2023年12月3日礼拝 説教要旨

赦されないことでさえも(ヨハネ7:25~31)

松田聖一牧師

 

皆さんは、ご自分が好きですか?自分の性格、自分の行動も含めて、そういう自分が大好きでしょうか?いかがでしょう?自分が好きかどうか、この問いは、単純なものではなくて、複雑で、難しい質問です。というのは、自分が嫌いと思ってしまうこと、嫌いなところがある自分を受け入れられないことがあるからです。もちろん全部が嫌いということではありません。けれども、嫌いなことが1つでもあると、1つなのに、全部が嫌いと、自分の中ですり替わってしまうことがあります。それでも、自分が好きになりたい、自分を受け入れてほしいと思って、いろいろな人と付き合おうとしたり、友達になろうとしたりして、何とかしようとするのです。けれども、たとい1つのことであっても、嫌いな自分がいて、そういう自分を受け入れられないと、どんなに周りが親切に、優しくしても、受け入れてくれていても、自分の中では、わたしは誰からも好かれていないのではないか?誰もわたしを受け入れてくれていないのではないか?と思ってしまうことがあるのです。そこにはいろんなことが絡んでいます。不幸な出来事に襲われること、貧しい中で、苦しい生活をしなければならなくなること、といった自分にとって、嫌で、苦しい出来事の只中にあると、どうして自分だけ、こんな苦しい目に、遭わなければならないのか?なぜ自分だけ、貧しいのか、なぜこんな生活なのか?と、自分だけしか見えなくなるのです。その結果、自分の境遇への不満やいらだちを覚えたりすること、恨みも、怒りも出て来るのではないでしょうか?

 

そんないろいろな不満のはけ口を求めて、あるいはそれを晴らすために、人は、時にとんでもない行動に走ってしまうのではないかと思います。

 

その1つが、イエスさまを殺そうと狙うという、ことなのです。それを1人だけしようとしているのではなくて、「人々が」になっているということは、その行動をしようとする人が、集まり、人々になっていくということが起きているのです。でも不思議ですね。自分が誰からも受け入れられていないのではないか?誰からも好かれていないのではないか?という思いになっている人が、集まっていくというのは。集まって、人々になったその人々が、お互いに受け入れ合って、それこそ友人になったわけではないのに、それでも集まって人々になっているのです。それは、同じような境遇を抱えた人同士が、いっときの仲間であるかのように、錯覚してしまうような関係ではないでしょうか?

 

これと似た場面というのは、国際会議などで各国の代表の方が集まる時、記念写真を撮る時と重なります。その時、お互いに手をつなぎますね。普通に手をつなぐ場合もありますが、この頃は、それぞれの手を、自分の両隣の方と、交差するように、こんなふうにつなぎます。写真に写る時には、皆さま、にこにこしています。嬉しそうに映るのですが、それは、お互いに、友達だからということで、手をつなぎ、にこにこしているのかというと、実際は、利害関係、立場によって、一緒になったり、そうでなくなったりします。そういう意味で、人が集まるというのは、お互いに受け入れ合っているから、集まるだけではなくて、同じ境遇、同じ立場、利害関係という点で、集まるというのも、そこにはあるわけです。

 

イエスさまを、殺そうと狙っている人々同士の関係と、その背景もそうです。しかしそういうことであっても、殺そうと狙っているということ自身は、あってはならないことですし、やってはいけません。どんな理由であれ、どんな背景であれ、殺そうと狙うことは、赦されることではありません。どこかで止めなければならないものです。そうでないと、際限なく、どんどん広がり、大きくなってしまうからです。

 

ということは、イエスさまを狙っている人々がいるというのは、イエスさまを狙うだけでは終わらないということも言えるのではないでしょうか?一人で終わりではなくて、大きくなっていくということは、エルサレムに住む人々にとって、次は誰か?次は自分か?ということになり、他人事ではなくなります。そんな中で、狙われているイエスさまを、エルサレムの人々は、「これは」と、言っているのです。これは、という呼び方というのは、見下げたような呼び方です。人を人とも思わないような感じも受けます。しかし、この後すぐにある議員たちの、イエスさまがメシアだということを、本当に認めたのではなかろうかと言う時には、「この人は」になっているのです。そしてイエスさまがどこの出身かを知っている時にも、「これは」ではなくて、「この人が」となっていますが、「これは」、も、「この人は」、も、「この人が」、も、もともとのギリシャ語では、みんな同じ言葉が使われているのです。それを最初は、これは、と訳し、その後は、この人は、この人が、となっているのには、ただそう訳したということではなくて、エルサレムの人々の中には、イエスさまについて、人でありながら、人だけではない、メシア、救い主と受け取っていた人、あるいは、やはりイエスさまは、メシア、救い主ではなく、人であるという判断があるからではないでしょうか?

 

それは不思議なことではないですね。イエスさまが神さまだ、と信じて歩まれている方もあれば、そうではない、人であると受け止めておられる、あるいは、これは、と受け止めている方が、それぞれに、ありますね。

 

ある時に、教会のキャンドルサービスにチェリストの方を迎えて、演奏いただく時がありました。素敵な演奏を下さいました。その方は、お家が天理教の教会をされている方で、時々、天理教のこともいろいろ話してくださいました。「いや~実は天理教も大変なんです~家庭集会がだんだん少なくなってきて~もっと伝道しないと・・・」といろいろおっしゃっておられましたが、それでも教会のクリスマスに来てくださいました。そのクリスマスの数日後に、またお会いした時に、クリスマスキャンドルサービスで感じたことを、こうおっしゃってくださいました。「皆さん~すごいですね。お祈りの最後に、みんなでアーメンで言っていましたね~すごいですね~びっくりしました~」声を合わせて、アーメン、神さまに今祈ったことは真実ですという意味ですが、そのアーメンを一緒に言ったということで、感動しておられました。それは私にとっては、すごく新鮮でした。そういう教会に初めて来られた方の反応というのは、勉強になります。他にも、十字架に足を向けていいですか?教会の本山はどこだ?くつのままで入っていいのか?私が、ここに入っていいのか?その時、扉一枚あるということに対して、教会に初めてという方にとっては、大変な関所みたいなものに感じられるのです。扉があればあるほど、ものすごいプレッシャーだということと、扉に関してもう1つのことは、扉の前に立っていたら、自動で開くと思っておられる方も多いんです。だから教会の玄関の前に、じ~と立っているんです。自動で開くと思っておられる、そして教会から出る時も、扉の前にじっと立っておられる、その時、「自動ではなくて、開ける時は手動ですが、締まるのは自動です~」と申し上げると、ああそうなんだ~という反応が返ってきます。そういう反応は、扉のことだけではなくて、私にとって、本当に新鮮ですし、勉強になります。というのは、教会に来られたことのない方にとっては、教会について、知らないことが多いということですし、ご存じないからこそ、正しく伝えていくという必要を思うからです。それはイエスさまについてもそうです。「これは」と言う人もあれば、「この人」と言う人もあるということは、その内容は違っても、実は同じことなのですね。

 

だからこそ、イエスさまは、人々が、イエスさまの出身を知っているとか、イエスさまと、神さまが約束されているメシア、救い主とは違うと判断して、「どこから来られるか、誰も知らないはずだ」と言っていく人たちに向かって、神殿の境内で、大声で叫んでおっしゃられるのです。

 

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。

わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と大声で、叫ぶのは、人々がイエスさまのことについて、「どこから来られたのか、誰も知らないはずだ」と言っている通り、正しく知らないからです。人々も、自分たちがイエスさまのことを、「誰も知らない」と認めているのです。だから知らないと、イエスさまは、人々のそのままをおっしゃられるのです。同時に、だからこそ、イエスさまは、イエスさまのことを知らないからこそ、その人々にも、知らせようとしておられるのではないでしょうか?

 

それは、人々が、知らないんだから、知らない、知らないと言っているだけでは、正しく知るということにはならないということを、分かっておられるからこそ、です。知らないままであれば、知るということに向かって、前に進んでいきません。知らないままです。だからこそ、イエスさまは、イエスさまを知らないからこそ、知らせようとして、わたしをお遣わしになった神さまは、真実であること、その神さまを私は知っていること、その神さまのもとから、私は来た者であり、神さまがわたしをお遣わしになったのだと、イエスさまは、神さまとの関係をはっきりと、神さまが真実であるということの中で、説き明かしてくださるのです。

 

私たちにとっても、そうです。知らないのであれば、知ったらいいんです。それはこれから導かれる方にとってもそうです。イエスさまが、どんなお方であるか、そのお方を信じるかどうかというのは、神さまの導きの中にありますが、神さまがどんなお方であるか、イエスさまと神さまとの関係はどうかということを、知らないからこそ、知らせる必要があるのではないでしょうか?知らせないことには、何が何だかさっぱり分からないのではないでしょうか?知らないことがいけないのではないのです。分からないことがいけないのではないのです。知らないんだから、分からないんだから、それはこれから知るようになる、ということのために、知らないこと、分からないことが、必要な通過点であるのではないでしょうか?

 

しかし、不思議なことは、人々が知らないと言っている、一連の内容の中には、人々の、「議員たちはこの人がメシアだということを、本当は認めたのではなかろうか」という言葉があるのです。ということは、人々が知らない、それはその通りであっても、彼らが、議員たち、ユダヤの議会の議員たちが、イエスさまを救い主と認めているということを証言していくということが、既に起きているのです。議員だけではありません。(31)しかし、群集の中にはイエスを信じる者が大勢いて、とありますから、知らない、知らない、分からないと言っている人々がいる中でも、イエスさまを信じる大勢の人々がいたという事実もあるのです。

 

そういう人々に向かって、イエスさまが、ご自分を殺そうと狙っている、というとんでもないことを考え、赦されないことをしようとしている人々でさえも、用いて、そして赦されないこと、とんでもなく悪いことでさえも、用いられて、イエスさまが神さまから遣わされた救い主であること、イエスさまが神さまを知っていることが、証しされ、明らかにされていくのです。そのために、イエスさまは、十字架にかかられ、十字架の上で、神さまの赦しを明らかにし、神さまの赦しを与え、本当にこのお方は、真実な救い主であること、本当に救い主であることが、明らかにされていくのです。そのために来られたイエスさまであることを、見方を変えれば、イエスさまは、いつも神さまと一緒におられ、いつもそばにいる神さまのもとから、離れて来られたということでもあるのではないでしょうか?これは、神さまにとって、ご自分の身が引き裂かれるようなことではないでしょうか?いつも一緒であるところから、離れること、しかも人々の殺そうと狙われている通りに、十字架にかけられ、その上で、すべての人の罪、神さまを知らない、イエスさまを知らないという罪を身代わりに全部受けていかれるということですから、神さまにとって、イエスさまをその十字架にかかられるという所へ遣わされるということが、どんなに大きなことであるか?想像もつきません。けれども神さまがイエスさまを、そこに遣わさなければ、人間を救うこと、赦すことができないのです。そのことをイエスさまは知っておられるのです。そのために神さまがわたしを遣わしたことを、イエスさまはそのまま受け取っていかれるのです。ここにクリスマスの意味があるのです。

 

クリスマスは、イエスさまが生まれてくださったことをお祝いしますね。ベツレヘムの飼葉桶の中、馬小屋で生まれてくださったことを、降誕劇などでも演じたりします。降誕劇でのエピソードで、マリヤ、ヨセフ役になれる人は、限られていますね。だからヨセフになりたかったのに、ヨセフになれなかった~羊だった~そういうエピソードもありますが、そんな劇になるような光景だけが、クリスマスではなくて、もっと大切なことは、神さまのもとから、離れ、神さまによって遣わされて、イエスさまが、私たちのところに救い主として来てくださったということなのです。十字架の死に至る迄、神さまの言われる通りに、神さまの時に完全に従って、イエスさまが来てくださった、そのことがクリスマスの意味であり、クリスマスにおいて実現した神さまの真実でもあるのです。

 

その真実を、イエスさまが、人々にも見せ、イエスさまは、救い主だ!ということを与えてくださるのです。そのことを、大声で叫び、知らせておられる中で、もうすでに、イエスさまが、救い主であること、神さまから遣わされたメシアであること、イエスさまが神さまを知っているということ、そして私をも知っていてくださることが、明らかにされていくのではないでしょうか?

 

「いのちの電話は鳴りやまず」というタイトルで、和歌山県の白浜の教会にて、いのちの電話という働きをされていた先生の連載記事の中に、義理のお父さんがイエスさまを信じて、洗礼を受けられた後のことが紹介されていました。それは洗礼を受けられてまもなく、病のために入院されるのですが、その入院生活の中で、お父さんは本当によく祈られたことを、次のように紹介していました。

 

その頃、父はよく祈った。不思議なくらいよく祈った。朝の回診前の2時間、聖書の通読と祈りに没頭する姿を見て、個室の住人達は居住まいを正し、あるいは起き上がった。病室を見舞った牧師も、その堂々たる祈りの態度に圧倒された。意識の混濁が始まっても、最後まで、その祈りは絶えることはなかった。家族のために、牧師と教会のため、友人のため、医師とナースのため、最後の最後まで祈り続けた。死を目前に控えたある朝、突如、大声で父は叫んだ。「天のお父さま、ありがとうございます。お父さん、お母さん、ありがとう。教会の先生、皆さん、ありがとう。病院の先生、看護師さん、ありがとう。日本のみなさん、ありがとう!」これが父の地上での最後の言葉となった。感動のあまり、ナースが言った。「このような極限状況の中で、ありがとうと感謝できる人ってすばらしい。クリスチャンであればこそ言える言葉ですね。おじいちゃんは、本当に幸せな人ですね・・」父は死して、一粒の麦となった。

 

そして聖書の言葉が添えられていました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは1つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエスさまが、私たちのところに来てくださったのは、十字架の上で、死ぬためだけではありません。私たちに、死は死で終わりではない!神さまと共にある命を、豊かに与えるために、イエスさまはその命を、赦されないことの中でさえも、苦しみの中でさえも、受け入れられないようなことの中でさえも、用いて、私たちに、与えて下さっています。クリスマスは、そのためにあります。

説教要旨(12月3日)