2024年5月5日礼拝 説教要旨

しかし、勇気を出しなさい(ヨハネ16:25~33)

松田聖一牧師

 

結婚式の最初に、花嫁である新婦が、結婚される新郎のもとに入場します。その時、ウェディングドレスの場合には、新婦はヴェールを下ろします。以前、大阪に迎賓館というところがありますが、そこで頼まれて何度か結婚式をさせていただく機会がありました。その時には、新婦が入場する時には、上げていたヴェールを、主に新婦のお母さんが、降ろしてあげるヴェールダウンをしながら、結婚する新婦のお仕度をし、新婦を抱きしめて、新郎のところに送り出していました。そしてヴェールを下ろしたまま、新婦は新郎のもとに行き、新郎新婦は、結婚の誓約をします。その時、結婚の誓約の言葉はいつも心に響きました。「健やかなる時も、病める時も、他の者が見捨てるような時にも、この人を夫とし、あるいは妻としますか」それぞれ新郎と新婦に、尋ねるとき、2人は真剣に答えていました。神さまの前で、結婚される2人のその姿は、心打たれるひと時でした。そんな誓約の後、今度は新郎が、新婦のヴェールを上げていきます。

 

さて、その新婦のヴェールは、何を意味しているのか?というと、清らかなものの象徴であったということで、邪悪なものから守る物という意味と、お互いを分け隔てる壁という意味もあります。つまり、その花嫁の顔を覆うヴェールは、結婚する2人をヴェールという壁で分け隔てているのです。しかし、結婚の誓約の後に、そのヴェールを新郎が上げる時、2人の間には、壁がなくなります。そして2人は夫婦となりましたということが、式場におられる方々の前で、宣言され、神さまとみんなから祝福されていくのです。

 

そんなヴェールにある意味が、イエスさまの、今日の聖書において語られる「たとえ」の意味に繋がります。というのは、ここでのたとえとは、ヴェールで覆われ、その覆われたヴェールの向こうに神さまの真実が現れているという意味で「たとえを用いて話してきた」とおっしゃっているからです。ですから、この時、イエスさまがたとえをもって神さまの真実を語っても、たとえにヴェールを懸けて、覆っている状態ですから、その向こうにある神さまの真実を見ることも、理解することもできません。そして、神さまの真実と、私たちの間には壁があります。しかも、イエスさまは、神さまの真実を、ヴェールによって、意図的に隠していたという意味も、この「たとえ」にはありますから、神さまの真実と私たちの間に、イエスさまは、「これらのことを、たとえを用いて話してきた」時、イエスさまの方から、壁を作り、真実を隠してきたということでもあるのです。

 

ではなぜイエスさまの方から、壁を作り、神さまの真実を隠してきたのでしょうか?なぜヴェールを意図的にかけたのでしょうか?その具体的な理由は分かりません。しかし、イエスさまは壁を作り、神さまの真実を隠すということがずっと続くということではなくて、そこから、「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」はっきりと神さまについて、あなたがたにストレートに、率直に、大胆に、人をはばからずに、知らせる時が来るとおっしゃられるのです。その時には、私たちにはっきりと神さまの真実が分かるようになるのです。

 

言い換えれば、神さまの真実が分かる時というのは、最初から何もかも分かるということではなくて、分からないという時を通らされるということではないでしょうか?そのために壁を作り、隠して来られた時があるのです。しかしそれで終わりではなくて、はっきりと神さまについて知らせる時が来ることも、そしてそれによって、神さまの真実が分かるようになることも、また「あなたがたが、わたしの名によって願うことになる」こと、すなわち、イエスさまのお名前によって、神さまに祈る時も、すべて神さまの時の中にあるということではないでしょうか?

 

そういうことは弟子たちだけのことではなくて、私たちにも同じことが言えるのではないでしょうか?私たちにとって、神さまが分からずにいた時、祈れなかった時、また神さまとの間に壁があって、神さまの真実が見えなくなり、分からなくなっていた時が、あったし、今も、そしてこれからも、あるのではないでしょうか?しかし、そうであっても、分からないということも含めて、すべて神さまの時の中にあること、神さまの御手の中にすべてがあるということでもあるのです。

 

ある方が、教会に行き始めた頃のことを、こうおっしゃっていました。

 

20年前、教会に行き始めた頃、私はどうしても神が愛であるということが信じられず、先生に尋ねたことがあった。その頃の先生の髪はまだ黒く、つやつやとしており、私は世の中の不条理に怒りを覚えていた若い娘だった。「神さまが愛なら、聖書に書いてあるように本当に人間を愛しておられるなら、なぜ戦争が起こり、無意味に死ぬ人があり、数えきれない世の中の悲惨というものがあるのですか?」わたしは真に答えが知りたいと思って、そんな質問をしたのではなかった。様々な本を読み、自分なりに考え、私はこのことに対する答えはないとついに確信し、同時に深く絶望していた。ただキリスト教では何と答えるのか、そのことが知りたかったのだ。その時の私は先生の家の玄関に立って、挑むように先生を見上げていた。「ごめんください」と、がらがらと戸を開けて、出て来た先生にいきなりこんな質問を浴びせかけた私は、先生の眼にどう映っただろう?先生は、黒い眉毛を緊張の面持ちでまっすぐに伸ばし、何ごとか考えているようだった。

その時間は意外にも長く続いた。私は拍子抜けする思いだった。こんな質問にはお決まりの常套語が、きちんと用意されていると思っていたからだ。「それは・・・」ついに先生は顔を上げた。「わしにも分からん」衝撃的な言葉だった。じゃあ、この人は分からないことに半生をささげ、牧師にまでなったと言うのだろうか?私にとって真の意味での求道は、この時から始まったのだ。

 

神さまの真実、神さまの愛というものが、分からないということは、ないのではなくて、あるのです。イエスさまはそのことを弟子たちにも、私たちにもはっきりと語りながら、同時に、分かる時を与えて下さると、その時が来ると約束しておられるのです。ではその時、何もかも分かるようになるのかというと、それでも分からないことが続くのです。分からない、どうしてなのかとぶつけても、答えが返ってこないこともしばしばあるのです。いや、その方が多いのかもしれません。

 

しかしそうであっても、イエスさまは、私たちにとって、分からない時にも、壁ができているようであっても、それでも、分からないなりに、神さまに祈ることができること、神さまに何でも打ち明けて、お話できること、それも時には、思いのたけをぶつけていっても、それでも、分からないでいる私たちを、しっかりと受け止めてくださる神さまであることを、分かるようにしてくださるのです。

 

それが「父ご自身が、あなたがたを愛しておられる」、神さまがあなたがたを愛して、大切にしておられるということではないでしょうか?それは、私たちの祈った祈りを、そのまま実現してくださるという意味ではなくて、祈っても、祈っても、分からないでいる、私たちであっても、神さまの真実が分からずにいても、それでも分からないでいる私たちを信じ続けて、共に歩んでくださっているということなのです。

 

だからこそイエスさまは、弟子たちがまだイエスさまのことが分からなくても「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」と、弟子たちが、はっきり信じたとは言っていなくても、あなたがたは「信じたから」だと、イエスさまへの信頼があると、イエスさまの方から認め、宣言してくださっているのです。

 

だから父のもとに行くとおっしゃられるのですが、それに対して、弟子たちは、「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

 

と答えていますが、その中に「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」という答えの内容は、イエスさまがおっしゃったことを、受けた答えなのかというと、そもそも、イエスさまは、「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のない」と、弟子たちが答えるようなことは、何もおっしゃっていません。私は何でも知っているとか、誰も尋ねる必要はないということを、おっしゃって、それに応答して、その通りだという意味で答えているのなら、分かります。しかし、そういうことは一切おっしゃっていないのです。それなのに、弟子たちは、そう答えていくというのは、イエスさまが何でもご存じで、誰もお尋ねする必要のないという判断を、彼ら自身がしている、ということではないでしょうか?そしてその根っこにあるのは、弟子たちは、まだイエスさまのことが良く分かっていなかったので、彼らなりに、分かるように、自分たちが納得できるような理屈を、自分の中で作り出しているということではないでしょうか?それは裏返せば、彼らは、分からないことで、不安だからではないでしょうか?

 

少年の頃、近くにあった小さな里山を走り回っていました。毎日のように出かけておりましたので、切り傷など、いつもどこかけがをしていたように思います。春になれば、ワラビ、ぜんまい、フキなど山菜を取りに出かけたことでした。夏は夏で、朝早く起きて、木の根元に隠れているカブトムシなどを捜すこともしばしばでした。そんな夏のある昼下がりのことです。草むらの小道に入っていきますと、こんな立札が目に留まりました。「まむしにちうい」まむしに注意ではなくて、まむしにちうい、と書いてありました。どなたが書いたのは分かりませんが、それを見た時、ここに蛇のまむしがいるということを思いました。その瞬間、それまでは何にも感じていなかったのが、急にマムシが、今目の前に出てきたらどうしよう?噛まれたらどうしよう?と思い始めるんです。そうすると、カサカサ、と音が聞こえてくるんです。マムシか?と思いきや、木の枝が風で揺れているだけでしたが、だんだん不安になって、その場から急いで離れたことでした。

結局は何ごともなかったのですが、いつどこでマムシに出くわすか、分からないというのは、不安になりました。こわいと思いました。そういうことが私たちにもあると思います。分からないことで、不安になってしまうんです。不安のあまり、何でもないことなのに、カサカサと音がしたら、マムシじゃないのに、マムシか?と思いこんでしまうんです。不安になると、そういうことになるんです。そして何も起きていないのに、何もないのに、何もないところに、自分で余計なものを付け加えてしまうんです。言い訳もそれと似ているのかもしれません。

 

そういう分からないところから来る不安は、弟子たちにもあるのです。では、イエスさまは、すかさず大丈夫だとおっしゃられたのかというと、さらに「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とおっしゃいますが、これもまた弟子たちを不安にさせることではないでしょうか?自分たちが、散らされていく、散り散りになる、12人一緒が、そうではなくなるということが、もうすでに来ていると言われたら、余計に不安になってしまうのではないでしょうか?

 

しかしそれをイエスさまが、はっきりとおっしゃられるのは、彼らが信じていますと言いながらも、そうなった時には、たった今言ったことが、どこかに飛んで行ってしまうということがあるからです。不安が彼らを支配してしまうのです。だから、何もない時には、イエスさまがいつも一緒にいてくださるから大丈夫だと、ハイ信じていますと答えていても、不安の中に、そして、苦難に出くわした時には、勇気を出せと言われていたことも、どこかに行ってしまうのです。その結果、弟子たちは、イエスさまのおっしゃられる「わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とおっしゃられた通りに、イエスさまから逃げてしまい、イエスさまを十字架の上で、ひとりきりにさせてしまうのです。それは弟子たちからだけではありません。父なる神からもそうです。十字架の上で、神さまからも見捨てられ、ひとりきりになってしまうのです。

 

しかし、イエスさまは、ご自分が苦難の中で、ひとりきりになることでさえも、神さまから受け取っていかれるのです。そして受け取っていかれたからこそ、弟子たちが逃げ去り、見捨てられたところで、見捨てられ、ひとりきりになることこそが、神さまの真実そのものであることを、知らせるのです。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と、言っていることが矛盾しています。しかしその意味は、十字架において現わされた神さまの愛、神さまの赦し、神さまの真実は、見捨てられ、ひとりになることでさえも、用いられて、見捨てられても、見捨てない神さまが共にいてくださることへと、造り変えてくださるのです。それが、十字架の苦しみと死を、イエスさまの方から打ち破って、復活の喜び、死から命へと新しく造り変えていくということなのです。

 

イースター復活祭の時、イースターエッグを頂きました。このイースターエッグの意味は、生命の始まりや復活の象徴となっています。鳥が誕生する時、それまでいたたまごの殻を、破っていきます。そして、この世に誕生していきます。そのように、イエスはひとりきりで十字架の苦難と死という殻を破って復活されました。そして、そこに神さまが共にいてくださったのです。

 

私たちにとって、苦難の時、その苦しみの中で、孤独になることがあります。ひとりきりになってしまうのです。そしてその苦しみから、ひとりきりから抜け出せずに、自分の殻に閉じこもってしまうこともあります。不安で何もできなくなり、自分の思い込みでますます不安になることもあるでしょう。しかしイエスさまは、あなたがたには世で苦難がある、ない、ではなくて、あるとおっしゃられるのは、苦難の中で、先のこと、将来のことが分からなくなること、イエスさまが神さまであることが分からなくなることが、ないのではなくて、あるんだということ、ひとりきりになることがないのではなく、あると、はっきりおっしゃられるのです。イエスさまは、あるものはある、あることをないとは言わず、あるものはあると、ごまかさないのです。しかし、その苦難の中で、苦難をない状態にされるのではなくて、苦難の中から、苦難を通して、その殻を破ってくださり、閉じこもって、身動きが取れないでいたところから、出て、生きる命を私たちに与えておられます。だからこそ、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っていると、イエスさまは、苦難というものから目をそらさずに、ごまかさずに、それと向き合い、それを破り、乗り越えて下さっています。

 

そしてイエスさまは、私たちに、乗り越えられる道があることを、はっきりと知らせ、その道を与えてくださっています。

説教要旨(5月5日)