2024年3月10日礼拝 説教要旨

与えられた時を(ヨハネ12:1~8)

松田聖一牧師

 

第二次大戦中のことです。ノルウェーはナチスドイツに占領されました。その時、ナチスは、教会をも支配しようとして、それぞれの日曜日の礼拝を中止させて、同じ教会で、ナチスの党の礼拝を行おうとしました。その時、トロンハイムという町の教会のリーダーは、午前の礼拝ではなくて、午後に延期をするんです。そして午後から始まった日曜礼拝に、これまでになく多くの人々が教会に集まり、礼拝をささげていた時、警察が介入して礼拝に出ておられた方々に、ゴム棒をふるって会堂の外に追い出しました。しかし、人々はそれに対して、反撃するといった行動をとりませんでした。ただ追い出され、閉ざされた礼拝堂の扉の前で、1つの讃美歌を歌いました。それは「神はわがやぐら」「神はわがやぐら、わが強き盾。苦しめる時の、近き助けぞ。おのが力、おのが智恵を、たのみとせず、陰府の長も、などおそるべき」この讃美歌を、閉ざされた会堂の前で、教会の外で賛美し、その讃美をもって、抗議の意を表したのでした。そのことを指導したとして、その時リーダーたちは職を追われていきます。そのことがきっかけとなり、ノルウェーの牧師たちは全員、それまで国家公務員であったのを、辞職し、国家から給与などが支給されていましたが、それをやめるのです。その結果、教会に集っておられる方々が、それに代わって支えていかれたのでした。ところが、そういうことをしたことで、また多くのリーダーたちが、投獄されていきました。しかしそれは覚悟の上でした。彼らは、ナチスに従うのではなく、神さまに従うことだということを、貫いていかれたのでした。それはご本人はもとより、ご家族にとっても、また教会にとっても大変なことだったと思います。しかし、このような困難な中で、教会の礼拝に来られる方々が、これまでになく多く集われ、迫害されればされるほど、かえって強められていったのです。それはノルウェーだけのことではなくて、日本に於いてもそうですし、遡ればキリシタン時代にもそれがありました。しかし、それでも、神さまに従い続けた方々がいたのです。それは神さまに従うということが、どういうことかを、身をもって現し示された姿でもありました。

 

その姿は、逆の見方をすれば、神さまに本気で従おうとすればするほど、それを阻もうとする力によって、脅かされ、時には捕らえられるという出来事も起こり得るということです。そこには、神さま以外のものを神さまとしようとする欲望があり、その欲望は、神さまに従おうとすることを、何とかしてやめさせようという方向に向かっていくのです。

 

その欲望は、イエスさまがべタニアに行かれた時にも、渦巻いていました。しかしイエスさまは、その欲望が、どれほどあっても、その只中で、まことの神さまとして、神さまに従い続けるのです。そして、捕らえられ、十字架の上で死なれることになっても、その姿を通して、すべての人々の、神さま以外のものを神さまとしたいとする欲望と、神さまに従おうとすることから引き離そうとすることも含めた、人間の罪を、身代わりに全部背負い、引き受けて下さり、神さまの赦しを与えていかれるのです。それが起こり、始まる日が、過越し祭であり、その「6日前に」と、わざわざ6日前ということが、ここにあるということは、あと6日経ったら、イエスさまは、捕らえられ、殺されてしまうということです。あと6日しか、この世にはいない、一緒にいることができないということです。しかし、イエスさまは、あと6日しかない中で、神さまとしての働きを、精一杯されているということではないでしょうか?

 

そしてその過越し祭を、イエスさまは、ご自分と重ねておられたのではないでしょうか?というのは、この過越し祭で、屠られ、ささげられる小羊と、その血が家の門に塗られていくこと、その時食べる種なしパンが、全部、イエスさまが十字架にかけられ、十字架の上で流された血と、イエスさまの体が十字架の上で、神さまにささげられたことを顕しているからです。そしてそれは、私の罪を神さまが過ぎ越され、私を赦して下さるためであったことを、そのまま受け取ることを通して、あなたの罪は赦され、救われますという神さまの約束が、実現されることでもあるのです。そしてイエスさまは、そのままいらっしゃらなくなったのではなくて、三日目に甦られ、今も生きて働かれる神さまであることが、すべての人々に明らかにされていくのも、この過越し祭から始まっていくのです。

 

そういう中で、「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」その夕食は、そこにいる人々にとって、またマルタや、ラザロ、そしてマリアにとって、イエスさまとの、ある意味で最後の夕食でもあったし、マルタ、ラザロ、マリアと、そこにいた人々と、イエスさまとの十字架にかけられる前の、最後の晩餐であるとも言えると思います。その時、マリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」と、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を、1リトラ、すなわち、328グラムの香油を持ってきて、イエスさまの足もとに塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったのです。この行為は、ただ単にマリアが、非常に高価な香油をイエスさまにささげて、その足に塗って、マリアの髪の毛でそれをぬぐったという、イエスさまへの愛情表現だけではありません。なぜならば、この香油が、「純粋で」あるという意味には、信頼に足る純正な、本物という意味と、イエスさまへの信仰、信頼を呼び起こすものと言う意味と、そこからピスタチオというナッツに繋がっていくからです。ピスタチオは、食べたり、ケーキなどに混ぜ込んだりするために使われますね。また痛み止めの薬、鎮痛剤の成分ともなっています。そのピスタチオに繋がる非常に高価な香油をイエスさまの足に塗ったという意味は、イエスさまがすべての人々、全世界の王であることをもあらわし、さらには、「家は香油の香りでいっぱいになった」マルタも、ラザロも、マリアもいたその家が、純粋で非常に高価な香油の香りで、一杯になったこの時、神さまが、この家にいる者の罪を、赦してくださるなだめの香りにも繋がっていくのです。

 

つまり、マリアがイエスさまに対してした、この行為の全てを通して、神さまの赦しが与えられるということに繋がっていくのです。そしてその赦しを、信頼と信仰を持って受け取るという姿が、マリアの、イエスさまの足に香油を塗り、髪の毛でぬぐうという行為に現れているのです。しかしこの時、マリアは、イエスさまに対してした行為1つ1つが、イエスさまが王であり、十字架の上で、この香油が鎮痛剤として使われるものになるとか、神さまの赦しに繋がるものであるといったことを、意識していたわけではありません。ただ真心から、イエスさまに、この香油をささげたい、イエスさまのために用いてほしいという思いから、ささげているのです。

 

このマリアの、真心からささげていくことは、私たちにも大切なことを教えてくれます。神さまにささげるというのは、私たちの持てるもの、私たち自身を神さまのために、用いていくことです。それは人から見れば、大きい、小さいという評価はあるかもしれません。しかし、神さまのために、真心から、持てるものをささげていくとき、それらはすべて、神さまの赦しに繋がっていくのです。その赦しを実現するために、イエスさまが、十字架の上で、苦しまれ、死なれる時に必要なものとなって、イエスさまに、用いられていくのです。それは、十字架の死と復活という、神さまの赦しの実現のために、私たちの持てるものが、用いられていくとも言えるのです。

 

その時、(4)弟子の1人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

 

マリアが喜んでささげた、その一方で、イエスさまを裏切る、別の意味では、イエスさまの弟子から出て、離れた、ユダが、マリアのささげた香油を、300デナリオンで売って、貧しい人々になぜ施さなかったのかと、イエスさまに言うのですが、まずは、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と、言っていることは、大変立派な内容です。売ったら300デナリオンになること、そしてそれを貧しい人々にそのお金で施したらいいということも、良きアドバイスです。ただですね。そもそもこの香油は、ユダのものではありません。マリアのものです。マリアは、その持てるものを喜んでささげました。どれだけの価値があるということも、彼女は分かっていたと思います。そんな価値がどれだけあるかということ以上に、彼女は、イエスさまに真心からささげたかったし、感謝したかったのです。だからそのことに対して、ユダであろうが、誰であろうが、あれこれ言える立場ではないのです。

 

それなのに、ユダは、人のささげたものについて、300デナリオンでなぜ売らないのか?とか、貧しい人々になぜ施さなかったのか?と言うのは、ユダも自分から何かしようとしているのかというと、自分からは何もしようとしていないのです。人のふんどしで相撲を取るようなことしか言っていないのです。それにしても、どうしてユダは自分からは何もしようとしなかったのでしょうか?その理由はこうです。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」

 

その通り、彼はイエスさまと弟子たちの働きのために、ささげてくださった人々からのお金を、彼は預かり、管理していたのですが、その預かったお金の中身をごまかしていたからです。ごまかしていたということは、入って来るお金と、出て行くお金が合わないというだけではなくて、出て行くお金を、入って来るお金とどこかで帳尻を合わせて、それを裏金にしていたか?あるいは、自分のためにそのお金を使っていたのでしょう。

 

そういうことをしていましたが、最初からそうであったわけではありません。そもそも、人のお金を預かることは、責任感がないとできない働き、役割だったと思います。お金を預けてくれるということ、管理を任せてくれるということは、その人が信頼されなければ、任せてはもらえませんし、その信頼に足る能力がないとできないことです。そういう意味で、ユダは大切な役割を果たしていました。お金の切り盛り、必要なお金を、必要な時に、どのように使って行くか?どういう時に、どういう形で出していくかという、出し入れを切り盛りしながら、イエスさまと弟子たちの働きを、支えていくのです。そういう意味でお金の管理というのは、ユダだけではなくて、私たちにとっても、身近で大切なことです。

 

こちらに来てすぐに、大町教会の先生から電話が入りました。それは「南信分区の教師部をやってくれないか?」というものでした。その理由は、分区の先生方の名前を知ることができるのと、初めて来られた先生には、分区の教師部をやってもらうことになっているから・・・というものでした。来年後からはそれは別の方に担われていきますが、そのことを、先日そのままお話したら、どうもこれまではそうではなかったようです。きっと担ってほしいと思われた時に、どう頼むかという理由を、初めて来られた先生には、やってもらうことになっているから・・ということで、話しをくださったと思いますが、そんないきさつについては、私には分からないので、はいはいとお受けしましたら、分区の教師部のお金と出納帳を預かりまして、それから毎年会計報告を出すことになりました。そうこうするうちに、今度は、教区の教師部もやってほしいということになりましたので、はいはいとお受けしましたら、最初の集まりの時に、会計をやってほしいということで、これもまたはいはいとお受けししましたら、今度は、金額が教区ですので、大きいわけです。それでも今年度、帳簿をつけて、会計報告を出して、予算をたててということをさせていただくことになり、お金の流れと、いつどこで、どのように使われているかということが、少しずつ分かるようになりました。ただそういう帳簿をつけている時に、手元のお金は合っているはずなのに、帳簿が合わないということがあると、どこでどう書き間違えたのかを、探すこともありました。それは、手間のかかることでしたが、ちゃんと収支があったときには思わず「あった!」とほっとするわけです。そういう帳簿をつけるというのは、単に出し入れをすればいいというだけではなくて、その時、その時に、どう使ったらいいか?今年はこれで足りるかどうか?ということも、考えながら、計算していかないといけないですね。そういう意味で大変勉強になったと思います。

 

ユダはそういう管理をしていたのです。ところが、信頼されている中で、預かっているお金の、その中身を泥棒していたとしても、「貧しい人々に施さなかったのか」と言っていくのは、ユダの中に、これからも信頼され続けたい、自分を認められたいという思いがあったからではないでしょうか?そのために「貧しい人々のことを心にかけていたからでは」なくても、自分をよく見せようとしていたのではないでしょうか?しかしイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい」彼女のことは、彼女のするままにさせておきなさいとおっしゃられるのです。それは香油を売ったらいくらになるか、ということを、ユダから切り離そうとしておられるのです。またそれは、マリアのことは、ユダには関係ないということだけではなくて、マリアのことは、マリアのこととして、またユダのことは、ユダのこととして、イエスさまは、それぞれを受け取っておられたのではないでしょうか?

 

だから今ユダに必要なことを、イエスさまは「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいる」ユダも含めて、弟子たちと共に、貧しい人々はいるということなのです。それは、ユダ自身に、この貧しい人々のために、できることをやりなさいということではないでしょうか?ごまかしていたことを、イエスさまは分かっていました。でもそれを暴露するのではなくて、ユダに託されたお金を、弟子たちのためだけではなくて、いつもあなたがたと一緒にいる貧しい人々のために、使っていくように、そして、今そのお金を必要としている人々が、一緒にいるじゃないか!と、そこに目を向けさせていかれるのです。だからこそ、今、できることがあること、そのために今、それを使いなさいと、イエスさまは、導いてくださるのです。

 

2020年からのコロナ禍では、学校現場は大変でした。みんなで集まって何かをすることも、一緒に歌うことも、授業すらも一緒にできなくなりました。そんな中ある高校で、卒業生を送る会が計画されました。でもみんなで一緒に歌えない、何もできないと思っていたその時、話し合いの中から、できることをしようということになり、担当の先生が、ダメもとで歌手の森山直太朗さんの事務所に、是非その時、サプライズで出ていただけないか?と手紙を書かれるのです。その結果、ご本人が学校に来ることは叶いませんでしたが、コロナ禍で普通になったオンラインで、東京のスタジオからライブ配信で、卒業生を送る会に参加され、大きなスクリーン越しで、卒業生に贈る言葉として、「さくら」を歌いました。生徒たちからは大歓声があがり、その歌に聴きいっていました。

 

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を

さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

どんなに苦しい時も 君は笑っているから

挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

霞(かす)みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる

さくら さくら 今、咲き誇る 刹那(せつな)に散りゆく運命と知って

さらば友よ 旅立ちの刻(とき)変わらないその想いを今

今なら言えるだろうか 偽りのない言葉 輝ける君の未来を願う

本当の言葉 移りゆく街はまるで 僕らを急かすように

さくら さくら ただ舞い落ちる

いつか生まれ変わる瞬間(とき))を信じ 泣くな友よ

今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ

さくら さくら いざ舞い上がれ

永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて

さらば友よ またこの場所で会おう さくら舞い散る道の上で

 

コロナ禍で大変だった学校生活などが思い出されたことでしょう。涙を流す生徒さんもいました。そんなたった一度しかない、卒業のこの時、与えられたサプライズが終わった後、生徒たちは、本当に心から喜んで会場を後にしていました。その姿に担当の先生はしみじみとこうおっしゃっていました。「久しぶりに心の底から笑っている子どもたちの顔を見ました。うれしかったですね~本当に幸せそうでした~」声を詰まらせながら、先生も本当にうれしそうでした。

 

こういうことって、お金では得られないものですね。お金では買えないものです。イエスさまは、マリアにも、そして裏切ってしまうユダにも、お金では得られない、お金には代えられない神さまの恵み、神さまの赦しを与えておられるのです。そのために、今、与えられたこの時、持てるものを、イエスさまに信頼しながら、それをささげ、委ねて行くようにと導いておられます。そしてそれらはすべて、まことの神さまとして、神さまの赦しを、命をかけ、命をささげて、与えようとして下さるイエスさまに、必要なものとなっていくのです。

説教要旨(3月10日)