2026年5月24日礼拝 説教要旨

知らないところで(マルコ4:26~34)

松田聖一牧師

 

1950年代に日本に宣教師として来られた一人の方が、70代になって、若い頃、宣教師としてやって来られたことを振り返って、こうおっしゃっていました。「もう・・・無茶苦茶やりましたよ!何でもやりました!」と、嬉しそうにおっしゃっていました。

 

この無茶苦茶という意味は、イエスさまを伝えるために、どんなことでもやりました!ということであり、たとい、周りから反対されても、イエスさまを伝えること、御言葉を聴きたい、教えてほしいと願われた方に、聖書を語り続けた!ということでした。その中には、もちろんうまくいかなかったこと、失敗もありました。1つのエピソードがあります。それは、教会を建てるための土地を買った時のことです。買うということは、当然お金がかかります。そして、その先生を送り出してくれた教会の皆さんが、良いよと言ってくれなければ、買うことはできませんでした。それなのに、この先生は、祈って、ここだ!と思った時に、買いますという契約を、本国に無断でしてしまったこともありました。そのことで、勝手なことをしてはいけないと、叱られたとおっしゃっていましたが、それくらいに、どんなことでもしていかれたのでした。

 

確かに、許可なく土地を買いますと、契約してしまうというのは、無謀と言いますか、無茶苦茶なことです。叱られても当然です。その他にも、宣教師の方々から伺うお話には、無茶苦茶なことが結構多いんです。よくやるなあ!という感じにもなります。しかしそうであっても、イエスさまを伝えたい!無茶苦茶なことでも、批判されても、叱られても、それでも臆することなく、熱い思いをもって、イエスさまを伝えようとするんです。イエスさまを伝えようとする種蒔きとは、そういうものです。たといその種まきが、どんなに無茶苦茶なことであっても、神さまは、そのままにされるのではなくて、その無茶苦茶を整えて、生かして祝福して下さるお方でもあることに気付かされていくんです。

 

それが、「人が土に種を蒔いて」の「蒔いて」という言葉にも現れているんです。というのは、土に「蒔いて」の「蒔いて」には、投げるとか、投げ散らすとか、投げ出すという非常に乱暴な言葉が使われているからです。土に種を投げ出し、投げ散らす…こんな蒔き方は、無茶苦茶だと受け取ってしまう蒔き方です。もっと丁寧に蒔いた方がいいのではないか?とか、蒔くところをきちんと定めて、ここと、ここと、ここに、といった具合に整然と蒔いた方がいいのではないかと思われるかもしれません。しかし、イエスさまは、人が「土に種を蒔いて」いく時、種を、投げ散らし、投げ出して土に蒔くのが人だ、とおっしゃられるのは、人がそもそも持っている無茶苦茶を、イエスさまはもうすでに分かっておられるからではないでしょうか?それはその通りだと思います。どんなにきちんとしているように見える人でも、すべてにきちんとしているか?というと、どこか、抜けています。全部抜けているわけではないけれども、どこか抜けて、無茶苦茶なところがありますね。そこがまたいい味を出しているように思います。

 

その無茶苦茶は、礼拝を守る、礼拝をささげるときにおいても、現れているんです。というのは、神さまを礼拝する場所である神殿で、ラッパ型をした金属の賽銭箱にささげるために、神さまにお金を捧げる場面がありますが、その時、ラッパ型をした賽銭箱に、お金を投げ入れていくんです。この投げ入れるという言葉も、「蒔いて」と同じ言葉が使われていますが、お金を投げ入れることだけを見ると、きっとすごい音がしたと思いますから、何と乱暴な、無茶苦茶な捧げ方をするのか?と感じてしまうかもしれません。しかしそこまでするのは、投げ入れた時に出て来る音が、大きければ大きいほど、激しければ激しいほど、神さまはますます祝福してくださるということを、誰かは分かりませんが、人が、そういう評価を決めてしまっていたんです。そういう意味で、賽銭箱に投げ入れるということも、「人が土に種を蒔いて」も、投げ入れ、投げ散らすように蒔けば蒔くほど、神さまは祝福してくださるという評価の物差しのもとに、お金を投げ入れ、人が土に種を蒔いていくんです。

 

ではその人が決めた評価が、そのまま結果に現れるものなのかというと、投げ出し、投げ入れて蒔いた種が、芽を出し成長し、豊かな実を結ぶという、その結果は、その人の種の蒔き方とは、全く無関係です。つまり、どんなに激しく、無茶苦茶な蒔き方をしていても、その人の、投げ出し、投げ入れるという、ある意味では、その人の頑張りですね。その頑張りがどれだけあるかということと、実を結ぶということとは、別のものなんです。

 

つまり、神さまの祝福は、人が、どれだけ頑張って、どれだけ激しく、一生懸命にしたか?という、私たちの側の行い、頑張りとか、努力に左右されないんです。なぜならば、神さまが祝福するかしないかは、私たちのどんな努力も、どんな、無茶苦茶なそれこそ頑張りであっても、それに左右されるものではなくて、むしろそういうことを遥かに越えたところから、私たちの努力や、無茶苦茶の外から、神さまの祝福は与えられるものだからです。

 

でも、無茶苦茶であっても、投げ入れ、投げ出すという、すごい努力、がんばりは、投げ入れた人、蒔く人にとっては、そういう自分を認めてほしいという思いはあるのではないでしょうか?神さま、私はこれだけ頑張りました!これだけ努力し、無茶苦茶やりました!だから、私を認めてください!という願いはあると思います。それは神さまからの赦しもそうです。私の行いが良ければ、良いことをたくさんすれば、そういう私の行為、行いによって、神さまは赦し、祝福してくださると、受け止めたいところです。

 

しかし、神さまの祝福、赦しも含めて、それらのことはすべて、私たちの行いによるのではなくて、あくまでも神さまが、必要だと判断されて、与えると決めてくださったこと、が、その時、神さまから私たちに与えられるものです。神さまが与えると決めておられないものは、与えられません。与えると決めて下さったからこそ、与えられるものが、神さまのお恵みです。

 

だから、土はひとりでに芽を出させ、実を実らせていくんです。人の手から離れたところで、人の努力や、一生懸命から離れたところで、豊かな実が実るんです。

 

もちろん、一生懸命にすることも、必要ですし、大切です。しかし、神さまの恵みとは、これだけしたから、与えてくださるという、その一生懸命さに見合った結果を、神さまが与えて下さるという、ギブアンドテイクの関係ではなくて、私たちの努力や、行いの凄さを越えて、あるいは私たちにとっては、良い結果を出せなかったとしても、無茶苦茶で終わったとしても、あくまでも、神さまがお恵みによって、神さまが与えて下さる収獲、豊かな実を結ぶという結果があるんです。

 

そこまで神さまは、してくださるんだ!ということに、出会い、ここまでして下さった神さまなんだと分かるようになった時、この神さまのために、何かさせていただきたいと思えるようになっていくのではないでしょうか?そこから、無茶苦茶であっても、努力したり、一生懸命したりするようになっていくのではないでしょうか?それは、ハンドベルも、そうですね。時々あるのは、全く練習ができないままに、本番を迎えるということがありますね。全く練習しないというのは、実は無茶苦茶です。ところが、いろいろなことで練習ができなくても、本番だけは、凄くうまくいくことを、何度も目の当たりにさせていただきました。昨年、丁度キャンドルサービスの直前に、伊那ケーブルの方が来られて、年末のカウントダウンで紹介したいからということで、取材に見えました。それでカメラで撮っていただいたのですが、その時のハンドベルの本番ではなくて、練習は、意欲益々みなぎっていましたね。テレビに映る!私たちのハンドベルが、紹介される!それだけで、音が全然違っていました。そういう機会は、私たちの努力といったことを、越えたところから、与えられたものです。与えて下さったのも、神さまです。そういう出会いを通して、ここまでしてくださった、神さまの恵みに応えていきたくなるんです。そして、私たちが一生懸命にしたことを、遥かに越えて、神さまは、もっと大きなお恵みを与えて下さるお方だと、信じて、期待していく中で、神さまが与えて下さっている恵みに、神さまを信じて、歩むと言う生き方の中に、何度も何度も気づかせていただけるようになっていくのではないでしょうか?

 

だから「どうしてそうなるのか、その人は知らない」その人には分からないんです。しかし、分からないなりに、どんなに投げるという乱暴なやり方であっても、無茶苦茶であっても、人がどれだけのことをしたのか?を越えて、実を結ばせ、豊かな実が出来るんです。収穫の時が来たら、そこで初めて、人は「早速鎌を入れる」与えられた収獲を、受け取るために、「早速」すぐに、鎌を入れるのです。

 

収穫の時が来たら、早速、すぐに、鎌を入れ、収穫するというのは、その通りです。キュウリもそうですね。収穫の時が来ると、次から次へと出来ますから、すぐに収獲しないと、すぐに大きくなります。一日二日そのままにしておくと、お化けキュウリになってしまいますね。時々地面にキュウリがお化けのように大きくなって、横たわっていますが、一日収穫が遅れるだけでも、そうなってしまいますね。その時が、いつなのか、どのような形で与えられるかは、誰にも分かりませんが、しかし、その時が来たら、また今度とか、また後でではなくて、今、今、すぐに、動き出すことです。それがいつもできるかというと、その時が、今なのに、今すぐに動けないこと、今すぐなのに、そのことに気付けないこと、また今度とか、また後でと言ってしまうことも、あるのではないでしょうか?

 

それは、せっかく与えられている時を、逃してしまい、今の、この時を十分に生かすことができなかったと言う意味で、時を生かすに、不完全であったとも言えるのではないでしょうか?

 

ではその不完全を完全に出来るのかというと、やはり不完全なままだと思います。完全に、完璧に、今を、とらえることができないこと、そういうことばかりかもしれません。それはからし種という、本当に小さな種にとっても、同じです。この種も、土に蒔かれた時には、空の鳥が巣を作れるようにはなっていません。だから、鳥が巣を作ると言うことに対しては、この時のからし種は、不完全です。全く間に合っていません。

 

しかし、不完全なままなのかというと、「土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」、種のままであれば、不完全でも、種が土に蒔かれる時、大きく成長し、大きな枝を張ったときには、空の鳥が新しい命を産み、育む巣をそこに作り、そこで新しい命、新しいものが生まれていくからし種の木になっていくんです。最初から何もかもできたわけではなくて、最初は不完全です。しかし神さまは、不完全なままにはされずに、その不完全さが用いられて、不完全であるからこそ、完全なかたちへと成長させてくださる、誰かは分からない、誰かがいるということに、気づけるようにしてくださるのではないでしょうか?

 

では、その誰かは、誰でしょうか?それは、イエスさまです。なぜならば、「どのようなたとえで示そうか」の「示そうか」は、「命を捨てようか」という意味でもあるからです。つまり、イエスさまは、どんなに不完全でも、不完全のままで終わらせるのではなくて、不完全から、完全なものへと、造り変えてくださるために、新しい命を生み出し、育む憩いの場に造りかえるために、命を捨て、命を与えて下さるお方なんです。そのために不完全さを用いてくださるんです。

 

ある教会の青年たちが、路傍伝道をしようということで、道端に立って、一人一人が神さまのこと、自分が神さまに出会い、赦され、救われたことを語っていきました。ところが、いくら一生懸命に語っても、誰も立ち止まってくれません。だんだん気持ちが落ち込んできました。その時、一人の方が言いました。「あっ!お祈りを忘れていた!」路傍伝道を始める前に、みんなでお祈りすることを忘れていたことに気付いたんですね。それで、道端でしたが、皆が集まって、お祈りを始めました。一人一人が祈っていきました。そして祈りが終わって、目を開けてみると、周りに人だかりができているんです。みんなはびっくりして、何が起こったんだ?どうして?と思いましたが、どうやら、道端で祈っていたその姿を通りかかった人は、不思議に思ったようです。一体何をしているんだろう?と立ち止まったところに、また人が集まって来たということでした。そこで青年たちは、イエスさまのこと、神さまのことを、たどたどしい言葉であっても、一生懸命に、語っていきました。お祈りを忘れていたことが、用いられたんだと気づいた時でした。

 

お祈りを忘れること、これもまた不完全です。しかし、その不完全さが用いられていくんです。だから不完全だから、ダメだ、ではないんです。その不完全さを越えて、神さまが働いて下さるんです。

 

「心の健康と聖書」というタイトルで、ある精神科医の目から見た出エジプト記という本があります。この中の一番最後のところで、こんな一文があります。

 

考えてみれば、この世で完全に生き、死ぬことができることになっていたら、逆に将来に対する希望がなくなり、神への信仰も不必要だと思うようになってしまうのではないか。むしろ、不完全なまま生き、そして死んでゆくものであるからこそ、自分の有限性に気付くことができ、謙虚な態度を保持し、神にすべてを委ねて生きる幸いに入ることができるのではないか。

 

私たちも、完全ではありません。出来ないこともたくさんあります。出来ると思っていたことも、実は何もできていないこと、やったつもりでも完全にやり切ったとは、言えないことばかりかもしれません。でも、そんな不完全さを、私たちの知らない所で、私たちにも分からない中で、それでも必要として下さり、それらを用いて下さる神さまがおられます。その神さまを、不完全なままではあっても、信じて、お任せできることを、イエスさまは、示し与えておられます。

 

祈りましょう。

説教要旨(5月24日)知らないところで(マルコ4:26~34)