2023年9月24日礼拝 説教要旨

気遣いということ(ルカ16:1~13)

松田聖一牧師

 

人に気を遣ってばかりで疲れるという方からの、こんな相談と、それに対する1つの答えが紹介されていました。

 

こんな問いです。職場でもプライベートでも、人に気を遣いすぎてしまいます。そのせいか、後からどっと疲れることが多く、困っています。

 

…それに対してこんな答えでした。

 

なぜ、あなたは人に気を遣いすぎてしまうのでしょうか。あなたのこころの中には「相手が喜んでくれれば、自分に気持ちよく接してくれるだろう」という期待や、逆に「相手の気分を害すと、自分にいやな態度で接してくるかもしれない」という自衛の気持ちが潜んでいるかもしれません。そして、「嫌われたくない」「よい人だと思われたい」「人に合わせなければならない」「依頼や誘いは断ってはいけない」といった思いや考えもあるかもしれませんね。しかし、いずれにしても「自分の気持ちより、相手の気持ちを優先する」ことで、「本当はこうしたい」「こう考えている」という自分の気持ちを無理に抑え込むことになり、その葛藤状態からストレスが生じます。これを機に、日常生活で、誰に対して自分がどんな気の遣い方をしているのか、また、自分が本当はどんな気持ちでどうしたいのかを振り返ってみてはいかがでしょうか。どんな場面でどんな無理をしているのかに気づくはずです。「相手を気にかけること」も大事ですが、本来の自分を失ってしまわないように「自分を気遣うこと」も同じように大切だと思います。相手の気分や行動に、あなたがすべて責任を負う必要はありませんし、あなたの人生や時間は、あなたのためのものです。人に気を遣いすぎるあまりに自分の心身の健康を害してしまったら、もったいないですね。

 

そういう気遣うことは、私たちにもありますね。それは人と人との関係の中で、必要なことでもあります。またそれができるということは素晴らしいことです。けれども、本当はこうしたい!本当の自分の考えはこうだ!という、自分の気持ちまで抑えてしまうような、気づかいをしすぎてしまうと、自分の方が疲れてしまいます。また自分が何だか分からなくなってしまうことも、あるのではないでしょうか?その結果、自分がこうしたいんだ!本当はこうだ!ということが言えなくなってしまうのではないでしょうか?あるいはそう思うことすら、出来なくなってしまうのではないでしょうか?

 

それは、主人の財産を無駄遣いしていると告げ口された、1人の管理人を巡る姿においてもそうです。というのは、告げ口の内容である、無駄遣いとは、主人の財産を、この管理人は、工夫して遣っていない、気を遣っていないという意味で、告げ口しているからです。つまり、告げ口をした人にとっては、この管理人が、主人の財産を気を遣わず使っていると判断しているということなのです。しかし、そう言われていることに、管理人が気づいて、告げ口している人や、主人に気遣うということを、ここでしようとしているのかというと、そういう言葉は全くありません。だから何をもって、気遣わず使っているのか?ということが、具体的ではありません。ですから、この言葉だけでは、管理人が主人の財産を、どう自分の思い通りに使っていたのか、必要以上に使ってしまっていたのか?主人から預かっている財産を、気遣うことをしないで使い込んでいたとか、いろんなことが考えられるだけで特定はできません。

 

そうは言ってもある程度は想像ができます。その理由としては、この無駄遣いと言う言葉の意味を見ると、先週の、放蕩息子の「放蕩」と言う言葉と同じ言葉が、ここでも使われているからです。そういう意味では、告げ口された管理人も、放蕩息子のように、財産を主人に気遣わずに、無駄遣いしてしまったということになるのでしょう。

 

しかしその一方で、この無駄遣いという意味は、神さまの種を風でまき散らすという意味でもありますから、管理人は、確かに無駄に遣い、浪費していたということであっても、同時に、それは神さまの素晴らしい働きとして、風でまき散らすように、神さまの御言葉の種を蒔き、神さまの恵みをまき散らしていたということにも繋がるのです。ということは、この管理人は、主人の財産を、無駄遣いしていると、告げ口する人からは言われていますが、それで終わるのではなくて、神さまの素晴らしい働きのために、主人の財産を使っていたということになるのではないでしょうか?

 

それなのに、どうして無駄遣いしていると、告げ口するのでしょうか?それは、この告げ口の意味には、悪意というものがあるからです。悪意があると、どんなに相手が、良いことをしていても、素晴らしい働きをしていても、悪意という物差しにかかると、どんな良いことも、悪くとってしまうからです。ではその目的は何かというと、告げ口しているその人を、おとしめて、自分の立場を、管理人よりも上にしようとしているからです。

 

それが具体的に、どんな形で現れるかということについて、次のような分析があります。

 

悪意がある人には、常に自分の損得ばかり考えるという特徴があります。たとえば、職場の同僚に悪意のある言動をする人がいるとしましょう。その場合、その人は「同僚を貶めるようなことをして、同僚の評価を下げることができれば、相対的に自分の評価が上がるに違いない」という損得勘定をしているケースが少なくありません。悪意がある人は、意図的に同僚に対する仕事上の報連相を怠るということがありますが、それはそうすることによって同僚の仕事に支障が出るようにし、結果、部署内での自分の立場をよくさせようとしているわけです。自分の損得勘定ばかり考える人は、自分が得をすることで、周囲の人が迷惑をこうむることなど意に介しません。むしろ、人を傷つけたり貶めたりすることを承知の上で、自分の得になるようなことをするのです。

 

つまり、悪意があるということは、悪意をもつということが目的というよりもむしろ、自分の損得ばかりを考えてしまい、結果としては、相手をおとしめることによって、自分の評価を上げるということ、自分にとって得になるということを目的としているのです。

 

そう言う意味で、告げ口をした人は、この管理人を何とかしておとしめようとしているのです。ところが、告げ口をされたこの管理人は、自分が、無駄遣いしているということを認める言葉は一切ありません。主人も会計報告を出せと、管理人に言いますが、管理人が無駄遣いしたとはまだ判断していません。つまり、告げ口した人が無駄遣いしているという、その内容を、主人がそのまま信頼しているのではないのです。

 

ところが「もう管理の仕事を任せておくわけにはいかない」と主人は言いますが、この意味は、告げ口の内容をそのまま信用して、この管理人は無駄遣いをしているので、管理人を首にするということなのかというと、この言葉の意味には、「もう管理の仕事に耐えることができない」と言う意味もあるのです。つまり、主人は、この管理人が、どれほど管理の仕事を一生懸命していたとしても、また一生懸命にすればするほど、悪意をもって告げ口しているその人は、ますます管理人自身の評価を下げようとする、ということを見抜いているのです。だからこのまま、この管理の仕事をここでし続けていっても、彼がどんなに悪意をもっているその人に気遣い、良い関係を持ち続けようとしても、悪意はなくならないということを見抜いているのです。その結果、管理人として、ますます居づらくなってしまうことを、主人は気遣ってもいるのです。だから悪いことをしたから、もう首だということよりも、むしろ、その悪意をもったその人から、この管理人を引き離すために、距離を置くということが必要だという判断で、「もう管理の仕事を任せておくわけにはいかない」管理の仕事に耐えることができない、と言っているのです。

 

こういうことというのは、ない話ではないと思います。悪意に対して、悪意を善意に変えようとする努力をすることはありますが、実際には、悪意を善意に変えるということは、非常に難しいことです。むしろ、悪意に立ち向かうことよりも、その悪意から自分が距離を置くということの方が、もっと大切であり、必要なことではないでしょうか?

 

その結果、管理人は、自分が、もうこの主人のもとで管理の仕事はできないと、判断するのです。そうはいっても、管理の仕事がもうできないということになると、次の仕事を探さないといけません。この人にも生活がありますから、何も仕事がないということになったら、生活ができなくなってしまいます。そこで、この管理人は、「どうしようか」と、これからのことを考え始めていくのです。それがこの言葉です。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」自分には、土を掘る力がないこと、物乞いをするのも恥ずかしい、自分ができないということを認め、恥ずかしいという素直な気持ちも出していますよね。しかしこの時、管理人は、主人が悪意から引き離そうとしているとは思っていません。「主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている」としか受け取れていません。それはそうだと思います。そんな中で、彼自身が、これから先、どう生きていけばいいか?どう生き抜いていけばいいかを、自分自身ができないこと、はずかしいということも含めて、自分の能力をちゃんと見て、そして考え始めて、実行に移すのです。

 

その実行の内容は、ひと言でいえば、無茶苦茶です。借りを、100から50に半分にするとか、100から80にするとか、証文を主人の承諾を得ずに、管理人は勝手に、主人から借りたその人に、書きかえさせていくのです。本来借金をするというのは、主人とその人たちとの関係です。これまで管理人としては、タッチしていなかったことと思います。しかし彼は、これからをどう生きるか、生き抜くためにはどうしたらいいかという切羽詰まった状態になった時に初めて、自分自身で考え、自分自身の能力を見て判断して、そして自分の恥ずかしいという気持ちに素直になって、場当たり的に見えるかもしれない、手段、方法を選ばない必死の行動になっていくのではないでしょうか?その行動が、次々と証文を書き換えさせていくということなのです。それ自体は、管理人としてはやってはいけないことです。でも管理人はこれからを生き抜くために、これからどうやって生きていくかということのために、方法、手段を選ばずに、人とやりとりをし、証文の書き換えを通して、どんどん新しい人との繋がりを作っていくのです。その結果借りが減った人は、この管理人に対して、感謝の思いを抱いたのではないかと思います。

 

こういうやり方というのは、平時ではなくて、管理人にとっての危機的な状態の時ですね。けれども、普段何もない時には、そこまでしませんが、私たちにとっても、自分の人生にとって危機と感じる時、これからどう生きたらいいかという切羽詰まった中では、それこそ、手段、方法を選ばずない、必死の行動になるのではないでしょうか?

 

ある対談番組で、車の会社の社長さん同士の対談がありました。もう退任されましたが、スズキ自動車の会長さんと、トヨタの社長さんとの対談の中で、会社を経営する中で、それぞれの会社が危機に陥った時の話題になりました。その時と内容は違いますが、もう倒産するかもしれない・・・とか、出した車がリコールになったといった危機の時に、出なくてもいい会議にも顔を出し、海外を飛び回り、海外からの批判を一身に受けてもなお、もう社長をやめなければならないという覚悟で、正々堂々と動き回り、前面に立っていくのです。そういうことが続いた2年間を振り返って、「毎日毎日、生き抜くことで精一杯でした~」とおっしゃっていた言葉が印象に残りました。経営のトップとして、会社を守り、育てていくということは、それだけ風当たりもきついと思います。その中で起こった危機の中で、いろんなところに出向いて、そこでいろんな人と出会うということを、繰り返されたということでもあります。それはまた危機の時でなければ出会えなかった出会いと言ってもいいでしょう。

 

そういうことがこの管理人のしたことなのです。そしてこの管理人は、いろんな方に、主人に成り代わって、やってはいけないことであったことでしょうが、それでも繋がりを作っていくのです。それは、主人の管理人としてではなくて、1人の私と、その方々との繋がりに変わっていったとも言えるのではないでしょうか?それは、管理人自身が、それまで主人に仕えるという世界の中でしかいなかったところから、危機の中で、その世界から一歩出ることができたということでもあります。その結果、それまでの人との繋がり、主人の財産を管理するという世界とは違う、新しい世界で、いろんな方々と、管理人としてではなくて、1人の私として出会えていくのです。それはまた彼自身が、そういう方々から、大いに助けていただける出会いへと繋がっていくのではないでしょうか?

 

それが主人からの、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」という評価となっていくのです。確かに、彼のしたことは、不正なことです。主人に気遣うやり方ではありません。そういう意味で、告げ口をした人の言う通りの、気づかいをしない無駄遣いです。でもそれまでの人に気遣うこと、人の顔色をうかがいながらの仕事ではなくて、思い切って、人と出会い、時にはぶつかりながらも、生き抜こうとしていく、その姿を、主人は評価しているのです。

 

そこには主人の赦しがないと、こんな評価はできません。主人に代わって借金を減らすなんていうことは、主人の怒りを買うことです。赦されることではありません。しかし、それでも主人はそれをゆるしてくださっているのです。だからこそ、管理人を評価し、管理人を通して、必死で生き抜くということの中で、友達を作りなさいと言われた通り、友が与えられ、その友に助けられていくのです。

 

さてこの主人は、誰のことを指しているのでしょうか?それは神さまです。神さまは、1人の管理人を、どんな悪意からも逃れさせてくださり、その管理人が、これまでの枠から一歩踏み出せるように、助けて下さり、その助けを、管理人という立場ではなく、1人の私として受け取れるように導いておられるのです。そのことを通して、人に気遣うという生き方から、無駄遣いをしながらも、無駄遣いをしていると言われながらも、それでも神さまに赦され、神さまを頼りに生きて行くという生き方、神さまの福音の種を風にふかれてまき散らすという素晴らしい生き方へと導かれていくのではないでしょうか?

 

8月に行われましたキャンドルコンサートのことを振り返る時、新聞折込を思います。折り込んだチラシの枚数が約4800枚でした。そのチラシをどれだけの方が目にし、手に取られたかは、具体的には分かりません。ただ一般的に、チラシ1000枚配って、それで1人の方が来られたら、二重丸だと言われています。つまり0.1%であっても、それは二重丸となります。でも神さまは、そういう一般的なチラシ効果をはるかに越えることをしてくださいました。ただですね。配ったチラシから来られた方を差し引いた数のチラシは、無駄になったのか?というと、無駄だという評価も出て来ると思います。けれども、無駄だと見えること、無駄だと思えることがあったとしても、何もしなければ、ゼロのままです。無駄になるから、無駄だと思うから、何もしなければ、無駄だという評価は出てきません。しかし、神さまは、神さまの福音を風でまき散らすように、どこでどのようになっていくかは私たちには分からなくても、無駄遣いをしているという評価を、そのままにはされないのです。むしろ、どんなに無駄遣いをしていると言われるようなことであっても、神さまの手の中で、それをほめてくださる、称賛し、賛美し、喜んでくださっているのです。

 

今年の御言葉もそうですね。「あなたがたが出かけて行って実を結」ぶこと、その実が残るように、神さまであるイエスさまが、私たちを任命してくださっています。

 

神さまは、無駄だと思われる事であっても、それを越えて働かれるお方です。そして神さまは、必要な時、必要なところには思い切って使ってほしいのです。それはお金だけではありません。自分に与えられた能力、才能、技術などを、与えて下さっているという意味と目的は、神さまの良きときに、それを管理しながら、十分に生かしていくために、です。

 

私たちに与えられた神さまからのお恵みは、それぞれ置かれた世界に留まるだけではなくて、いろんな方々との繋がりを得ることを通して、無駄なことだと思われることであっても、それを使って、友が与えられていくことです。

 

それはイエスさまが、不正にまみれた富で友達を作りなさいと言われた、その言葉そのものとなっていくのです。

説教要旨(9月24日)