2026年6月28日礼拝 説教要旨

一八〇度転換(マルコ6:14~29)

松田聖一牧師

 

教会のご近所にカトリック教会に通っておられる方がおられました。年齢も80代くらいだったかと思いますが、何かの時に、知り合う機会がありまして、時々、道でばったり出会うことがありました。その方は、お父さんもカトリック教会の方で、教会のお世話とか、他の教会の方々のためにも、特に戦時中大変な時、いろんな援助をされていました。ですので、その方も、幼い頃から教会に通い、信仰生活を続けておられたのでしたが、年に一回、クリスマスが近づきますと、ご近所の教会の先生方を何人か招いて、ランチをぜひ一緒に!と誘ってくださいました。それで誘いに来られるんですが、その時、インターホン越しに「それではこの日に、このお店で!」と、ご近所中に聞こえるほどに、辺りに響くように、大きな声でおっしゃられるんです。とにかく豪快な方でした。ある時、また道端でばったりお会いした時、戦時中の話になぜかなりました。「私はね~憲兵ににらまれていたの~教会に通っていたことで、いろんなことを言われたわ~ある時には、国賊の娘!と言われたのよ~」国賊の娘だなんて‥‥とびっくりしましたが、続けて「その憲兵の方が、戦後になってまた会ったのですが、その時、何て言われたと思います?お嬢さまと言ったのよ~どう思います?ちょっと前までは、国賊の娘と言っていた、同じ人が、お嬢さまですよ~どう思います?」そうなんですね~と、そんなやり取りをした覚えがあります。

 

忘れることのない出会いですが、同じ人から、国賊の娘と、お嬢さまという、全く正反対のことが出て来る・・・それもまた人の真実であり、現実だと思います。おそらく立場上、国賊云々と言わなければならなかったのでしょうし、その立場がなくなったとき、そうではなくなったということなのでしょうが、その時は、自分の身を守るために、必死になっていたのだと思います。

 

それはヘロデも同じです。絶え間のない権力争いの中で、ヘロデは何とかして領主としての立場、権力を守ろうとしたのではないでしょうか?というのは、ヨハネが殺された後、イエスさまについて、人々が「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が」「働いている」とか、「彼はエリヤだ」とか、「昔の預言者のような預言者だ」と言っていた中で、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と答えていくのは、ヨハネが生き返ったのだ、と答えることで、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ・・」と言っている人々と、同じになるからです。その結果、その人々から、ヘロデが支持されていきます。しかも「彼はエリヤだ」とか、「昔の預言者のような預言者だ」と言っているのは、「人」ですが、ヨハネが生き返ったと言っているのは、人々です。人々ということは、多数、大勢ということになります。そういう人々と同じになるということは、その多くの人々から支持されて、ヘロデの支持基盤が強められていくことにもなるのではないでしょうか?

 

さらにヘロデは、命令はしていますが、自分が直接ヨハネに対して何かしたわけではないのに、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言っているんです。この言葉をよく見ると、わたしが、の「が」とあのヨハネが、の「が」という「が」が、2回も1つの文章の中に出て来るんです。それはヘロデが首をはねたヨハネが、ただ生き返ったということだけではなくて、わたしヘロデが、そうしたから、ヨハネが生き返ったんだということになり、そのヨハネが、イエスさまであると言い、「だから奇跡を行う力が彼に働いている」と、ヨハネとイエスさまとは、別人なのに、同一人物にしてしまうことで、「わたしが」という、ヘロデが、ますます誇示されていくんです。つまり、事実ではないところに、事実であるということを、作り上げてしまう、作り話によっても、ヘロデは領主としての立場を、より強めようとしているのではないでしょうか?

 

その結果、自分が、いかに良いことをしたか?自分がヨハネをそうしたから、だから生き返ったのだ、と人々に、ヨハネの殺害と、それに至るへロディアとのことを、悪事ではなく、自分の良いこと、凄いということに変えて、ますます見せていくのではないでしょうか?そういう意味で、ヘロデは凄いと思いますし、権力を求める欲望の強さを感じます。だから凄く計算高いです。

 

では、ヘロデはそもそも気が強かったのか?というと、ヨハネに対して、ヘロデは「正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、 また、 その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあります。ここで、「保護し」と「また」と、「その教えを・・」の間には、よく見ると空白があります。この空白は何を意味するのか?それは「恐れ」と「非常に当惑しながら」すなわち途方に暮れているという意味から、見えてきます。つまり、ヘロデは、ヨハネからへロディアのことで、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言われたことで、ヨハネを恐れているんです。その恐れの中身は具体的に記されていません。自分がしてはいけないことをしていると気付かされた恐れであったかもしれませんし、そのことをはっきりと指摘したヨハネに対する恐れ、脅威と言ってもいいかもしれませんが、その恐れがあったがゆえに、「保護し」ていくんです。しかし、保護しながらも、それでヘロデは、安心しているのかというと、「非常に当惑しながらも」ですから、自分がしてはいけないことをしてしまった!それが表に出ないようにするためか?具体的には分かりませんが、ともかく恐れの中で、揺れ動いているんです。そのことが、2つもある空白に、言いたくても言い表せない何かが、現れているのではないでしょうか?

 

言葉にできないこと、言葉にならないものというのは、私たちにもありますね。恐れて、当惑し、途方に暮れている時、本当の思いをなかなか言えませんし、隠すつもりはなくても、出せないことがあるのではないでしょうか?それは、自分の中で、整理がつかない時かもしれません。それこそ頭の中がぐちゃぐちゃといった、自分でも何を考え、何を感じているのか分からないような感覚かもしれません。あるいは、これからどうやって生きていけばいいのか?生きるすべが分からない状態かもしれません。そういう時、言葉になかなか出せないんです。だからこそ空白が生まれ、空白がそこにあるんです。

 

それでもヘロデは、ヨハネの教えを「なお喜んで耳を傾けていた」んです。でも恐れているんです。しかしその一方で、へロディアはというと、「ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」へロディアは、律法で許されていないと、はっきり指摘したヨハネを恨むんです。そして彼を殺そうと思っていたんです。でも、「できないでいた」ということは、何度も何度もしようとして、できなかったということ、その恨みが、どんどん積み重なり、ますます大きくなっていたのではないでしょうか?

 

それにしても、へロディアとヘロデとでは、対照的です。180度違います。しかし180度出方は異なっても、へロディアも、ヘロデも、ヨハネに対する恐れ、脅威は凄くあるんです。その結果、ヨハネを亡き者にしようと言う、そのきっかけが、(21)「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、へロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客とを喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。」にあるんです。

 

この場面は、ヘロデの誕生日に、高官、将校、これは1000人の兵士を纏める1000人隊長とか、将軍や、ヘロデが領主として治めているガリラヤの有力者などを招いて、宴会を催したとき、へロディアの娘が、招待客を前に踊りをおどり、ヘロデとその客とを喜ばせた時、王は、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」とか、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったところです。固く誓うということは、神さまに対して誓うということですし、その誓いを、高官、将校、有力者の前でしたわけですから、誓ったことは、絶対に守らなければなりません。だから、どんな無理難題でも、どんなことであっても、ヘロデは、願った通りにしなければならないんです。

 

では、実際に何でも言いなさいとか、何でも願うがよいということが、本当に出来るのか?というと、どうでしょうか?

 

時々こんな言葉が出る時がありますね。「何でも言って~」「何か必要なことがあったら、何でも言って~」それは、相手が何かのことでお困りごとがある時、周りの方々が、その人に言う言葉の1つです。心配され、何か手助けすることがあれば…というお気持ちの表れだと思いますが、何でも言って~が、本当にその通り何でも、どんなことでも出来るのか?というと、どうでしょうか?

 

例えば、何でも言って~なんでもやろうと言った、その相手から、1億円欲しいと言われたら、どうでしょうか?何でも言って~と言ったわけですから、たとい1億円持っていなくても、借金をしてでも、あげないといけませんね。でも実際には、出来ないですし、逆に、そんな無茶なことは出来ないと、言い返したり、「そんなことを言ったかな?」と言って、自分に都合が悪くなると、とぼけてしまったりして、何でも言って~言ったことから、180度反対のことを返してしまうのではないでしょうか?それはただ、正反対のことを返しただけではなくて、言ったことを、守っていないという有言不実行になっているんです。ではなぜ何でも言って~と言ってしまうのか?というと、人前でいい格好をしたいとか、体裁を繕おうとか、自分の身を守ろうとか、そういうところに1つの根っこがあるのではないでしょうか?その結果、何でも言って~ということを、そのまま受け取られた方が、本当に何でも言ったら、言われた方は、困りますし、途方に暮れることもあるでしょう。

 

ヘロデもそうです。そもそも、何でも言いなさい、に、何でも、どんなことでもほしいと言われたら、困ることも出て来るのに、何でも言いなさいと言ってしまうのは、「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、へロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客とを喜ばせた」からです。それは娘さんの踊りが、素晴らしかったということと、「喜ばせた」にあるもう1つの意味、気に入るように喜ばせたということから、ヘロデとヘロデに招かれたお客さんに、気に入ってもらえるように、踊ったことで、「何でも言いなさい。お前にやろう」が出て来るんです。

 

では、踊りをおどった娘さん自身、喜んで踊っていたのかというと、そういうわけではなくて、そこにいる人々を喜ばせるために、気に入られるために、踊ったということですから、派手な踊りであったかもしれませんし、招かれた人たちは、高官、将校、これは1000人の兵隊を束ねる1000人隊長とか、高級の将校、将軍、あるいは軍人に限らず、それ以外の高官のこともさしますから、有力者ばかりの中、そしてほとんどすべてと言って良いでしょう、男性ばかりの中で、踊った彼女の思いは、喜んで踊っているというよりも、ある意味では見世物的な、アイドル的な存在として、自分を見せようとしているんです。だから、表向きは喜ばせていても、彼女の思いは、そうではなかったのかもしれません。自分が自分ではない、ただ使われているだけ、人を喜ばせる道具、駒のようになってしまっていたのかもしれません。

 

それは何でもやろうというヘロデの言葉に、答えた少女の言葉「今すぐに、洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」にも現れています。こう言った彼女が、本当に思っていたのか?彼女の本心だったのか?というと、母親であるへロディアにお伺いを立てて、母親の言うなりに、答えた言葉です。それは、母親へロディアのヨハネへの恨み、殺してしまいたいという欲望を満たすために、少女である娘は、ここでもただ駒のように、使われた結果の、言葉です。

 

そう言う意味で、この箇所に出て来るヘロデも、へロディアも、その娘も、言っている内容は違っても、それぞれに思っていることと、言っていることが、180度違う、矛盾を抱えているのではないでしょうか?それは凄くしんどくて、辛くて、苦しいことなのに、それでもヨハネは殺され、むごたらしい有様となって、さらし者にされてしまうという結末を見る時、人の中にある本音と、180度反対の事柄の中で、とんでもない方向へと、突き進んでしまうという恐ろしさと、おぞましさがあると言えるのではないでしょうか?

 

「開戦前夜」という映画があります。そこには、1941年真珠湾攻撃の数カ月前に、内閣直属でエリートたちが集められ、総力戦研究所というところで、戦争を始めたら、日本はどうなるのか?ということを、いろいろな数字を基にシュミレーションしていくんです。そこで出た結論は、日本は必ず負けるという結論でした。それでも戦争を始めてしまったら、日本はとんでもなく破壊されてしまう、誰がこんなバカなことをするのか?という結論でした。それは感情論ではなく、具体的な数字から導き出された結論でした。ところがその結論は、完全に葬られてしまうんです。その結果、戦争が始まり、敵味方関係なく、たくさんの人たちが、亡くなっていかれるんです。

 

必ず負けると言う結論に、180度反対の考えが、数の上で優ってしまうこと、それによって戦争が始まってしまうということと、殺されたヨハネを巡ってのいろいろなことには、同じ構図があります。それは、お互いに、自分の本当の思い、本当のことと180度違うのに、自分にとって正反対のことを、受け入れ、信じてしまったということだからです。それは私たちの中にもあります。180度正反対のことを抱えています。殺されたヨハネもそうだったでしょう。そんなヨハネが、自分の弟子たちに引き取られ、墓におさめられたということが、何を意味するのかというと、ヨハネが殺されるまでのいろいろなことを、詳しく紹介するためとか、ヨハネを引き取り、丁重に墓に納めたということだけではなくて、とんでもない死に方をしてしまった、ヨハネであっても、神さまに委ねることができたということなんです。その時、神さまは、ヨハネを受け入れておられただけではなくて、ヨハネがむごたらしい死に至ったことすべて、関わった人すべて、ヨハネにとっては加害者である人すべてのこと、そしてその人それぞれにある180度違う、正反対のことをもすべて、神さまは、受け入れ、それらすべてのものを葬って下さるということなんです。その結果、もはや表には出てきません。出てこれなくなります。その時やっと、自分の中にある180度正反対のこと、矛盾から解放され、自分の本当の思い、本当のことを、語れるようになるのではないでしょうか?

 

祈りましょう。

説教要旨(6月28日)180度転換(マルコ6:14~29)