2026年6月21日礼拝 説教要旨
人とは何か(マルコ6:1~13)
松田聖一牧師
世の中にはいろんな方がいらっしゃいます。十人いたら、十人十色、十色です。百人いたら百人の色、千人いたら千人の色があります。そういう千差万別な方々と共に、私たちも、また教会も、それぞれの働きと生活が営まれています。それは、それぞれが自分たちだけで、生活し働いているだけではなくて、この地域に住むたくさんの方々によって、支えられていることでもありますね。周りのたくさんの方々から、支えられているからこそ、生活でき、また働くことができるということではないでしょうか?
ある車屋さんと、お話したことがありました。その時、車屋さん、こうおっしゃいました。「僕ら車屋はね~結局は車を持っている方々から仕事をさせてもらっているんですよ~例えば、車が壊れた時、車を持ってこられるので、車を修理するんだけど、車が壊れたから、僕らは仕事をさせてもらっています。だから車が壊れなかったら、仕事は成り立たないんです…」なるほどそうだと思いました。車が壊れることで、仕事が出来る・・・それで車屋さんは、収入を得、お客さんも、車を直してもらえたことで、また運転できます。それで仕事や用事を済ませることができます。お互いに助かります。それは他にもいろいろありますが、例えば、病気の時、病院に行きますね。治してもらうために行くのですが、病院の立場から言えば、病気になる人がいるから、病院に仕事が来ます。医師も看護師も、仕事ができます。それによって生活できます。そして病院で見て頂いた患者さんも、治療などをしていただけたことで、回復していきます。つまりお互いが、その相手に必要とされ、またお互いに、その相手の利益になっているから、お互いに生活が成り立っていくとも言えるのではないでしょうか?
そういう関係が、私たちと周りの人々とに、また地域の人々との関係とにあります。だから、この地域におられ、有形無形の形で支えて下さっている方々と繋がり、出会うことは、当然の流れですし、その関係を大切にすることも、必要です。
ところが、イエスさまは神さまとして、神さまの働きを始められた時、一旦故郷ナザレから出て行くんです。具体的には、大工の仕事から離れ、家族を養うということを止めて、出て行ってしまうんです。その結果、残された家族の面倒をナザレの村の人々が、みていくんです。それはこの言葉にも現れています。「姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」その通り、人々は、イエスさまがいなくなった後の、残された家族の面倒を姉妹たちも含めて見ていたんです。だからイエスさまが、ナザレにお帰りになった時、人々は「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」と言っていますが、その意味は、イエスさまが大工であること、マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟だということを、肯定しているのかというと、むしろ反対で、大工ではない、マリアの息子でもない、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟でもない、と断定的に否定しているんです。つまり、人々は、イエスさまと、残された家族とは、一切関係ない!全く関係ない!と、豪語しているんです。そこには、イエスさまが家族を残して、仕事を残して、出て行ってしまったということへの、気持ち、感情が現れています。と同時に、そもそもイエスさまと残された家族とは、全く血のつながりがなく、他人ですから、そういう中で、再びナザレに帰って来たイエスさまに対して、何を今さら帰って来たのか?何をしに来たのか?といった、風当たりは相当あったと思います。
そんな中で、神さまのことを伝えていくイエスさまを、故郷の人々は、敬わないんです。理由はいろいろありますが、その1つには、小さい頃から、一緒に育った方、共に生活をされた方にとって、イエスさまが、あのイエスさまから、とんでもないことを始めたイエスさまが、まるで別人のようになった!と映ったからかもしれません。そしてイエスさまが語る神さまの教えとは、神さまの愛、神さまが、どれだけ私たちのことを大切にしているか?その神さまがいつも共にいて下さるというメッセージです。しかし、故郷の人々にとって、神さまの愛とか、神さまが大切にしていて下さるということを語るイエスさまに対して、仕事や家族から離れて、出て行ってしまったのに、そんなことをどうして言えるのか?言っていることと、やっていることがまるで違うじゃないか!と受け止めてしまうのではないでしょうか?そんなきれいごとを言っても、残された人たちのことを、どう思っているのか?そんな怒りも出てしまうと思います。それが人々の、イエスさまに「つまずく」すなわち別の意味では、イエスさまを否認し、イエスさまに怒りと不快になったということにも、現れているんです。つまりイエスさを敬わなかったには、単にイエスさまが語る教え、そのイエスさまを信じない、受け入れられないということだけではなくて、そこにはイエスさまへの怒りがあるんです。
それとほんの少し似たことかなと思いますが、神学校で学び始めることが決まった時、故郷のご近所も、中学、高校、大学の同級生などからも、同じ学校の同僚の先生や、担任した子どもたちや、その保護者の方々など、大騒ぎになりました。ある日、職員室に戻ると、新任の時、校長先生としてお世話になった先生が、転任先が飛んで来られて、どうやらやめるのを思いとどまらせようとして来て下さいました。給食を作って下さる方々も、心配してくださいました。同級生も、びっくり!ご近所の方々も、親戚の方々もびっくりされていました。ただその中で、その時の校長先生だけは、お坊さんも兼ねておられたこともあったのでしょう。神学校に行くので、退職したいと思いますとその気持ちも伝えると、「ようわかる、ようわかる~」と、言って下さり、「それじゃ、この書類に退職と書いたらいい」おっしゃってくださいました。そんなこんなで大騒ぎになり、慌ただしく、送別会などしていただいたのですが、その時周りからは、「どうやって食べていけるの?」「ちゃんと生活できるの?」そういう心配でした。どうやって食べて行けるのか?どうやって生活できるのか?そのことをすごく心配下さったのでした。それから25年ぶりに、同じ学校で働いた先生方とお会いした時にも、また言われました。「どうやって食べているの?やっていけるのか?」とか、ある別のおじいさんからは、「なんぼもろとるんや?そんなにもらっとらへんらろ!」乱暴な言い方ですが、今だに、どうやって生きているの?というのが、帰ってきます。でもそんな中で、これもまた人生やとか、按手礼を受けた時には、同僚だった先生から、「初志貫徹だな!」とお祝いの言葉を頂いたり、そんないろいろから、30年以上にもなりますが、今でも声を掛けて頂いて、何かの時には、顔を合わせる機会が与えられています。そしてまた言われます。「あの時はびっくりした!どうやってこれから生活できるのか?心配した~」「どうやって生きているの?生活できるの?」と。有難いことだなと思いますし、長野に来たから、寄ってもいいか?と何人かの方々が訪ねて来られたり、教え子が来てくれたりと、今もなお繋がりが与えられていることは、何よりだと思います。
一旦離れても、残してきた方々と、何かの機会には顔を合わせていくこと、今どんなことをしているかということも含めて、話していくことは、大切だと思います。
そう言う意味で、イエスさまの故郷への思いは、並々ならぬほどだったのではないでしょうか?なぜならば、人々はイエスさまを敬わなかったし、イエスさまに怒り、イエスさまを否認し、イエスさまに対して不快になっていても、それでも、イエスさまは、故郷の人々と縁を切ったとは書いていないんです。むしろ、ナザレからは出たけれども、それでも、イエスさまの中には、いつも故郷ナザレのこと、ナザレに住む自分を良く知っている人たちのことを、思っていたからこそ、イエスさまが行った先は、「付近の村」なんです。付近ということは、ナザレの近くです。しかも、イエスさまは、ナザレの近くの村に住んでいる人々、そばに導いていかれるんです。ということは、ナザレの付近の村の人々をイエスさまが導いて下さることによって、イエスさまが神さまであることを、信じたかどうかは分かりませんが、少なくとも、イエスさまが神さまであるということを、知っていかれるんです。そして、その人々は、故郷ナザレとの繋がりもあったことでしょうから、その人々を通して、その人々が用いられて、イエスさまができなかった故郷ナザレに、やがては神さまの教え、福音が届けられていくのではないでしょうか?つまり、イエスさまが直面する事は、1つがだめでも、全部がダメではなくて、ダメだったこともまた用いられて行くということではないでしょうか?
それと同じことは、私たちにもありますね。自分がそこでやろうとしても、うまくいかなかったこと、思い通りにならなくて、そこから別のところに移らなければならなかったこと、それは、挫折の経験と言ってもいいかもしれません。本当はここでやりたかった!でもできなかったということを、その時には受け入れられなかったとしても、神さまは、イエスさまのこの出来事を通して、1つがダメであっても、全部がダメではないということ、ダメだった1つのことを通して、新しい所へ導き、新しい道を開き、新しい出会いを与えて下さるお方です。なぜならば、自分にとって、1つがダメな時、それは、その1つは、あなたの進む道ではないという神さまの判断があるからです。神さまは、ダメだったということを経験した私たちを、ダメだと否定しておられるのではありません!むしろ、それは、確かにダメだったけれども、それは、あなたの道ではなくて、もっと別のところがあるということを、示し、与えておられるんです。
イエスさまが、弟子たちを、呼び寄せ、神さまの働きのために必要なものを与えられる時もそうです。その時、イエスさまは、与えるものと、与えられないもの、与えるんです。それが「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金を持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた時、命じられた側の弟子たちにとっては、パンも、袋も、お金も持って行きたかったかもしれません。安心して、お金にも困ることなく過ごせるようになりたいという思いもあったでしょう。でもイエスさまは、杖一本のほか何も持たず、ただ履物は履くように、下着は二枚着てはいけない、一枚だけ着て行きなさいと命じられるのは、持ちたいと願う彼らがダメだということではなくて、本当に必要なものだけ持つことへと導くために、持ちたいと言う願いにストップをかけられるんです。なぜならば、必要最小限のものを持つことで、逆に支えられ、助けられていくことを、イエスさまは与えようとしておられるからです。
エベレストという世界最高峰の山に上られた登山家の方の、登るために持っていくものが紹介されていました。基本的に必要最小限度のものです。具体的には、何日で登って、降りて来るかということを、前もって計画して、それに見合った食糧、水、などなどを用意していきます。もしもの時には何とかなるように、それも計算しています。そこでポイントとなるのは、重さと大きさです。持っていく荷物が重すぎると、山登りでは大変というよりも、危険です。だから出来るだけ軽いもの、重さがないものを、選び、食べる物も、栄養価が非常に高いものでありながらも、大きくないものを選んで、荷物に纏めていきます。それによって、支えられていくのですが、
イエスさまが弟子たちに命じた、最小限度のものしか持って行ってはいけないと言われた意味には、もう一つあります。それは、彼らが持っていないものも、旅先で、行った先で、その生活と働きの中で、必ず与えられると言う約束があります。確かに、今は持っていないものであっても、これから本当に必要なものは、行った先で、出かけた先で、イエスさまが遣わされた先で、必ず与えられていくんです。その与えられたもので、支えられ、豊かにされていくんです。
その豊かさを、パン、袋、お金、下着といった生活必需品に現しておられる意味は、私たちの身近なところ、毎日の生活の中で、自分になかったものが、与えられるという、神さまの恵みがあるということではないでしょうか?それは、どこか遠いところにあるものではなくて、特別な何かの中にだけしかないものではなくて、身近なところに、日々の生活の中に、なかったものが与えられ、受け取れる恵みがあるということなんです。
ある方が、給料日に、近くのスーパーによりました。すると店先には、今が旬のぶどう、巨峰が並んでいました。その時、お父さんが果物好きだったことをお思い出されて、ちょっと奮発して、大きなぶどうを3房買いました。給料日だったので、いいものを買いました。ところがと言いますか、いろいろなことで、その帰りに、別のところに寄った時、持っていたぶどうを、別の方に、3房全部差し上げることになりました。その結果、家に持って帰られるぶどうが、手元からなくなりました。でも、差し上げられたことも、良かったと思っていましたので、そういう気持ちで車を走らせて、交差点に差し掛かった時、後ろで走っていた車が、左へ寄れと合図するんです。一体どなたかな?と思っていましたら、知り合いの方が、車から出て来られ、こうおっしゃいました。「たくさんもらって食べ切れないから、これ、もらってくれない?」木箱を出されて、どうぞいうことでした。中を見ると、さっき買って差し上げたぶどうと同じぶどうでした。しかも、買ったぶどうよりも、さらに大きな上等な、ぶどうでした。それをたくさんいただいて、家でお父さんは美味しくいただくことができたのでした。そのことを振り返って、こうおっしゃっていました。「先にぶどうを差し上げた方の、その家族への優しさと、この出来事は、神さまからの素敵な贈り物だった」
神さまから与えられるお恵みは、近くにあるもの、近くから与えられるものです。その恵みを神さまから受け取る中で、近くにある恵みに気付かされます。しかし時には、近くにあることに、気づけない時があります。そして遠くにあるもの、何か特別なもの、を求めていくこともあるでしょう。しかし神さまは、近くにあるものを与え、近くにあるものを通して、神さまの恵みが、近くに、そばにあることに気付かせてくださいます。そしてそれを受け取れた時、イエスさまが、いつもそばに導いていて下さっていたこと、同時に、自分がそれまで思い描いていたことが、その通りにはならなくても、返ってそれで良かったんだということにも、気づかせて下さいます。その時、用いられて行くのが、人です。
祈りましょう。
