、一番上のお兄さんです。一番上の兄、長男ということは、両親を最後まで面倒を見、その仕事も後を継ぐという責任が、イエスさまにはあったことでしょう。ですから、家族にとっては、ずっとナザレにいて、家を守ってくれる、石大工の仕事も、当然続けてくれると、受け止めていたと思います。ところが、イエスさまは、ナザレから来て、離れてということは、家族にとっても、周りの人々にとっても、当然でしょうという、その時の当たり前を、壊していくことになるのではないでしょうか?
もちろんイエスさまは、喜んで壊そうとしているとか、家族がどうなってもいいとか、家族から離れて、神さまの働きに集中できるからいいとか、家族を捨ててとか、残していいんだ、といった言葉はありません。しかし残された家族にとっては、イエスさまがナザレから離れてしまうと、これまでのナザレでの生活が壊されることになるんです。それは家族にとって、嫌なことです。壊されたくありません。
私たちにとっても、そうですよね。今までの生活が、今まで通りにいかなくなると、壊れてしまった、壊されてしまったと受け止めてしまうのではないでしょうか?そしてこれからどうやっていけばいいのか?これからどうなるのだろうか?と不安で一杯になってしまうのではないでしょうか?
星野富弘さんの詩の1つに、こんな詩があります。
何のために 生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。これから どうなるのだろう。
ここに自分の体が、事故でこれまでとは全く違う、自分でどうすることもできない状態になってしまったことへの思いが現れています。「何のために生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。これからどうなるのだろう」は、その通りです。自分が壊れてしまったことへの叫びと言ってもいいのかもしれません。
しかし続きがあります。どうなるのだろう、で終わりではなくて、「その時、私の横に あなたは一枝の花を置いてくれた。力をぬいて、重みのまま咲いている美しい花だった」どんなに壊れた自分になってしまっても、何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう。これからどうなるのだろう。になっても、そのところで、神さまが私の横にいてくださる!私の側にいてくださる神さまがおられることに気付かされた詩となっているんです。
どうしてそう受け止めることができるのか?不思議に思われるかもしれません。これまでの当たり前が壊されたら、もうだめじゃないか!もうこれで終わりだと感じてしまうような時に、神さまが私の横にいてくださると、どうしてそう受け止められるのでしょうか?なぜそうなれるのか?そういう疑問が出て来るのは、自然なことだと思います。
それは、洗礼を受けられたイエスさまも、同じ経験を、洗礼を受けた後から、経験し、味わっていかれるんです。なぜならば「天が裂けて」の「裂けて」には、分割するとか、引き裂くと言う意味がありますが、その時、分割されるもの、引き裂かれるものが、もともとあったその形を失うことを、イエスさまは、洗礼を受けられた時、神さまから、神さまとして、ご自分が見、受け取っておられるからなんです。
かつて、海沿いの道を通っていた時、海岸近くにあった岩の上に、一本の松の木がありました。絶えず波が打ち寄せ、潮風が吹くところに、しかも土がない岩の上に生えている、その木を見た時、凄いと思いました。どうして土がないところなのに、こんな立派なマツの木が育つのか?と思った時、その松の木の根を見ましたら、大きな岩の中に、その根を張り巡らし、その根は、岩の中に入り込んで、その岩を裂いて、深く根をその岩の中に降ろしていました。つまり、その岩を裂いて、分割することで、マツの木がそこに立っていることに気付かされたのでした。その生命力たるや、凄いものだと感じ入った次第です。
一方で、根っこが入り込んでくることによって、大きな岩は、裂かれ、分割されてしまいます。元の大きさから、どんどん分割されていきますから、岩にとっては、元の岩でなくなります。
これを私たちに置き換えると、自分の考え、自分の描いた計画、自分が思っていたこと、それは自分自身と言えるのかもしれません。それらのことが、裂かれ、分割することです。その時、自分の考えていたこと、描いていた計画、自分が思っていたことから、どんどん離れ、遠のき、全く別のものになってしまうということでもあるのではないでしょうか?それが自分の上に、現実に起きた時には、思わず、「こんなはずじゃなかった」とか、「どうしてこんなことに・・・」という思いや、時には叫びのようなものになってしまうと思いますし、そうはなりたくないという思いも出て来て当然です。だからこんなはずじゃないと感じる時には、自分の思い描いた通りにしたい!思っていることを、その通りやりたい!になるんです。
それは何か大きなことだけではなくて、身近なことにも言えると思います。先週の礼拝後は、草取りをする機会に恵まれました。祈りをもって支えてくださったことも、感謝なことでした。あまり長くなると後に響く方もいらっしゃいますから、30分くらいということで、始めた草取りでしたが、草をぬき始めると、なかなかおさまりがつかないものです。綺麗にしたいという気持ちと言いますか、欲が出て来ます。それでも時間で区切らないということで、30分すぎた頃だったでしょうか?「そろそろ終わりましょうか・・・・」と声を掛けましたら、そうしたら、返って来たお返事は、「は~い!」なんです。嫌だではなくて、「は~い」という威勢のいいお返事でした。「は~い」ということは、分かったということですから、それで草取りをしていた手が止まるのかと思いましたら、「は~い」と言いながら、手は動いているんです。それでもう一度「そろそろ終わりましょう」と声を掛けますと、また「ハ~イ!もう終わります~」と返事しながら、それでも手は動き続けているんです。そんなことを繰り返しながらも、玄関先でお茶のひと時となり、良い時を過ごせたのですが、手を動かしていることを、止めるというのは、草をもっと取りたい、綺麗にしたいという自分の願いが、裂かれてしまうことです。分割されることですから、少々オーバーに言えば、それへの抵抗みたいなものが、自分の中に起こります。自分の計画を分割されたくない、そのままでいたいということ、もっと草をぬきたいという自分の計画が、壊されたくないということでもあると思います。
それはいろんなことに同じことが言えますね。見ちゃだめよ~と言われたら、見たくなることも、触っちゃだめよと言われたら、触りたくなることも、動かしたらダメですよ~と言われたら、動かしたくなるものです。お店の閉店の時にも、同じことが起こりますね。その時、閉店ですよ~と言っても、なかなかお客さんは、お店から出ようとしないので、どうするかというと、蛍の光を店内に流すんです。不思議ですが、「蛍の光、窓の雪・・・」というメロディーが流れると、お客さんは、慌てて買い物を済ませて、出ようとするんですね。そこまでしないと、なかなか出ようとしないと言うことも含めて、いろいろなことに、自分の思い、計画を壊されたくない、ダメと言われれば、言われるほど、ダメと言われることを、したくなるものなのでしょう。
つまり裂かれること、分割されることに対して、どこかで抵抗するんです。どこかでそうはなりたくない、裂かれ、分割され、壊されるのは、嫌だという思いがあるのではないでしょうか?
イエスさまが洗礼を受けられ、水の中から上がるとすぐ、天が裂けてというのは、洗礼によって裂かれることがあるということと、それによって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまの愛が与えられるということなんです。つまり、自分の思う通りにできなくなることも、引き裂かれ、分割されるようなことも、自分が壊されることも、それらのことが、すべて神さまの愛が現れ、神さまに愛されていることへと変えられていくのだということを、イエスさまは洗礼を通して、そして洗礼を受けた後に続くものとして、与えて下さっているということなんです。
たとい、どんなに抵抗し、壊されることを拒み続けていても、どんなに自分を曲げないでいたとしても、それでも、あなたはわたしの愛する子だということを、神さまは、私たちに語り続け、与え続けておられるんです。
そのことに気付けた時、神さまの愛の大きさを感じずにはおれません。神さまの愛の凄さに圧倒されていくんです。
工藤信夫という方の書かれた「人生の四季」という本の中に、先生ご自身が経験されたこととして、こう紹介されていました。
それは遠足の日の朝のことでした。遠足は子どもにとって楽しいものの1つですが、その日、私は学校に行くことができずにいました。というのは、お弁当がないからです。当時、母は商いをしていたので、行き先で売れ行きがよければ、そこに2、3日泊まって仕事をしたり、もっと郡部の山村に入っていったりして、帰ってこないことがしばしばありました。そうした時、家の米びつは底をついてしまいます。すると、おばあちゃんが決まって近所の家へ行って「あずき」とか「もち米」を借りて来るのです。「お米がない」と言うのが辛いので、おもちを作るためとかいう口実で借りてくるわけです。さて私は登校時間が迫ってくるものの持っていくものがなくて困っていました。学級委員長の私が行かなければ、皆が困ってしまいます。「みんな待っているだろうなあ、けど、弁当がないし、どうしよう、どうしよう」普段だったら、間に合わせにジャガイモのおつゆを作ってそれをすくって持っていったりしたのですが、そうもいきません。
「もう時間がない、休もう」と思った時、玄関にばたばたと足音が聞こえ、母がころがるように駆け込んできました。そして手早く、パンやら、お菓子やらを袋に詰め、水筒を用意してくれました。ところが途中で母は、ゆで卵がないことに気付きました。昔は今のように、ガスも、コンロもありません。ストーブをたくにも、消し炭を使って細かい木片、杉の葉などから火を起こしていたのです。とてもその時間のないことを見て取った母は、ストーブの中に少し火種が残っているのを見ると、驚いたことに、生卵をポンとその中に投げ込んだのです。母はきっと、その火種で卵をあたためたら、ゆで卵と同じようになると思ったのでしょう。もちろん、それは無理なことでした。
当時の私は、このことの持つ意味がよくわかりませんでした。しかし、いざ私が父親になった時、母がどんなに大きなことを私のためにしてくれたかが理解できるようになりました。私の心に「不合理をもいとわない母の熱情」が記憶されていたのです。そのため、その場面を今でも鮮明に思い起こすことができます。母はきっと、この子が弁当を開いた時、恥ずかしい思いをさせたくない」という一念から、直感的にそうしたのでしょう。そのことが私の心を感動で震わせるのです。
生卵を火だねに入れた時、その卵は割れてしまいました。それはゆで卵にはなりませんでした。でも割れた卵は、確かにその原型をとどめてはいなくても、投げ入れた卵が割れてしまっても、ゆで卵にはならなくても、そこに熱い思い、熱情が、溢れているんです。
それが神さまの愛です。私たちが、そのことに気付けなくても、あなたは私の愛する子、愛する子だからこそ、裂けること、壊れることの中に、神さまの愛を現し、与えておられます。
それがイエスさまの洗礼を通して、洗礼を受けた後、すぐに与えられ、増え、広がり、大きくなっていくんです。その始まりが、洗礼です。
祈りましょう。
