2026年7月5日礼拝 説教要旨
大きな忘れもの(マルコ8:14~21)
松田聖一牧師
毎週礼拝の後、玄関のところで、教会から帰られる際、皆さんにお聞きすることがあります。なんだと思いますか?それは「忘れ物はありませんか?」です。その時返ってくる返事は、「大丈夫!ありません!」と確信を持った返事が返ってきます。それで本当に大丈夫なのかというと、どこかに、何かが置き忘れられているもの、忘れ物があります。それは傘だったり、お茶もそうですね。その他、ものだけではなくて、言っておいたこととか、聞いたことも、覚えておいてねと言われた時には、分かった!と答えても、何か別のことが間に入ると、さっき言われたことや、聞いたことも、つい忘れてしまい、何だったかな?となってしまいます。それは覚えておこうとしたことが、目の前から、どこかに行ってしまうことであると言えるでしょうし、自分の頭の中に、ちゃんと握って掴んでおこうとしたことが、自分の手で握ることができなくなってしまい、自分の手から離れて行ってしまうこと、でもあるのではないでしょうか?
それは弟子たちもそうです。そのことについて「弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ」とありますが、この時の忘れ物は、この箇所の少し前で、4000人以上の群衆にパン7つを人々に分けていく中で、人々が満腹した後、残ったパン屑を集めて入れた7つの籠に入ったパンのことです。そのパン屑を、持ってくるのを忘れてしまったことを指して「パンを持ってくるのを忘れ」とあるんです。
それは単純に持ってくるのを忘れただけなのか?というと、「忘れ」というこの言葉には、見落とすとか、なおざりにすると言う意味があるのと、「持ってくる」には、受け取るとか、身に着けるとか、握ると言う意味がありますから、彼らは、イエスさまから、与えられた7つの籠に入ったパン屑を、受け取ること、身に着け、握ることを、なおざりにしたということでもあるんです。同時にそれは、パン屑を受け取らない、握らない、身につけないということを、彼ら自身が握っていたとも言えるのではないでしょうか?
ではなぜそうしてしまったのでしょうか?パンは彼らにとっても命のパン、生きる糧です。それなのに、どうしてそれを持ってくるのを忘れてしまったのか?というと、1つにはパンのかけら、パン屑、破片に、その価値を見出せなかったからではないでしょうか?確かに、そのパンは、もともとあったパンをイエスさまが裂き、砕いたものですから、細かくて小さいパンであるというのは、その通りです。しかも、このパンには、イースト、酵母は入っていませんから、固いせんべいのような、クラッカーのようなパンですから、裂いていくうちに、粉々になってしまい、手に取ることが出来ない大きさに、なっていたのかもしれません。それでも、イエスさまが、砕かれ、裂かれたそのパンは、たといどんなに小さくても、そのパンを人々は、食べて満腹して、命が守られ、助かったんです。それ自体は、凄くよかったんです。ところが、弟子たちに与えられた7つの籠に入ったパンは、人々の食べたパンの残り、余りものであり、食べ残したものでもあったんです。そういうこともあって、弟子たちは、この小さな破片のパン、パン屑に、その価値を見出せなかったのかもしれません。いずれにしても弟子たちは、この7つの籠に入ったパン屑を受け取ること、持ってくることを、なおざりにしているんです。
それでは私たちにとって、砕かれたもの、小さな破片、といった小さなもの、あるいは小さなこと、あるいは、誰かの残り物、をどう受け止めるでしょうか?いろんな思いが立つかもしれません。こんな小さなものには価値がないとか、何も役に立たないとか、あってもなくても変わらないとか、どちらかというと、過小評価し、受け取りたくないという思いが先に出てしまうこともあるように思います。じゃあ実際、本当に役に立たないのかというと、本当に価値がないと言えるのでしょうか?
松本に、旧開智学校があります。その建物は、国宝に指定されていますが、何年か前に、解体修理が行われていました。丁度その頃、何かの用事で松本教会に伺った時、近くにあるということで、初めて開智学校を訪ねましたら、工事中ということで、建物はシートで覆われていて、工事の音が聞こえてきました。そこに、大工さんがおられて、どういうきっかけだったかは忘れてしまいましたが、やり取りをした時、大工さんがこうおっしゃいました。「いやあ~大変だ~大変だ~」「何が大変ですか~」「工事は大変だ~解体する時には、釘一本でも、捨てちゃいけない!昔の釘でも、それをそのまま使うので、一本でも、捨てちゃいけない!大事に取っておかないといけない!だからなくさないように、どこで使われていたかも分かるように、抜いた釘もね、一本ずつ綺麗に並べるんだ~」「へえ~そうなんですか!」「そう、国宝だから、釘も古いからと言って、新しい釘に変えちゃいけないんだ~だから釘も歪んでいても、釘も直して、また使わないといけない~だから国宝は大変だ~」そうおっしゃっていましたが、その時、国宝の解体修理は、釘一本であっても、変えてはいけないということを、初めて知りましたし、屋根も柱も、瓦も全部、当時と同じものを使わないといけないというのが、国宝なんだと言うことを知った次第です。
捨てちゃいけない!という、その釘は、それだけを見ると、小さな釘です。建物全体から見ても、ほんの僅かな大きさです。しかし、その釘は、一本たりともなくしてはいけない、大切な、かけがえのない宝ものです。そういう意味で、釘一本でも、凄く大きい存在ですし、価値が凄いと言えるでしょう。
それはイエスさまが砕いて、破片、屑のような大きさにしたパンも、同じです。確かに見た目には、本当に小さいものです。じゃあ小さいから、大したことがないとか、価値がないということではなくて、どんなに小さくても、それは、イエスさまが、パンを砕いて、破片にして、それこそパン屑にしたとしても、そこには命があり、その命によって、食べた人々は、生かされるんです。まさに命のパンなんです。
それは今日持たれる聖餐式で配られるパンもそうです。本来、聖餐式に使われるパンは、酵母が入っていないパンです。だから、クラッカーか、せんべいのようなものです。それを砕いて、小さくされたものが、配られますが、時々、いろんな反応があります。ある方は、聖餐式に参加され、パンをお渡ししようとしたら、小声で、こうおっしゃいました。「大きいのをちょうだい!」お腹が空いていたのか?そのパンが美味しいということを知っていて、その味をしめたのかは分かりませんが、「大きいパンが欲しい」ということで、大きなパンを「これはイエス・キリストのからだである」と言いながら、渡したとか、また別の方は、聖餐式を本当に楽しみにされていました。その教会では、ぶどうジュースだけではなくて、ぶどう酒も使っていましたが、聖餐式が近づくと、その方からこんなリクエストが来るんです。「聖餐式の時ね~一杯入れて!」それは神さまのお恵みをたくさんいただきたい!という思いが、言葉になったことでしたが、そもそも、そのお恵みは、大きいか小さいか、一杯かそうでないかに関係なく、たといどんなに小さくても、どんなにわずかであっても、これはわたしのからだであるというイエスさまの命、命のパンが、御言葉と共にあるからこそ、神さまの恵み、赦しは、すごく大きいお恵みです。その恵みである聖餐を受け取る時、神さまの恵みは、私たちの中で、大きく、大きくなっていくんです。
それが7つの籠いっぱいになったということでもあるんです。でも、弟子たちには、それが分からなかったんです。だから、なおざりにしてしまったんです。その結果、弟子たちは何も持っていなかったのかというと、「1つのパン」は持っているんです。1つはあるんです。不思議なのは、4000人の人々にパンを裂いて分けた時に、イエスさまは弟子たちに「パンは幾つあるか」と尋ねた時、「7つあります」と答えて、イエスさまはその7つのパンを取っていかれますから、彼らの手元には何もないはずです。ところが1つあった、それを弟子たちの中で、誰かが持っていたんです。いったいどこからこの1つを手に入れたのか?それは分かりませんが、パンを1つ持っているのに、この時「持っていない」ことについて、「自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合って」いるんです。
これもまた不思議ですね。パンを1つ持っているのに、論じ合っている内容は、持っていないことで、論じ合って、議論し合っているんです。激しい議論です。それも、分かるような気がします。彼らは舟の中にいますから、1つのパンで、どうやって舟の上で過ごせるのか?生きられるのか?どうすればいいのか?といった、生きるために必死の、命に係わる、またお互いの生きるための欲望を巡る激しい議論です。
そんな彼らに気付いておっしゃっておられるイエスさまの「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが5000人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「7つのパンを4000人に裂いた時には、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、いくつあったか。」にある、この問いのポイントは、ないということについて、ないないと言って、お互いに議論しているけれども、本当にないの?本当にゼロなのか?という問いかけです。同時に、イエスさまは、ないと言う中で、わたしが与えたじゃないか!わたしが裂いたパンは、5000人に、あるいは4000人に行きわたったばかりか、集めたパンの屑でいっぱいになった籠があったじゃないか!に気付かせようと、「いくつあったか」という問いかけでもあるんです。
なぜならば、弟子たちには何もないのか、本当にないのか?というと、ないと言っていても、持っていないからだと言うことでの議論をしていても、ないのではなくて、1つあるんです。それなのに、ないないと言ってしまうのは、そこにあるのに、そこにある1つのパンを見ていないからではないでしょうか?あるいは、パンを1つ持ち合わせていることを、聞いていないか、聞いたとしても、頭から抜けてしまっている、からではないでしょうか?
だからこそイエスさまは、5000人以上の人々に、また4000人以上の人々にパン、食べる物を分けることができたこと、そればかりか、「集めたパンの屑でいっぱいになった籠」について、イエスさまは「幾つあったか」と弟子たちに具体的に尋ねられるんです。その結果、弟子たちが、5000人の時には、「12です」。4000人に裂いた時には、「7つです」と答えた時、彼らの中に、12の籠いっぱいになったこと、7つの籠いっぱいになったことが、もう一度甦ってきたのではないでしょうか?そのためにイエスさまは、どんなに僅かなパンでも、自分達の手元には何もなくても、イエスさまが、これしかない、ないないと言っていた自分達の目の前で、ないのではなく、豊かに、有り余るほどにあった!ということに、もう一度気づかせてくださるんです。
なぜならば、イエスさまは、ないということを、ないままにされるお方ではないからです。確かに目の前にはないかもしれないし、ないないと言って、ないことについて、激しい議論をしていたとしても、イエスさまは、ないからあるを生み出してくださり、ないものから、あるものへと変えて下さるお方だからです。だからイエスさまは、「幾つあるか」ないんじゃない、「ある」んだ!しかもあるものが、いくつあるか?ということを、私たちに、数えるように、そしてあることに目を向け、そのあることを数えていくことによって、たとい自分にはないと思っていたとしても、ないをあるに、造り変えて下さるイエスさまが、あるものを与えて下さっていたことに、目を向けさせ、心を向けさせ、幾つあるか、というイエスさまの言葉を聞くことができるように、して下さるんです。その時、あるんだ!が分かるようになり、それが私たちの力となり、勇気となり、一歩踏み出せるようになっていくのではないでしょうか?
ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁にある、一患者の作となって掛けられている詩があります。
大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった より偉大なことができるように 健康を求めたのに より良きことができるようにと、病弱を与えられた 幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった 人生を楽しもうと あらゆるものを求めたのに あらゆることを楽しめるようにと 生命を授かった 求めたものは1つとして与えられなかったが 願いがすべて聞き届けられた 背ける身にもかかわらず 言い表せなかった祈りもすべてかなえられた 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
この詩の作者は、どなたかは分かりません。きっと、求めても、求めてもない
ということを、数え切れないほど経験されたことでしょう。その時、悲しくなったり、辛くなったり、苦しくなったり、希望が見えない時もあったと思います。確かに、願ったことが何一つかなえられなかった、そんな、ない、という出来事です。しかしそれで終わらなかったんです。「背ける身にもかかわらず、言いあらわせなかった祈りもすべてかなえられた 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」は、ないを、ないままにではなく、ないと言うことに変えて、豊かな祝福があるものへと変えてくださった、イエスさまがおられることに気付かされているんです。
私たちにとっても、忘れること、なおざりにすること、持って行かないこと、そこにあるのに、ないない、と言ってしまうこと、聞いているのに、聞いていない、と言ってしまうこともあるでしょう。そういう忘れ物、忘れ事があります。しかし、どんなに、ないないと言っていても、あるを与えて下さるイエスさまがいつもおられます。そのことを忘れてしまうこともあるでしょう。だからこそイエスさまは「まだ悟らないのか」と、「幾つあるのか」と、私たちに与えられている、あるを、数えていけばいくほど、あるが、どんどん大きくなり、増えていきます。そのことに気付けた時、大きな忘れ物があった!ということを、目の前で発見できるんです。
祈りましょう。
