2023年5月7日礼拝 説教要旨

愛は出かけて行く(ヨハネ15:12~17)

松田聖一牧師

 

教会学校でご奉仕されていた方で、90歳を越えて天に召された方がおられました。家で子どもたちを集めて、毎週土曜日に教会学校をされていました。その方が、教会学校で毎年行われていた夏のキャンプの夜のことです。子どもたちを前にして、こんなことをおっしゃっていました。「私はね~本当に、イエスさまを信じて良かった~いつもイエスさまが、共にいてくださる!いつもイエスさまが守っていて下さる!いつもイエスさまが助けてくださる!いつも導いて下さる!イエスさまを信じて、本当によかった~と思っているよ~」そうおっしゃれるその顔は、本当に輝いていました。嬉しそうに、喜びを心から現わしておられました。

 

神さまであるイエスさまが、目には見えなくても、いつも、共にいてくださる、いつもお守りくださる、それを感じ、話せば話すほど、喜びがあふれてきます。

 

聖書に、こんな言葉があります。これは弟子のペテロが、晩年に語った言葉です。「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」復活のイエスさまに出会い、赦された喜びが溢れています。言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれる喜び。それは自分でつくりあげるものではなくて、イエスさまから与えられる喜びです。

 

その喜びを、イエスさまは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と語った後「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」とおっしゃられるのですが、この「あなたがたの喜びが満たされるためである」に、すぐ「わたしがあなたがたを愛したように・・」が続くのかと言うと、もともとのギリシャ語聖書には空白があるのです。空白があるということは、そこには何かがあるのです。その何かとは何か?空白から言えることは、イエスさまから与えられる喜びが満ちあふれる時が来るのには、時間がいるということかもしれません。あるいは、喜びがあふれるということは、もちろんその通りだけれども、今の私には、喜びたくても、その喜びを喜べないこと、喜ぶ余裕がないこともあるのでしょうか?確かに、そういう現実が私たちにもあると思います。イエスさまはそうおっしゃってはいるけれども、なかなか・・・ということがあります。それに、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいが続きますから、イエスさまは、喜べない時があっても、それでも「互いに愛し合いなさい」ということを、まずすることだということを、

おっしゃっているのでしょうか?実は、この「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言う言葉は、よく調べると「これがわたしの掟である」の後に書かれているのです。

 

つまり、枕は「これがわたしの掟である」です。それを、空白の後、大きくイエスさまがおっしゃっておられるのです。さらには「これ以上に大きな愛はない」すなわち、これ以上に大きな愛は、誰も持っていない、も「あなたがたはわたしの友である」も、実は、それらもそれぞれの節の枕にあるのです。頭にあるんです。それらのことも含めて、これがわたしの掟、戒めであると、まず語られる意味は、この言葉を語られるイエスさまご自身に向けて語られていることであり、イエスさまご自身のこと、そしてイエスさまが自分自身にされたことを、イエスさまからおっしゃっておられるのではないでしょうか?

 

それには理由があります。それは枕ということから言えます。枕というと、寝る時に頭の所に枕をしますね。あるいは鉄道の線路、レールの下に敷く枕木にも同じことが言えます。その鉄道のレールを敷くことに譬えてみましょう。レールを敷く時、レールだけを砂利、バラスの上に敷いて、その上を列車が通ったら、途端にレールは沈んでしまいます。だから、レールの下に枕木を敷くのですが、そうすることで、その上を通る列車の重さや衝撃を分散させることができます。ただ列車が線路の上を通る時には、確かにレールは少し沈みますが、枕木が衝撃を分散して受けるので、沈んでもそれはクッション代わりになって、またもとに戻ります。枕木というのは、そういう役割をするのですが、その枕木とレールをつなぐものは、犬釘と呼ばれる釘です。その釘は、レールに直接穴をあけて、突き刺して、そして枕木とつないではいないのです。じゃあどこに突き刺してあるのかというと、その犬釘は、枕木に突き刺し、枕木を貫いていくのです。その枕木を貫いて突き刺す時、同じその犬釘は、レールの端っこに当たるように打ち付けて、釘が出っ張ったところで、レールの形は、工の形をしていますから、その「工」の下のレールを止めているだけです。レールに穴をあけてはいないのです。そういう形で、枕木の上にレールがあり、そして線路になって、その上を列車が通っていくのです。

 

ということは、イエスさまご自身のことを、「これがわたしの掟である」「これほどの愛は誰も持っていない」と、枕でおっしゃっていることを、イエスさまが、ご自身で受けるために、自らその衝撃を受け、そしてそれを吸収するために、木に釘で打ち付けられ、釘で貫かれたということになるのではないでしょうか?

 

そうするとつながります。「わたしがあなたがたを愛した」ことを、イエスさまが実現するために十字架の上で、「友のために自分の命を捨てる」んです。そのために十字架の上で、その手と足とを釘で打たれ、釘で貫かれていくのです。その貫かれ方も、足の甲から釘で打たれる打たれ方ではありません。足の真横から釘で打たれ、貫かれるのです。そんな十字架の死によって、「あなたがたはわたしの友である」こと、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」「あなたがたを友と呼ぶ」ことが実現するのです。

 

ところで、友であること、友と呼ぶということを、僕とは呼ばないということとの対比で、イエスさまがおっしゃっているのは、どういうことでしょうか?

 

僕とは、奴隷のことを指します。その僕、奴隷とは、奴隷制度ということとも関係しながら、生まれながらに疎外され、全体として名誉を失い、ずっと、永続的、暴力的に支配された人間のことだと定義づけられています。ということは、奴隷となってしまうと、支配者の言うなりです。あれをしろ、これをしろと言われることに、自分の考えを全く入れることができずに、その通りに従うという人生を送らなければなりません。それは歯車の1つ、駒のように使われるだけ使われていく人生と言ってもいいでしょう。そういう僕、奴隷という、自分の言いなりになる人が増えていくことで、それを掌握する人が、自分の力を大きくしようとする手段でもあります。その根っこは、人を支配しようとする思いから出ています。それがあるから、人を、自分の思うように動かそうとする人、人を自分の思う通りに支配しようとする人、が出て来るのです。それが奴隷を産んでいくことになるのです。またその奴隷とされた人が、時にはいけにえとされたこともありました。そしてそのいけにえとするために、奴隷の受け渡しがなされたことも歴史の中では、起きていたし、それを、起こした人がいたのです。しかし、それに対して、時には奴隷とされたその方々が反乱を起こしたこともありました。それが奴隷制度廃止となっていく運動でもあります。

 

今そのような奴隷制度というものは、日本では見られません。しかし、僕、あるいは奴隷というものが生みだされる根っこ、人が人をコントロールし、支配しようとする、支配し、支配される関係、人を自分の思い通りに動かそうとする関係を引き起こしていくものは、奴隷制度においてだけではなくて、人の本質として、あり続けているのではないでしょうか?

 

でもそれに気づかないことも多くあるのではないでしょうか?自分がそうしているということ、自分がそうなる可能性をいつも持っていることに、気づいていない、あるいは気づこうとしていないということもあるのではないでしょうか?実はその姿が、イエスさまが十字架につけられた時、イエスさまが父よ、彼らを赦してくださいと、赦しを祈られた祈りの具体的な内容なのです。「彼らは自分が何をしているのか分からずにいるのです」「自分が何をしているのか知らないでいる」から、神さま、どうぞ赦してくださいと、命を赦しのために捨てるということをしながらも、赦しを祈っておられるのです。しかし、そういうことにも気づいていない、知らないという姿もあるのではないでしょうか?

 

そのことをおっしゃっているのです。「僕は主人が何をしているか知らないからである」逆に言えば、僕である限りは、あるいは僕としようとしている限りは、イエスさまが神さまに赦してくださいと、祈っておられることも、赦すために、十字架の木に釘で刺し貫かれたことも、知らないでいる姿なのです。

 

それでもイエスさまは、赦して下さいました。イエスさまが赦してくださいと祈っておられたことを知らないでいたことも、知らないでいた時も、十字架の上で、釘で刺し貫かれたのは、私たちのためだったということを知らなかった時から、赦してくださっていました。その赦しがあるからこそ「もはや、あなたがたを僕とは呼ばない。」「あなたがたを友と呼ぶ」僕ではなくて、友と呼んでくださり、友であると受け入れてくださるのです。それは、イエスさまの方から、あなたがたも、わたしたちも、イエスさまとの関係は、友であり、友と呼んでくださる関係に変えてくださっているのです。

 

友ということは、友達に繋がりますね。友と言う言葉は、愛する人と言う意味でもあります。そこには、利害関係はありません。何か物を介した繋がりでもありません。支配したり、支配されたりという関係でもありません。友のために、真実でいてくれる関係であり、真実を言ってくれる繋がりです。いいことも、耳の痛いことも、ちゃんと言ってくれる関係です。

 

大阪フィルハーモニーで長らく指揮者をされていました朝比奈隆さんと言う方がおられました。音楽監督ということで、オーケストラの運営にも関わっておられました。特に、出来たばかりの時には、本当に資金が足りなくて、東奔西走されたとのことですが、ある時、本当にお金の工面が難しい時がありました。大阪財界の支援を受けてはいましたが、それでも足りないという時、高校時代の同級生で会社の経営をされていた友人のところに行きました。助けていただこうということで頼みに行かれたわけですが、いろいろと大変なことを聞いてくれて、そして援助の方もちゃんと工面された後、こんなことをおっしゃいました。

「君に一言、言っておくが、お金が欲しい、と言う言葉をだいぶ聞いた。しかし、お金というものは仕事が先、仕事をしてこそお金がついてくるものだ。これだけは忘れないようにしたまえ」その言葉を聞いた、朝比奈さん、「この言葉は身に染みた~」と述懐されていますが、そういう意味で、本当に親身になって助けてくれる友、そして本当のことをちゃんと言ってくれる友、痛いこともちゃんと言ってくれる友というのが、友達、友と言えるのかもしれません。

 

イエスさまにとっての、私たちも、わたしの友、イエスさまの友だから、友と呼んでくださるからこそ、イエスさまはいつも、私たちに、本当のこと、本当の願い、真実をいつも打ち明けてくださるのです。そして、こうしてほしいと言う願いを、託してくださるのです。

 

それが「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言うことなのです。その時、出かけて行くこととで、実を結ぶということのためには、その前提として、種を蒔かないと実を結ぶということにはなりません。どんな作物であっても、実を結ぶためには、種が必要です。だからその種を運ぶこと、種を持っていさえすれば、種はこぼれ落ちていきますから、どこに落ちるかは分からなくても、実を結ぶということになっていくのです。ただし、その実を結ぶというのは、出かけた人自身が実を結ばせることはできません。種を蒔くだけです。しかも、その種は、蒔いたその人の手から離れていきます。でも、その蒔かれた種は、神さまの手によって、芽を出し実を結ぶようになっていくのです。

 

先週日曜日の午後、分区総会が持たれました。会場は松本東教会でした。いつもそうなのですが、初めてのところに行く時には、必ずと言っていいほど、ストレートには辿り着けません。案の定、迷ってしまい、この辺りなんですけどね~と言いながら、何回も道をぐるぐる回りながら、地図を頼りに、ようやくたどり着けたことでした。その総会で、新しく赴任された先生の紹介がありました。そのお一人の先生が、私のすぐ後ろの席におられて、自己紹介をお互いにしましたら、今から30年前、三重県の名張教会に導かれ、受洗をされたということから、青年部でご一緒していたこと、一緒に土曜日の夜、聖書研究会に一緒にそこにいたことなどが分かり、お互いに、30年ぶりの再会となりました。その青年部から、1年余りの間に、3人の方が神学校に進むことになり、当時の先生も大変喜んでおられました。そしてお互いに、どうして名張教会に導かれたかということになりました。その先生は、ギデオン協会からいただいた聖書がきっかけとのことでした。わたしともう一人の方は、教会でもたれたコンサートでした。そのコンサートは当時、高校生だった一人の方が、企画をしてようやく実現にこぎつけたことを、30年後に伺うことになりましたが、そのコンサートのポスターを見て、私は当時住んでいたアパートの近くに、教会があるということで、行くことになりました。同じコンサートで導かれた一人の方は、勤めが一緒の方に「今度一緒に行っていかないか?」と誘われてコンサートに来られました。それぞれに導かれた時期は少しずつ違いますが、共通していることがありました。それは、そこに人が関わっていたということでした。ポスターも、誰かが出かけて行って、その手で張られたものでした。一緒にいかないかと誘ったのも、自分だけが行けばいいということではなくて、誘いたいという思いを、自分の中から出された一人の人がいました。ギデオンの聖書を手に取ったことも、誰かが、そこに出かけていって、手渡しくださったものでした。そしてその後、どうなったかということについては、出かけて行ったその方の手を離れています。でも、神さまは、今から30年前に蒔かれた種を通して、30年後に、同じ長野県で一緒にイエスさまを伝えていく働き人、同労者として、また会えるようにしてくださったのでした。

 

その総会の後、同じ青年部におられた方々に、今日会えたよ~と連絡をしました。特に、当時おられた先生の奥さまも、90歳になっておられますが、連絡をしましたらびっくりするやら、喜んでおられました。そしてよく先生が、「石にかじりついてでも伝道しなさい」とおっしゃって下さったことを引き合いに出されて、こうおっしゃられたのでした。「長生きしてくださいね。石にかじりついででも伝道しなさいと言っていた主人は、60代で天に召されましたので、あまり石にかじりつきすぎないようにして、長生きしてください。」

 

なぜ出かけて行く人が与えられるのでしょうか?それはイエスさまが、そのために「あなたがたを選んだ」選んでくださったからです。友である私たちのために、命を捨ててまでも、選んでくださったからです。命を捨てるほどに愛された愛は、「これ以上に大きな愛はありません。」その愛を現わされたお方は、イエスさましかいません。そのイエスさまが、命をかけて、選んでくださったことを通して、イエスさまに出会い、イエスさまの赦しをいただいた方を通して、あなたがたを選んだということが、新たに与えられていくのです。その時、大切なことがもう1つあります。それは出かけて行って、私たちのところに来てくださったことを、断らずに、受け取るということです。

説教要旨(5月7日)