2026年6月14日礼拝 説教要旨

真実が触れるとき(マルコ5:1~20)

松田聖一牧師

 

「すがれ追い」という、地蜂(黒スズメバチ)の巣を見つける方法がありますね。それは、地蜂が食べる餌を用意して、その餌に目印をつけておいて、その餌をハチがくわえて、巣の方に向かって飛んでいく時、その蜂を追いかけて、土の中にあるハチの巣を見つける方法です。そのすがれ追いの様子が映像でも紹介されていましたが、そこでは、目印を付けた餌をくわえた地蜂が、巣に向かって飛んでいくな否や、30人くらいの人たちが、一斉にそのハチを見失わないように、ものすごいスピードで、道なき道を一生懸命に走っていきます。でもその時その人たちは、ハチしか見ていません。なので、地面の凸凹に気づかずに、つまずいて、こけてけがをすることもあるようですが、とにかくハチの巣を見つけようと、ハチを追いかけていきます。そして木の根元など、ハチの巣があるところを見つけた時、「あったあった!」と喜びながら、一人のおじいさんがトランシーバーで、「ゲットしました!」と伝えていました。そしてハチの巣の入り口から煙でいぶして、ハチを追い出して、土の中から、ハチの巣を取り出していきます。

 

それを見た時、こんな方法があるんだ~と思いましたのと、ハチの子を食べるんだ~というのもまたびっくりでした。未だにハチの子は、手を付けたことがありませんが、そんな、すがれ追いは、地蜂にとっては、巣から追い出される格好ですから、ハチの立場に立てば、こんな迷惑なことはありません。でもハチを追い出すことで、ハチの巣を手に入れることができ、ハチの子も手に入れることができますが、このすがれ追いから、言えることは、追い出すことで、確かにハチは追い出されますが、同時に追い出されることで、ハチの子という食べ物、タンパク源を手に入れることができるということです。

 

それは、イエスさまと弟子たち一行が、「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」時にも、同じことが起きているんです。というのは、「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」にある「向こう岸」の「向こう」という言葉の動詞の意味には、「除く」とか「追い払う」という意味があるからです。つまり、イエスさまと弟子たち一行は、それまでいたところから、湖の対岸、向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いたというのは、ただ向こう岸に移動しようとして、向こう岸に行ったということよりも、イエスさまが向こう岸に向かって、追い払われたことによって、イエスさまは向こう岸に着いたということなんです。その結果、ただ追い払われたで終わりではなくて、追い払われたことによって、得られるもの、与えられる出会いにも繋がっていくんです。

 

その出会いが、「ゲラサ人の地方」での、「汚れた霊に取りつかれた人」なんです。ではこの人は、どんな人で、どんな毎日を過ごしていたのかというと、「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことができなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とありますが、この内容を順に見ると、「墓場を住まい」としていたこと、「鎖を用いて」つなぎとめていたということ、足枷、鎖で縛っていたことからも、誰も制御できないほど暴れていたということ、さらには昼も夜も叫んでいたということは、昼夜関係なく奇声を発しながら、ということですから、この人自身が、自分で自分を制御できない状態であったということですし、それは、周りの人々にとっても、恐ろしいと感じることだったと思います。しかも、自分で自分を石で打ち叩いていたということですから、自分で自分を傷つけ、痛めつけて、血だらけにもなっていたのではないでしょうか?

 

では、こういったことを、この人は喜んでしていたのか?というと、そうではなくて、彼は、自分を傷つけながら、自分が打ちのめされ、疲れ果ててもいるんです。それが「砕いてしまい」という言葉に、現れているんです。それは当然のことです。鎖を引きちぎることも、足枷を砕くことも、昼夜問わず叫ぶことも、石で自分を打ち叩き、傷つけることも、大変なエネルギーがいります。その結果、体力を消耗し、また使い果たしてしまっていたことでしょう。

 

それは泣き叫びながら、泣き疲れてしまうことにも繋がっていきます。

 

ある農家の方がおられました。農繁期になると、本当に忙しくて、早朝から夜暗くなるまで、田んぼや畑での作業が続きました。丁度そのころ、まだ小さなお子さんがいらっしゃったのですが、農繁期になると、なかなか子どもさんのことに手が回りませんでした。ある日のこと、農作業を終えて帰って来た時、もう外は真っ暗でした。玄関から、中に入ると、玄関のマットの上で、子どもさんが寝ていました。すやすやと寝ているのかと思いましたら、よく見ると、泣きじゃくって、泣いて泣いて、泣いて力尽きて寝てしまっていたのでした。その時、「本当にすまないことをした!この子は私が家にいないので、寂しくて、お母さん、お母さんと叫びながら、泣いて泣いて、捜しまわっていたのかもしれない。でも見つからないので、ますます泣き叫んで、そのまま寝てしまったんだ~本当に申し訳ないことをした!」と、何十年経っても、何度も何度もおっしゃっておられました。

 

喜んで泣き叫んでいるわけではないんです。自分を受け入れてくれる人を、捜して求めているのに、それが見つからないから、泣き叫んでいるんです。それは、自分を自分で傷つけているこの人も、そうです。捜しているんです。でも見つからないから、自分でもどうしていいか分からないほどに、自分で自分を追い込んで、誰もがどうすることもできないような状態になっているのではないでしょうか?

 

と同時に、その周りにいる人々も、傷ついて行くのではないでしょうか?特に、この人の家族は、どんな思いで過ごしていたでしょうか?何も思わない日はなかったと思います。でもどうすることもできないんです。それは周りの人々も、そうです。何とかならないか?と、何とかなる解決方法や、向き合ってくれる人、相手になってくれる存在を、求めているんです。でも誰も、この人を相手にできなかったし、誰もこの人の相手には、なれなかったんです。しかし、そんな彼が、イエスさまのところには、「走り寄ってひれ伏」すんです。イエスさまに礼拝をささげるんです。

 

それはイエスさまが神さまであるということが分かっていたからということと、イエスさまは神さまだから、自分を受け入れてくれるのではないか?神さまだから、走り寄ってもいいのではないか?とわらをもつかむような思いではなかったでしょうか?同時に、そんな彼を、イエスさまは、自分を受け入れ、向き合おうとしていたからではないでしょうか?

 

それでは、この人は、イエスさまが向き合ってくださっているから、喜んでいるのかというと、全く逆の態度です。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」イエスさまに、かまわないでくれ、です。別の意味では、あなたとわたしはどんな関係か?後生だから、すなわち、一生のお願いだから、「苦しめないでほしい」と、向き合ってくださっているイエスさまに向かって、どんでもない言葉を吐いて、吐き捨てるような言葉で、叫ぶんです。それだけを見ると、この人は、何という失礼なことを言うのか?と思われるかもしれません。確かに、「かまわないでくれ」とか、「苦しめないでほしい」とか、無茶苦茶無礼な言葉です。でもこの人は、イエスさまに向かって、かまわないでくれと言いながらも、あなたとわたしとは何のかかわりがあるのか?と言いながらも、それでもイエスさまを、あなたと呼び、あなたであるイエスさまの前にいる、私と呼んでいるんです。

それは、イエスさまが、あなたと呼ぶことの出来るお方、真実なお方だからです。真実な、神さまだからです。だからこの人も、イエスさまの前で、初めて、わたしになれるんです。その時、いと高き神の子イエス、と、イエスさまを神さまだと認めて、そのことを無茶苦茶無礼なことを言いながらも、ちゃんと告白できているんです。「いと高き神の子イエス」これは信仰告白です。その中で、一生のお願いだから、苦しめないでほしいという、本音、本当の思いを、イエスさまに向かって、叫び出すことができたのも、イエスさまが、この人にとって、あなたと呼べたからです。それは、もうすでに、イエスさまが、この人を、受け入れ、迎えいれ、この人が、あなたと呼ぶことをも、赦してくださっているからではないでしょうか?

 

これが真実が触れた時の姿です。それは私たちにとってもそうです。真実が私たちにも触れた時、私たちの側でも起こる出来事です。その時、イエスさまは、この叫びが、どこから来ているのか?を、この人と区別しながら、イエスさまは、この人に取りついている霊に向かって、この人から出て行けというのですが、この時、この霊に向かってイエスさまは「名は何というのか」とお尋ねになるんです。尋ねたのではなくて、「お尋ねになった」敬語が使われていますよね。敬語をイエスさまが使いながら、「名は何というのか」と尋ねるのは、この汚れた霊に対しても、イエスさまは、その名前を聞こうとしておられるということは、この汚れた霊をも、神さまであるイエスさまは、認めて受け入れておられたということではないでしょうか?

 

ところが、この汚れた霊は、自分の名前を「レギオン。大勢だから」と名前を名乗った後、イエスさまに「自分たちをこの地方から追い出さないようにと」しきりに願うんです。その願いを、そのまま受け入れ、認めると言う形で、イエスさまは、汚れた霊に向き合われるんです。その中で「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」との願いに、イエスさまは許可を出すんです。

 

ここでイエスさまが「お許しになったので」とある言葉は、許可を与え、承諾すると言う意味ですから、罪の赦しの、赦しとは違うゆるしです。しかしイエスさまは、汚れた霊どもの、乗り移らせてくれという願いを許可されるんです。その結果、この人から「出て、豚の中に入った。」ここまでが、汚れた霊の願いです。この願い通りになれば、豚も、汚れた霊どもも、そこにいます。それはイエスさまが許可されたことですが、それで終わらないんです。「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」、汚れた霊が、豚と共におぼれ死んでしまうという、汚れた霊が願ったこと以上のことを、そこからイエスさまはなさっていかれるんです。でも、豚と共に、汚れた霊どもが、おぼれ死んでしまったという、その場所は、湖ですから、霊たちがイエスさまに、「この地方から追い出さないように」と、しきりに願ったことは、その通りになっているんです。しかし同時にイエスさまは、彼らが願った以上のこと、すなわち、豚と共に湖でおぼれ死んでしまったことによって、それまでこの人を苦しめ、傷つけていたこと、暴言を吐いてといったことを、もうこれ以上、その人に対して、出来なくさせて下さったのではないでしょうか?それと同じことが、この出来事の成り行きを見ていた人々が、イエスさまに対して言った「その地方から出て行ってもらいたい」こともそうです。つまり、その地方でイエスさまが汚れた霊どもにされたことを、もうこれ以上してくれるなと、イエスさまに、ここゲラサ地方ですることに、ストップをかけられるんです。それに対してイエスさまは、嫌だと言って、抵抗しないで、人々の願いを、そのまま受け入れ、もうこれ以上は何もせずに、「舟に乗られる」んです。

 

そのストップですが、今度は、イエスさまが、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願ったことに対して、イエスさまは「それを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい』と、一緒に行きたいと言う願いを許さないで、ストップをかけて行かれるのです。それは、この人に意地悪しようとしておられるのではありません。この人の願いに、ストップをかけたことによって、ストップが用いられて、イエスさまについて行くことはできなかったけれども、身内の人に、主がしてくださったことをことごとく知らせなさいに、彼は、自分の身内の人にだけではなく、「自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」ゲラサ人の地方だけではなくて、デカポリス地方、これは12の町という意味ですから、ゲラサから始まって、12の町の人々に、イエスさまがしてくださったこと、真実なお方である、主がしてくださったことを、ことごとく言い広め始めていくんです。

 

それはイエスさまに癒していただいたこの人が、イエスさまの代わりに、イエスさまができなかったこと、をゲラサだけではなく、身内の人々にだけでなく、12の町の人々に、「主がして下さったこと」神さまがしてくださったことを、言い広め始めるという、ことに広がっていくんです。

 

真実が触れるというのは、そういうことに繋がっていくんです。それは私たちにとってもそうです。真実が触れる時、私たちにも、いろんな反応が起こります。嬉しくもなるでしょうし、慰めも与えられるでしょう。それだけではありません。本音、本当の気持ちが出ます。その中で、大いに怒りが出ることもあるでしょう。反発もそうです。琴線に触れるだけではなくて、逆鱗(げきりん)に触れることでもあります。

 

しかしそれでも、イエスさまが、この人に向き合い、汚れた霊どもにも向き合い、そして人々とも向き合い、私たちとも向き合われるのは、イエスさまの真実を押し付けることではありません。むしろ、私たちの側から出る本音、本当を、出させて下さり、それを丸ごと受け止める時もあれば、それにストップをかけ、許さないこと、許可しないことをも、与えておられるんです。それによって、イエスさまが真実なお方であるということに、向きを変え、そこで真実と向き合えるようになっていくんです。そしてその真実に向かって、いろいろなことがありながらも、一歩ずつ歩みを進めて行けるように、イエスさまは、時に、ストップを掛けながらも、思い通りに行かない中からも、一歩ずつ、少しずつ、導いて下さるんです。

 

「もう一度」という星野富弘さんの詩があります。鈴蘭の花 涙のように咲いていた 羽のある鳥になって 遠い所へ飛んでいきたかった けれど もう一度 もう一度 やってみよう あの日のことが なかったみたいに 日々は巡り 私には眩しすぎる 陽が昇る 夜の底から静かに聞こえた 夜明けの歌声折れた枝の桜は咲いて 鈴蘭の花 真珠のように揺れている もう一度 もう一度 やってみよう 翼はないけれど 自由な心と夢がある 今私が立っているここから この一歩のところから 明日へ続く道が始まる

 

思い通りにはできず、願ったことが叶わなかったこともあったでしょう。ストップを掛けられたこともあったでしょう。しかし真実なイエスさまは、思い通りにならなかったことでさえも用いてくださいます。だからこそ、思い通りにならなかった、ストップしてしまった、そのところから、もう一度やってみようという、その思いを与え、勇気を与えて下さいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(6月14日)真実が触れるとき(マルコ5:1~20)