2023年9月17日礼拝 説教要旨

変わらない思い(ルカ15:11~32)

松田聖一牧師

 

先日は神戸に授与式のために参りました。良いひと時をいただき、共に喜びを分かち合えたことをうれしく、感謝しました。祈りに覚えていただき、ありがとうございました。さて、その式の前のことです。神学校に着いて、いろいろな準備をしながら、久しぶりに、いろんな方とお会いすることになりましたが、話題になったのは、今年の夏の暑さでした。今年は本当に暑かった!本当に大変だった!とおっしゃりながら、私もそうだそうだとうなずいていましたが、別の1人の方がひと言「今日は、涼しいね~」それでも30度くらいはあるのですが、今日は涼しい~とおっしゃっているんです。でも、その時私は、余りの湿度に汗をかきかきしながら、内心、涼しいどころか、暑くてたまらないという思いでした。でも周りは涼しい、涼しいとおっしゃっています。そういう中で、無事に終わり、帰路につき、中央線の木曽福島の駅に降り立った時、やっと涼しいと思いましたし、生きた心地がしました。そういう意味で、一度こちらの夏の涼しさを味わいますと、もう長野県以外のところでは夏は越せないという思いです。夏は、伊那にいるのに限るということを心底思った次第ですが、そんな涼しい、暑いと感じるのは、それぞれの普段の立ち位置、普段の生活で味わう気温、湿度が、基準になっているからですね。普段蒸し暑いところにおられる方にとっては、今日は涼しいとなりますし、普段湿度が低いところに住んでいる者にとっては、今日はとんでもなく暑いとなるのではないかと思います。つまり、同じ気温、同じ湿度でも、それぞれの普段の基準、立ち位置、置かれたところによって、暑い、涼しいとなります。不思議ですね。同じなのに、その同じ事柄を、それぞれ違ったところから見ると、違うのです。

 

それは気温といったことだけではありません。今日の聖書の御言葉に出てまいります、弟、兄というそれぞれの立場から、父親の財産、父親の人生そのものと言う意味でもありますが、そういう父親を、弟から見た時、兄から見た時とでは、同じ父親であっても違うのです。

 

その視点で、今日の聖書の御言葉を見る時、弟は、父親の財産、父親の人生を、父親が生きている時に、「分け前をください」となるのです。その一方で、その弟の兄は、そんなこと何も言っていません。

 

けれども、父親は、その二人に対して「財産を2人に分けてやった」のです。でもその財産は、父親の財産です。と同時に、この財産の意味をよく見ると、父親が分けてやったこの財産は、この2人の息子たち、弟、兄の人生のための財産でもあるのです。それを父親は、弟は欲しいと言い、兄は何も言わなかった中で、分配し分けてやったのです。ということは、弟や兄が言う、言わないにかかわらず、この父親は、自分の人生を、弟、兄という2人の息子たちのためにちゃんと2人に分けるために、最初からちゃんと用意しておいたということではないでしょうか?そして、2人のその人生のために、財産を使ってもらいたい、という思いでもあったのではないでしょうか?

 

ところが下の息子は「全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」のです。ここで下の息子、弟は、父親から受け取った父親の財産、父親の人生、そして自分が一生生きるための財産を、残らずお金に交換したということですが、そもそもと言いますか、父親の人生を、お金に換えていいのでしょうか?人生はお金に換えられるものなのでしょうか?

 

そしてこの父親の財産、父親の人生を、弟は使い果たしてしまったのです。それはとんでもないことですね。父親譲りの財産、父親の人生とも言えるものを、使い果たしてしまったということ、しかも放蕩の限りを尽くしてということですから、この言葉も、種を風でまき散らすかのように、浪費してしまったということですから、何という無駄なことをしたのか?と思わずにはおれません。

 

その結果、「食べるにも困り始めた」のは、当然のことです。無駄遣いしてしまったのですから、そうなることは目に見えています。さらには、「その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」となったことも、財産を浪費し、使い果たしてしまったからです。お金がなくなったら、生活ができないというのは、当然です。そうなることは、財産を使い果たしてしまったら、そうなることは分かっていることなのに、彼は使い果たしてしまったのです。

 

その結果、豚の世話をするということに、弟はなったわけですが、放蕩の限りを尽くしたこと、豚の世話をすることになったというこの2つのことについて、別の見方もあるのです。

 

というのは、放蕩の限りを尽くしたという言葉の、もう一つの意味は、先に述べた通り、種を風でまき散らすということです。種をまき散らすということは、種を無駄にまき散らすということではなくて、神さまの福音の種をまき散らすということにも使われている言葉です。つまり神さまのことを伝える時には、無駄なことばかりあるように見えても、実は、決して無駄なことはない、無駄だと思っていたことでさえも、神さまは、それを無駄ではなかったことへと変えて下さるというメッセージが、種を風でまき散らすという、もう1つの意味にはあります。また豚の世話をするという言葉は、イエスさまが復活された後、もう一度弟子たちに出会った時、弟子のペテロに、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃられる場面があります。その中で、羊を飼うの、「飼う」という言葉は、豚の世話をするの、世話をするという言葉と同じ言葉なのです。

 

つまり、弟が父親からの財産を使い果たしてしまったことは、確かにその通りです。無駄遣いしてしまいました。それは無駄なことです。しかし、それだけではなくて、無駄遣いしてしまったことでさえも、神さまであるイエスさまは無駄ではなくて、羊を飼う、すなわち、イエスさまのもとに導かれ、イエスさまに招かれ、呼びかけられた一人一人を、大切にお世話をすること、飼うという大きな恵みの働きに繋がることが、財産を無駄遣いしてしまったというところには、あるんです。

 

つまり、使い果たしてしまったこと、無駄遣いしてしまったことは、とんでもないことです。その結果、弟は、本当に辛い中に置かれたことです。しかし、それで終わりではなくて、どんなに無駄遣い、どんなに無駄だったと思ってしまうことであっても、また、どんなに辛く、悲しい目にあったとしても、それで終わりではなくて、そこから良いものを神さまが生みだし、与え、そしてその良いものへと変えて下さった神さまの素晴らしい働きのために、どんなに無駄なことをしてしまったと思っていたとしても、そこに招いて下さるお方でもあるのです。そういう意味で、どんなに無駄だと感じることでも、決して無駄なことはないということ、無駄なことは何一つないということを、イエスさまはおっしゃっておられるのです。

 

なぜかというと、弟は、豚の世話をするとことになったということも、「その地方に住むある人」どなたか分かりませんが、ある人が、彼を助けてくれたのです。その結果、路頭に迷うのではなく、身を寄せることができるようになりましたし、畑で豚の世話をするという仕事が与えられたのです。確かに、当時の社会の中で、豚の世話をするということは、良くない評価があったことは確かです。しかし豚の立場に立てば、豚にとっては、世話をしてくれる人がいないと困るのです。

 

ある牧場に行った時、馬や牛だけかと思いましたら、豚もそこにいました。見ると、その豚さんは、暑かったのか、くたびれていたのかは分かりませんが、寝転んで寝ているのです。やはり豚だなと思ったのは、本当にぶ~ぶ~と寝音を立てているのです。それでも牧場のどなたかが、ちゃんと世話をしてくれるんです。だから、寝ていてもなんとかなるなんて、いいなあと思いました。そういう仕事がこの弟に与えられたのです。しかしそんな、財産を失い、豚の世話をしながらも、それでもなお食べ物に事欠くという、大変な生活で終わりではなくて、父親のもとに帰ろうと、思えるようになっていったんです。そして父親のもとに弟が帰って来た時、この弟が父親に言う言葉にあるポイントは、もう息子であることを、返上しようとしているのです。私はあなたの息子じゃない!罪を犯した私には、あなたの息子と呼ばれる資格はないということを、この弟は決めているのです。そして息子としての立場ではなくて、雇い人の1人にしてもらおうとしているのです。つまり息子ではない、雇い人の立場に、自分から変わろうとしているのです。

 

でも、父親は、弟の思い、や言葉に対して、全く反対なのです。父親にとって、その息子は、雇い人ではないのです。愛する息子です。だからこそ、弟が出て行った時からずっと待っていて、そして父親は弟の姿を見るなり、抱きしめて接吻をし、宴会を開いていくのです。そして帰って来た弟のために、父親の良い服、父親にとって、一番大切な服を着せること、そして、あなたは私の子どもだということ、愛する者だということをあらわす、指輪を手にはめること、さらには、もうあなたは束縛される人ではなくて、自由な人になりましたというしるしの、履物を足に履かせること、そして宴会で、この家の者だということ、あなたは戻って来たこの家の者だ!と、肥えた子牛を屠ること、食べて祝おうという、それまでの無駄が、無駄で終わらずに、父親のもとに帰って来た時、出て行ってしまう前の生活以上の、もっと素晴らしい生き方が与えられていくのです。

 

それは弟にとっては、素晴らしい恵みであったし、父親から赦されていたんだということに気づける再会であったと思います。ただ、それも、見方を変えれば、とんでもないことをし、財産を全て使い果たしてしまった弟のために、ここまでしなくてもいいのではないか?という評価もあると思います。そう思う方もいます。

 

ある方と聖書を学んでいた時に、この放蕩息子のところになりました。すると、開口一番こうおっしゃいました。弟はずるい!こんなに無茶苦茶にして、帰ってきたら、こんな弟のために、父親が宴会を開くなんて・・・それを伺いながら、確かにそうだと思いました。弟であるご本人と、周りでは違うのです。

 

それが兄の思いでもあります。兄は腹を立てたのです。それは当然と言えば、当然のことです。それは放蕩をしたのに、父親のもとから出て行った弟なのに、何と無駄なことを父親はするのか・・・と映るかもしれません。でも父親は、無駄とは思わないのです。無駄と見えること、無駄だと言われることでさえも、父親にとっては、喜びなのです。

 

そのことを伝え、与えるために、文句を言っていた兄に対して、父親はなだめるのです。でも、なだめるということも、手間暇がかかります。もちろん父親が、弟にしていることは、全部父親が与えたものですから、そういう意味では兄とは関係ないことです。父親は、あんたには関係ないことだ~と言うこともできるでしょう。しかし父親は、文句を言う兄の、その気持ちを静め、受け止めていくのです。これもどんなに大変なことか?と思います。お父さん、大変です。何とも無駄なことをしているように見えるかもしれません。

 

ある子どもが、急に泣き出しました。最初周りにいた大人の方も、なぜ泣いているのか?癇癪を起しているのかが分かりませんでした。それで、泣くのをやめさせようとしました。そうするとますます大きな声で泣きだし、わめいていくのです。すると1人の方が、その子がなぜ泣き出したのか?それが分かったのですね。それは自分が今から使おうとしていたおもちゃを、その子が使おうとしているのに、気づかなかった、別の子が使い出したからだということでした。それをわんわん泣いているその子に、優しく「このおもちゃを使いたかったんだよね~友達もしらなかったんだよね~」と言いますと、「うん」とうなずきました。そしてその友達に、実はね~ということを説明しました。そして、使おうとしていたその子にも、友達も使えるようにするには、どうしたらいいかな?と考えるようにしていくと、泣いている子が、友達に、先に使っていいよ~と言い始めました。やがて、泣き止み、その子も、友達も、順番に使おうね~ということで仲良く遊び始めました。あっという間に涙が、笑いに代わり、悲しみが喜びに変わりました。

 

なだめるということの意味と目的は、そういうことですね。その子の言い分に全部合わせることではなくて、気持ちは気持ちとして受け止めながら、じゃあどうしたらいいか?ということをお互いに、自分で考えるようにと導いていきました。父親が兄にしたことは、そういうことです。でもそれは手間暇かかります。

兄も最初は興奮していたかもしれません。でも父親が宥め、兄に、父親が、その兄と一緒にいるということ、そして「わたしのものは全部お前のものだ」ということも、父親が、自分のものにしないということを伝えていくのです。

 

父親は、何と無駄なことをするのか?父親自身の人生のために、どうして使おうとしないのか?何のために、働いていたのか?と思われるかもしれません。それでも父親にとっては、それでいいのです。父親は、いろんなことを言われ、思われたとしても、弟だけではなくて、兄のためにも、与え続けていくのです。そしてそれは無駄なことのように見えること、無駄だと感じることであっても、父親にとっては、決して無駄なことではなくて、父親の喜びそのものがここにも現れているのです。そこにあるものは何でしょうか?父親の赦しです。その赦しを、弟や、兄に対して、それぞれに答え与えていくのです。同時のその赦しは、神さまから私たちに向かって与えられる、どこまでもある無限の赦しでもあるのです。

 

アメリカでのお話です。1人の娘さんがいました。彼女はある時、両親で大喧嘩をしてしまい、家を飛び出しました。そして旅から旅への毎日が続くうちに、身も心もボロボロになっていきました。生活は荒れ荒んでいきました。もうこれ以上落ちることのないところまで来た時、教会に導かれて、イエス・キリストに出会い、イエスさまを信じて洗礼を受け、救われたのでした。その時初めて、彼女は自分が親に対して、何ということをしてしまったのかということに、気づきました。親不孝をしていました。そして父親と、母親にお詫びの手紙を書いたのでした。

 

「お父さん、お母さん、私は親不孝でした。イエスさまに出会って初めて、自分の罪深さ、愚かさに気づきました。今更お詫びしても遅すぎますが、できれば一目でもあって赦しを請いたい気持ちで一杯です。もし、おゆるしいただけたらお願いがあります。〇月〇日、家に帰りたいと思っています。もし許していただけるのでしたら、列車から見える庭先に、白いハンカチを掲げてもらえないでしょうか?」

 

やがて家に帰る日が来ました。列車に乗りましたが、彼女は落ち着かない様子で、窓の外を何度も何度も見ていました。すると、彼女の前に座っていた人が彼女に尋ねました。

 

「どうしたのですか?さっきから落ち着かない様子ですが、何かあったんですか?」すると彼女は、「実は・・・」とそのわけを話すと、「そうですか~私もハンカチがあるかどうか一緒に見ましょう。」その話を聞いた、他の乗客も、「私にも手伝わせてください」とみんなで窓の外を眺めていました。すると、1人の人が大声で叫びました!「ありますよ!ハンカチが!」見ると、彼女の家の庭先に一本のポールがたてられて、そこに何本ものロープが張られて、上から下まで、何百枚もののハンカチがくくりつけられていました。それはまさに「ゆるしたよ!ゆるしたよ!お前の罪は赦したよ!あなたを赦しました!」と叫んでいるかのように、何百枚ものハンカチは風にたなびいていました。

 

そのハンカチはその後どうなったのでしょうか?こんなにたくさんのハンカチは、無駄じゃないか!それだけを見ればそうかもしれません。しかし、その一枚一枚のハンカチを通して、ゆるしたよ!ゆるしたよ!お前の罪は赦したよ!という神さまは両親のその赦しを通して、たとい、無駄だと見えるような出来事の中に、またその出来事が用いられて、神さまの赦しが与えて下さるのです。それは、弟であろうと、兄であろうと、誰であろうと、立場がどう変わろうとも、変わらず与えてくださるのです。

 

そのことを、神さまは、信じますと告白できる時を待っておられます。そして十字架の上で傷ついた手を差し伸べて、わたしのもとに来なさいと招いておられます。そのことに気づかされた時、自分がいる、その場所で祈ってください。「神さま、わたしの罪をお赦しください。イエスさまが私の罪の身代わりとなって、十字架の上で死んでくださったことを感謝します。そしてそのことを信じます。どうかわたしを罪から救ってください」と。

 

イエスさまは、その時、喜んで迎えてくださいます。そして兄に向けて語られた言葉は、私たちにも語られているのです。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」そしてその弟が帰って来た喜びに、兄も招かれているのです。

説教要旨(9月17日)