2023年12月31日礼拝 説教要旨

不安を越えて(マタイ2:1~12)

松田聖一牧師

 

クリスマスの思い出を、ある方がこう書き綴っておられました。

 

米国留学中、学生寮で近くの部屋に住んでいた心優しいSさんが私に言いました。「クリスマスイブは教会に行って、その後、近所の人たちと一緒にキャロリングに行くんだけど、来る?」キャロリングに興味があり、クリスマスミサにもあずかりたかった私は「行く!」と即答しました。そして、いよいよクリスマスイブ・・・カトリック教会は鮮やかな色と光、そして人々の情熱と歓喜で満ち溢れていました。クリスマスツリーミサが終わり、いよいよキャロリングに繰り出す時がきました。私たちを町まで運んでくれたのは、長方体に固めた干し草を荷台にいっぱい積み込んだ大きなトラック。みんな、その干し草を椅子代わりにして座っていました。そして、街の家を一軒一軒訪ねて、トラックから降りて家の前でクリスマスキャロルを何曲か声を合わせて歌うのです。聖歌隊になったみたいでウキウキ気分でした。最後に訪ねたのは、その地方の家々とは趣の異なる施設でした。重罪を犯した人だけが入る特別な刑務所だそうで、すべての部屋が独房のようでした。私たちがクリスマスキャロルを歌い始めると、鉄格子の入った窓際に近づく姿が1人また1人と増えてきました。歌い終わる頃には、すべての窓に人の姿がありました。窓に張り付くようにして、私たちのキャロリングを聴いている人が多かったです。いつ外に出られるか分からない人たちに届くように心を込めて歌いました。歌っている途中で、鉄格子の向こうで涙をぬぐっている人が何人もいることに気がつきました。歌の持つ力の大きさ、とりわけクリスマスキャロルの偉大なパワーを感じた瞬間です。雪深い町のとっても寒い夜でしたが、心はホカホカになりました。こんな貴重な経験をさせてくれたSさん、本当にありがとう。

 

イエスさまが私たちのところに来て、生まれてくださったことを伝えていくキャロリングを通して、参加された方も、そして賛美の声を聞かれた方々にも、クリスマスの喜びが与えられていきました。キャロリングの機会がなくなって久しいですが、クリスマスの讃美歌を歌いながら、家々を回るというキャロリングを通して、神さまは、大切なことを教えて下さっています。それは、クリスマスを共にお祝いするというのは、教会に集まってのお祝いだけではなくて、ここから一歩出て、出かけて届けていくものでもあるからです。なぜならば、こちらから、届けなければ、届かないクリスマスの喜びもあるからです。クリスマスの喜びとは正反対の、辛く不安の日々を過ごさなければならないという現実も、そこにはあります。いろいろなことがあると思います。それを乗り越えようとしても、そこから一歩も出られず、どうすることもできないような中にある方もいることでしょう。

 

その一人が、救い主イエスさまが生まれたことを、東方の学者から知らされた時の、ヘロデ王なのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」このことを聞いたヘロデは、「不安を抱いた」とあるこの言葉の意味は、かき乱し、動揺し、狼狽したということですから、王は、ユダヤ人の王として生まれたイエスさま誕生の知らせを聞いた時、不安で、不安で、恐れ、狼狽し、動揺しているのです。そして、その不安は、ヘロデ王だけではなくて「エルサレムの人々も皆、同様であった」とある通り、エルサレムの人々も皆そうです。また王が、集めた民の祭司長たちや、律法学者たちも、エルサレムの人々でもありますから、彼らも不安です。その不安の中で、ヘロデ王から、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただされた時、彼らはこの言葉を王に答えていくのです。

 

「ユダヤの地ベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」この言葉は、旧約聖書のミカ書というところにある、神さまの言葉です。そしてその内容は、ベツレヘムから、イスラエルの民、ユダヤの民の牧者、すなわちユダヤ人の王が生まれるという神さまからの約束ですが、その言葉を、ヘロデに紹介する時、ミカ書には、ユダヤ人の王として誕生する者は、「いと小さき者」と書かれているのに、祭司長たちや律法学者たちは、「決していちばん小さいものではない」と、答えているのです。それは、彼らが単に、読み間違えたとか、勘違いしたということでは、決してありません。神さまの言葉を、「いと小さき者」から「決して一番小さいものではない」と全く反対の意味に変えてしまうことも含めて、彼らにとって、神さまの言葉は、決して、変えてはいけないものだということを、彼ら自身は分かっています。それでもなお「決して一番小さいものではない」すなわち、生まれたユダヤ人の王は、大きいんだと、ヘロデに語っていくのは、ユダヤ人の王、救い主であるイエスさまが、確かにいと小さい者であっても、大きいんだと、大きいお方だということを、彼らが、信じて受け止めているからではないでしょうか?

 

つまりヘロデ、エルサレムの人々、民の祭司長、律法学者の不安は、ユダヤ人の王として生まれたお方は、小さいものではなく、自分たちを越えた大きなお方であると、信じ、受け止めていることから始まっているのです。ただし、イエスさまが大きなお方であるということを、受け止めたその後が、それぞれ違います。ヘロデは、不安を抱いた時、結果的には、ユダヤ人の王として生まれた大きなお方であるイエスさまを抹殺しようとするのです。ではエルサレムの人々はどうかというと、皆同様であったとありますが、それ以上に、どうしたかということは記されていません。不安のままであったのかもしれません。不安を抱えながらも、どうしていいか分からないまま、過ごしていたのかもしれません。しかしその一方で、民の祭司長、律法学者たちは、ヘロデ王に「決していちばん小さいものではない」と答えていけたのは、不安は不安のままだけれども、それでもこのお方は、ユダヤ人の王であり、すべての人を救う救い主、メシアだ!そして、その大きなお方を、そのまま信じて受け止めたことを、そのまま王に伝えているということではないでしょうか?

 

ではそのことを王は、そのまま受け取り、受け入れることができたのかというと、(7)占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現われた時期を確かめた。そして「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、ベツレヘムへ送り出した」と、ユダヤの王として生まれた方が確かにいること、そしてそのお方は、いと小さき者でありながらも、決して小さいものではなく、大きい存在であり、救い主メシアであることを信じて、受け止めているからこそ、「ひそかに」人に知られないように、内密に、学者たちを送り出すのです。

 

それは大きな存在であるユダヤ人の王が生まれたということを、人々が聞けば、既にユダヤ人の王であるヘロデから、離れて、生まれたユダヤ人の王の方について行くのではないか?そちらに人々が付いてしまうと、自身の立場が危うくなると感じたのではないでしょうか?だからこそ、そういう大きなイエスさまがいるということを、誰にも知られないようにして、その居場所を突き止めさせ、エルサレム以外にも住んでいる、ユダヤの人々が知らない間に、亡き者とし、続けてユダヤ人の王として、君臨できるという計算もあったのかもしれません。

 

つまり、ヘロデ王は、イエスさまが、自分にとって代わるユダヤ人の王として生まれたお方であることを、誰よりも一番知って、それを受けいれていたのです。そしてイエスさまのことを、正しく理解していたからこそ、不安を抱くのです。しかしその不安から、ユダヤ人の王として生まれた、その子を詳しく調べて、見つかったら知らせてくれと、ひそかに学者たちを送り出すのは、それほどに、イエスさまが、救い主であり、神さまであること、そしてその大きなお方が、ユダヤ人の王だということを、知り、受け止めていたのが、ほかならぬヘロデであったのです。ヘロデは。ここまで理解できていた人というのは、イエスさまの弟子たちも含めて、聖書の中にあまり見られません。

 

しかし理解できていても、ヘロデにとっては、イエスさまの存在が脅威なのです。自分以外に、ユダヤを治める王がいるということで、人々が、自分のところから離れて、イエスさまの方について行ってしまうのではないか?それにより、ユダヤ人の王として生まれた、その方を中心に、自分に立ち向かい、自分の王としての地位を奪うかもしれないと、直観したのでしょうか?

 

それはヘロデ王だけのことではなくて、私たちにとっても、自分の存在を脅かす者がいたら、不安になります。うろたえます。動揺します。そして、そういう存在を打ち消したいという方向に向かってしまうかもしれません。そういう隠れた弱さ、愚かさを誰もが持っていることを、ヘロデの姿を通して、教えているのではないでしょうか?

 

嫉妬の世界史という文庫本があります。文字通り世界史に登場してくる有名人物の嫉妬を小説風に紹介しているものです。その本の感想に、こんな感想がありました。

 

タイトルの動機で購入。面白くなんども読みました。小説気分です。学問的とは思えませんが、示唆に富む話でした。・・・しかし皆、しょうもないことで人を羨む(うらやむ)んですナ。こわい、こわい。僕には理解できないだけに、さらにこわい。一体、みなさん、どうされているんでしょう・・・向うを張って、勝ち続けて権力をもてば、羨望もいっときは抑えられる?

 

と、?で締めくくられている意味は、どんなに勝ち続けて権力を持ったとしても、そういう嫉妬は、抑えられるものではないからです。そして嫉妬を抑えられるものは、私たちの側でどうにかなるものでもないからです。それは、自分自身が脅かされると感じた時、相手が脅かそうとしているわけではないのに、脅かされると感じる、自分の立場や、領土や、富や、名誉といったものは、永遠にあるものではなくて、いつかは失われ、なくなっていくものです。それなのに、失われていくものに、しがみついて、それが失われないようにしようとして、守ろうとすればするほど、誰かに奪われるのではないか?といった失うことへの不安も、ますます大きくなっていくのではないでしょうか?

 

そんな不安をはるかに越えて、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に止まった」神さまが学者たちに与えて下さった、幼子イエスさまに導く星が、彼らに先立って進んでいきました。彼らはその星を見て、喜びにあふれたのは、星が導いてくれたということだけではなくて、星を与えて下さった神さまが、神さまの救い主イエスさまのところに、私たちを導いて下さったということを、心から喜んでいるのです。そして幼子イエスさまに礼拝をささげ、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたわけですが、学者たちの喜びを、家にいた母親のマリアは、同じように喜んでいたのかというと、喜んでいるという言葉は何もありません。

 

学者たちははるばる東方から、イエスさまに礼拝をささげるためにやって来たのです。そして黄金、乳香といった宝物を、喜んでささげたのです。でも学者たちのその喜びを、マリアも一緒に喜んだとは書いていないのは、マリアの中に、喜べない不安、これから先どうなっていくのか?わからない不安、どこにこれから行くことになるのか?わからない中にあるのです。事実、この後、ヨセフとマリア、そして幼子イエスさまは、ヘロデの手から逃れるために、エジプトに避難しなければならなくなるのです。幼子を連れての逃避行は、想像を遥かに越える厳しい避難だったことでしょう。そういう落ち着かない生活、避難生活がこれから待ち受けているということも併せて、学者たちがささげたささげものの中に、乳香や、没薬もあるということを、母マリアはどんな思いで受け取ったのでしょうか?

 

というのは、乳香は、香料ですが、この乳香は、人が召され、亡くなられた時に、そのご遺体に塗るものです。また没薬は、鎮痛剤、痛みを和らげ抑えるという薬です。それらも含めた宝物を、イエスさまが学者たちから受け取ったということは、イエスさまがこれから亡くなられることと、イエスさまが苦しみを受けるということが、示されているのではないでしょうか?それは、母マリアにとって、イエスさまが、そのご生涯の最後に十字架につけられて亡くなられるということは、この時には分からなくても、イエスさまが亡くなるということと、苦しみを受けるという時に、それぞれ必要な乳香、没薬をイエスさまが受け取っている、そのイエスさまの母となっているのです。つまり、これから先、幼子イエスさまが幸せな生活と働きばかりではなくて、乳香や没薬を必要とする時が来るということを、母マリアは、母親として受け取っているのではないでしょうか?それは母親にとって、イエスさまが苦しむこと、亡くなることというのは、到底受け入れられないことです。親よりも先に子が逝ってしまうということは、順番が違います。しかもマリアの夫ヨセフは、エジプトに逃げる時、そしてナザレに戻る時には一緒ですが、その後は、ヨセフについて書かれていません。おそらくヨセフは早くになくなったということと、そのヨセフの大工としての仕事を、イエスさまが受け継いでいかれますから、母となったマリアは、夫ヨセフを先に見送り、そしてイエスさまも先に見送ることになっていくのです。

 

つまり、せっかくイエスさまが誕生し、学者たちの喜びを受けても、幸せいっぱいの人生ではなくて、夫を先に送るという苦しみと悲しみをも、経験していくことになるのです。そういう意味で、母となったマリアは、子供のことでも、またご主人であるヨセフのことでも、それぞれに起こったいろんなことの中で、振り回され、妻として、母として、自分のことではないのに、自分のこととして、受け取っていかなければならない、悲しみ、不安に襲われながらも、それでも、何度も何度もそれを乗り越えていったのではないでしょうか?そんな母マリアと共に、救い主イエスさまがいてくださるのです。母マリアがイエスさまと共におられたではなくて、マリアと共に、イエスさまがずっといて下さるのです。そして母マリアがどんなに不安になり、悲しみと苦しみの中にあっても、そんなマリアと共に、イエスさまは、共に乗り越えながら、共に歩み続けてくださるのです。

 

数えて見よ主の恵み、という讃美歌があります。この讃美歌によって、沢山の方が励まされてきました。神さまからの恵みを数えていくことを通して、状況は変わらなくても、その中で平安が少しずつでも与えられていきました。

 

望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時、

数えてみよ主の恵み なが心は安きを得ん。

主のたましい十字架を、担い切れず沈む時、

数えて見よ、主の恵み、つぶやくなどいかであらん。

世の楽しみ、富、知識、なが心を誘う時、

数えてみよ主の恵み、あまつくにのさちによわん。

数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つずつ、

数えて見よ主の恵み。

 

神さまがしてくださったことを、数えていく時、あああれもあった、これもあったと気づかされていきます。あの時も、この時も、神さまが助けて下さった~神さまの恵みが、そこにも、ここにもあったということに、気づかされていくことを通して、神さまが一緒にいるじゃないか!私が一緒にいると、不安、苦しみ、悲しみが襲ってきても、イエスさまがいつも共にいてくださることを、不安を越えて、何度も何度も与え続けてくださっています。

説教要旨(12月31日)