2023年7月2日礼拝 説教要旨

つながった絆(ルカ17:11~19)

松田聖一牧師

 

信徒の友という教会の月刊誌があります。その記事の中に、ある教会で、牧師と僧侶と話そうという企画が紹介されていました。来られた方が、それぞれ15分間。牧師、あるいは僧侶に、何でもいいから話すという企画でした。その時、牧師、僧侶は聞き役です。その時に、決め事としてあったのが、それぞれ自分のお寺、教会には誘わないということでした。この決め事はいいことです。きっとそれぞれの牧師先生も、僧侶の方も、自分が遣わされている教会、お寺に誘いたかったかもしれません。けれども、そういうことが一切ないということにしたことで、教会を会場に持たれた時、そこにいろんな方が来られたのでした。そしてそれぞれ思い思いに、ある方は牧師先生に、ある方は僧侶の方に、1対1で、話をし、出会いました。身の上話から、悩み事を話したり、いろいろな話題になったと思います。普段、教会の牧師、あるいはお寺の僧侶の方と、直接お話をするという機会はなかなかない中で、お互いの壁を少し取り除けるような、そんな機会ではなかったでしょうか?

 

そういう意味で、お互いに壁がないというのは、いいですね。そういう壁がない、というのは、実は、毎週礼拝においてなされ、守られ続けている神さまを礼拝できるということそのものでもあります。というのは、神さま、天の父なる神さま!と呼びかけられること、神さまからの言葉、語りかけを通して、神さまがいつもついていてくださること、神さまはいつも私たちのことを気遣ってくださっているということを、そのまま受け取れる礼拝が、与えられ、そこにあづかれているというのは、神さまと私たちの壁がもうなくなっているからできるんです。壁があったら、礼拝にならないのです。ではその壁がどうしてないのか?というと、それはイエスさまがその礼拝の中心にいて、神さまと私たちとの間の壁を取り払ってくださっているからです。イエスさまの十字架の赦しがあるから、もうそこには壁はなくなっているのです。

 

そういう壁がないということが、イエスさまが「サマリアとガリラヤの間を通られた」の、「間」と言う言葉に現わされているのです。つまりイエスさまが、サマリアとガリラヤの間を通られたというのは、物理的、地理的に、サマリアとガリラヤの間、別の意味で真ん中を通られたというのは、サマリアとガリラヤを隔てていた壁、お互いに赦せないという壁を、イエスさまは取っ払って下さって、壁のない状態にしてくださり、そしてそこに住む両者が同じ神さまを見上げ、神さまを呼び、神さまを礼拝できるように、イエスさまが、その道を開いてくださっているということなのです。

 

そういう視点から、(12)ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人の人が出迎え、遠くの方に立ち止ったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 

この中で、イエスさまに向かって、10人の重い皮膚病を患っている人たちが、イエスさまから遠く離れたところで、はるか遠くの方に立ち止ったまま、イエスさまに「わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。不思議です。イエスさまに憐れんでくださいと、助けを求めるのであれば、イエスさまのそばに来て、イエスさまに助けを求めたらいいのに、どうしてはるか遠く離れたところで、叫んでいるのでしょうか?助けてほしいことを、もっと近くで言わないのでしょうか?どうして遠く離れたところからなのでしょうか?

 

それは、重い皮膚病を患った時点で、家族からも、又その共同体からも隔離されなければならなかったからです。だから病気でない方々には、近づけないんです。そして周りに移さないようにするために、病気になり、隔離されていた方々は、例えば、少し出歩く時には、自分の口から、私たちは汚れていますと大声で叫ばなければなりませんでした。なぜなら、他の人たちに移ってしまうと、民族そのものが全滅してしまう危険があったからです。

 

そのことが、旧約聖書のレビ記というところではっきりと、神さまが語られているのです。その時、重い皮膚病であると診断し、判断する立場の人が、祭司でした。だから祭司は、神さまのおっしゃられた通りに、一人一人を見て、判断して、この人は、群れ、共同体から隔離した方がいいと判断したら、すぐに、隔離しました。それによって、病気でない健康な方々が守られたのです。そして隔離された方々も、ただ単に隔離のための、隔離ではなくて、ちゃんと水で洗うとか、しばらく隔離された後、その症状が治まった時には、再び祭司が、その人を見て、本当にその人がいやされたということを、判断して、治りました、もう大丈夫です。他の方に移ることはありません、とお墨付きを与えた時、もう一度、共同体に戻れるという道がちゃんと開かれていました。そして、再び家族や、共同体に戻ることができました。そういう働きを、祭司は、担っていくのです。いわば人々のお医者さんのような働きもされていました。

 

そのことの関連で、歴史的なことになりますが、大学というのは、そもそも神さまについて学ぶ学問、神学から始まりました。その神さまについての学問を学ぶ方には、聖書について、神さまについての学問だけではなくて、医学も学ぶことになったことでした。それは神さまについて学ぶということは、同時に神さまによって命与えられた人間を学ぶということに繋がるからです。それが今の医学部になっていくのです。ですから、総合大学には、いろんな学部がありますが、医学部があるというのは、大学が神学から始まり、人間を学ぶ医学に繋がっていくという流れが、今も続いているということです。だから祭司も、医者のような働きを担い、隔離を判断したり、治った時、治った体を、祭司に見せにきたその人に、治ったと宣言していくということが、行われていました。それほどに祭司の働きと言うのは、いろんな方面、多岐にわたると言ってもいいでしょう。

 

そういう背景があるから、イエスさまの近くに来てではなくて、遠く離れたところから、イエスさまに向かって、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げ、それにイエスさまは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」祭司のところに行って、体を見せなさいとおっしゃられるのです。

 

ただですね。このイエスさまが、祭司たちのところに行って、体を見せなさいと言われたこの時点で、この10人の方々の皮膚病は治っていたのか?というと、まだ治っていないのです。治っていないのに、祭司たちのところに行って、体を見せよということを、その通りにすれば、彼らは治っていないという判断を祭司から受けることになります。しかし彼らは、イエスさまのおっしゃる通りにしようと、祭司たちのところに行って、その時にはまだ癒されていない体を見せに行くのは、そこに1つの信仰、信頼が与えられていたからではないでしょうか?

 

それは、今は、まだ癒されていないけれども、イエスさまの「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃられる通りにすれば、何かが起こるということを、信じて、また信じようとしていたからではないでしょうか?もちろん、この時点で祭司たちのところに行ったら、何が起こるか?どうなるかは、何も分かりません。でもわからないけれども、彼らにとって、今、この時、イエスさまのお言葉にすがりつくしかないという思いだったからこそ、イエスさまの言われることに従って行ったのではないでしょうか?

 

どうなるか分からないけれども、分からないなりに、一歩踏み出すということ、それは私たちにもありますね。その時、不安がないわけではありません。当然不安はあります。これからどうなっていくのか?それはその当事者になってみて、ならざるを得なくなって初めて、経験することです。それでも、分からないなりに、信じてみようと一歩踏み出す時、開かれていくことが与えられていくということではないでしょうか?もちろん、開かれないことも経験します。思い通り、願った通りにならないことも味わいます。でもイエスさまが、そうしなさいと言われたことに、従っていこうとする時、イエスさまが開いて下さる、その方向に向かって進もうとする時、そして開かれたことを、そのまま受け取っていく時、その時無我夢中で、余裕がない中にあっても、開かれたそこに、すっと進むことができるように導かれていくのです。

 

それがこの10人です。彼らは、イエスさまが言われたことを、その通りにしたとき、祭司たちのところに行って、体を見せに行く途中で、「清くされた」この言葉は、聖とされた、別の意味では、すべての汚物が排泄されたのです。それは、彼らの体から隔離の原因となっていたすべての病が外に出されたことで、「清くされた」のです。この清くされたという言葉は、今日(こんにち)の病気の癒しとも、よく似ています。例えば、風邪をひきますよね。その風邪はどこから来るのかというと、外から私たちの中にウイルスが入ります。そしてその中に入ったウイルスが、私たちの体の中で、暴れるわけですね。では暴れる時に、暴れた状態をそのままにしておくのかというと、何とかして体の外に出そうとします。その時に、ウイルスと体の中のものとが闘うのですね。その時に出るのが熱です。熱が出ることによって、外から中に入ったウイルスを外に出すことになります。つまり熱が出る、熱を出すということは、自然な反応ですし、熱が出るということは、ある意味で健全です。それによって、風邪という病気がいやされるわけです。

 

そういうかたちで、清くされた10人の中で、(15)その中の1人は、自分が癒されたのを知って、とありますが、それは、そうして癒されたことに気づいた一人の人は、イエスさまのところに戻ってきたのです。この戻ってきたとき、この1人に、おっしゃいます。「清くされたのは、10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。」その通り、癒されたのは、10人全員です。イエスさまは、イエスさまに憐れんでくださいと、イエスさまを信じて、助けを求めていたのは、10人です。その10人が、イエスさまに従って、祭司たちのところに見せに行く途中で、清くされた時、自分の体が「癒された」ということを、知ることができた、別の意味では、自分の体が癒されたと見ることができたのは、自分の体を見たから、それが分かったのかというと、この箇所を詳しく見ると、

彼らの内から、彼らの中から離れたことで、自分がいやされたのを知ることになったという意味なのです。

 

つまり、それまではこの1人の人は、10人の中にいました。10人の仲間と一緒でした。それは同じ病を得ていたことで、一緒に生活をし、一緒に行動してきたということです。ですからこの10人は、重い皮膚病という一枚岩があったから、一緒だったと言ってもいいでしょう。それは、重い皮膚病と言う、大変な病が、彼らを1つに結び付けていたからですし、1つにならなければやっていけない状態にもあったからだと言えます。そして、癒されたい、治りたいという強い強い願いも、彼らを一つに結び付けていたのではないでしょうか?そういう意味では、同じ病を負っていた仲間同士のつながりは、それはそれは強いものです。だから一つになって、イエスさまに向かって叫ぶことができたし、一つになって、イエスさまを信じて、イエスさまのおっしゃられるとおりに、行動したんです。その中で、自分が癒されたのを知ることが出来た1人の人は、それまで一緒にいた仲間、1つになっていた仲間から、離れることができたからこそ、自分が、私が、いやされたことを知るようになっていくのです。その結果、「大声で神を讃美しながら」イエスさまのもとに戻って来れたのです。

 

この御言葉からよく言われてきたのは、せっかくイエスさまに癒していただいたのに、イエスさまに感謝をしなかった人が9人いた、イエスさまに感謝した人はたった1人だ、だから1人のこの人のように、イエスさまに感謝しないといけないですね~ということです。もちろんそれも大切なことですね。治していただいたことへの感謝を忘れてしまったら、イエスさまがしてくださったことに、気づかずにいてしまいます。しかしもっと大切なことは何かというと、それまで1つに結び付けていた重い皮膚病、1つの仲間になっていたところに、とどまり続けてしまうと、私が、埋もれてしまうのです。私は10人の中に、溶け込んでいる一人ではなくて、私は私です。私は、1人です。その1人のわたしを、イエスさまが癒して下さったことを知ることを通して、私を癒して下さったイエスさまと、私が繋ることができるようになっていくのではないでしょうか?周りに合わせる私、仲間の中に、埋もれる私ではなくて、そこから離れて、私は私であるということに、気づいた時、私は私を癒して下さった、神さまを喜ぶことができるようになっていくのです。

 

ただ現実に起こることは、それまで10人であったところから1人だけ離れるということは、勇気がいります。同じ病を得て、お互いに助け合ってきましたから、そこから離れることは、どんなにか大きなことではないでしょうか?9人と一緒に行動を共にする方が、安心です。仲間と一緒にいるということは、自分をそこに紛れられること、自分が隠れられます。周りに人がいると居心地がいいことです。けれども、仲間というのは、自分たちだけで固まっていきます。他の人が入れない関係になります。排他的になり、独りよがりになっていきます。仲間だけで通用することを、自分たちの中に作り上げていきます。つまり全員が、お互いにイエスマンになっていきます。だから暴走するし、結果的には自滅してしまうのです。でも、それまでずっと一緒だった、ある意味でべったりだった、そういう関係から離れようとすることは、大変なことです。

 

しかし、そうであっても、イエスさまが癒して下さったというつながりが与えられるためには、9人から離れて、1人の私になることが、必要ではないでしょうか?つまり、一緒に行動しないというのは、けんか別れをしていいとか、仲たがいしたままでいいという意味ではなくて、1人の私にとって、何が一番大切なのか?何が一番必要なのか?それは1人の私を癒して下さった、イエスさまのもとに行くこと、イエスさまのもとに、向きを変えて戻って来ることに繋がるからです。

 

その時、イエスさまは戻って来た一人に、イエスさまのもとに帰ってこなかった9人について、「清くされたのは、10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか」と呼びかけておられるのです。9人はどこにいるのか?せっかくイエスさまに助けを求めたのに、イエスさまを信じて従ったのに、病気が治った途端、イエスさまから離れて戻って来なかった9人が「どこにいるのか」と、戻って来た1人におっしゃっておられるのです。そしてこの1人に、「立ち上がって、行きなさい」とおっしゃられる時、具体的に、どこに行きなさいとか、誰のところに行きなさいということはおっしゃっていません。でも、この1人のサマリア人にとっては、それまで一緒に歩んで来た他の9人のところに、行きなさいと受け取る呼びかけではないでしょうか?「行きなさい。」イエスさまは、1人のサマリア人が戻って来たことで、終わりにされないのです。戻って来たこの1人の人を、9人のところに、行きなさいと送り出して下さるのです。その意味と目的は、1人の人が、イエスさまに出会い、つながることができたことを通して、その1人の人をして、離れている9人との絆をもう一度つくりあげ、この9人の人も、イエスさまのもとに戻れるように、遣わそうとしておられるからです。つながった絆とは、1人で終わりではありません。1人から、9人へと繋がるつながりであり、イエスさまのもとに帰る事が出来た時、初めて、イエスさまを中心とした赦しの絆になっていくのです。

説教要旨(7月2日)