2023年4月16日礼拝 説教要旨

論じ合えることの前提(ルカ23:13~35)

松田聖一牧師

 

ある時に、いろいろな議論を吹っかけて来られる方と出会いました。議論好きです。考え方などは相いれないこともたくさんありましたが、最終的には大変協力してくださいました。ただ最初あった時には、議論ですから、あれこれと理屈をつけて言って来られます。その対応の中で、時には、お互いに激しく議論することもありましたが、それを繰り返していくうちに、お互いに、相いれない、違うものがある、お互いに変えられないものがあるということに気づき始めました。すると、お互いに、だんだん受け入れられるようになってきました。そして仲良くなっていくのです。

 

その議論を通して大切なポイントを教えて頂いたように思います。それは、お互いの考えと、考え方、とらえ方、お互いの持っていきたい方向は違い続けていても、それをお互いにぶつけても、それは相手をお互いに悪く思うことではないし、否定することでもないし、責めるためでもないということです。やり込めるというものでもありません。そういう悪意がないということがちゃんと、お互いにありますと、違っていても、だんだん分かってくるのです。ところが悪意や、相手を自分の力で支配しようということや、自分の中に丸め込めようとする何かが、どこかにあると、それは議論にはならないし、対等ではなくなります。となると、それは関係作りには向かっていきません。そういう意味で、お互いに議論ができるというのは、対等な立場で、お互いの違いをぶつけ合うという非常に幸いな、良いひと時でもあるのです。

 

それとの関連で、国連で日本人初の国連職員として働かれ、外交のいろいろな場面で、様々な国とのやり取りの矢面に立たれた明石康さんという方が、こんなことをおっしゃっていました。

 

外交において話し合うことを止めてはいけない。その時、相手に耳を傾けて聞くこと、何を怒っているのか?何を恐れているのか?何をしてほしいのか?このことに気づくことだ~といった内容でした。国の誰かと話し合う時には、その相手の国がお怒りのこともある、恐れていることもある、してほしいこともあるということに気づくこと。それは外交というところだけではなくて、お互いの議論の中で、話し合いの中で、お互いの違いをぶつけあう時に、既にお互いから、言葉や態度に出ていることではないでしょうか?そしてそれは、お互いに、譲れないものをもっているからこそ、言い換えれば、お互いに、迎合しないで、おもねることをしないから、お怒りになるし、恐れるし、してほしいということが、お互いにぶつかり合えるのです。相手に迎合するとか、何もかも言いなりになるというのは、議論にはなりません。それが議論が議論になる大切なポイントです。

 

それがクレオパという人と、もう一人の人との議論にあるものですし、それが出ているのです。ただ、最初は「この一切の出来事について話し合っていた」んです。最初から、議論になっていたわけではないんです。ところが、最初は穏やかにやり取りできていたのが、だんだんに激しくなってきて、「話し合い、論じ合っていると」いうことに発展していくのです。でもけんかをしているわけではなくて、お互いの違いがますます鮮明になり、お互いにぶつかり合っているのです。

 

その議論は「この一切の出来事」について、つまり、イエスさまの十字架の死と復活という、1つの出来事についての議論です。しかし2人の議論は、真っ向から対立しながらも、60スタディオン、すなわち約11キロの道のりを歩く中で、ずっと続いていくのです。約11キロということは、人が一日歩いて進める距離の平均です。ということは、一日中激しい議論をし、それが出来ているということになりますから、これはこれですごいことです。11キロの道のりを歩きながら、ずっと激しい議論をしているというのは、歩くだけでもすごいことなのに、その上で、お互いにぶつかり合っているわけですから、大変なエネルギーです。そんな中で、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のですが、この意味は2人の時には激しくぶつかり合う議論をする、その2人のぞれぞれの同伴者として、一緒に旅をし始められたという意味ですから、イエスさまは、2人のそれぞれの主張、考え方、それぞれに、同伴し、共に歩んでいるということなのです。

 

つまり、イエスさまが、2人と共に歩いているという意味は、2人の違いを、1つにするために、どちらか一方の考え方に賛同して、2対1の構図を作ろうとしているのではないのです。イエスさまは、それぞれに寄り添いながら、それぞれの怒り、それぞれの恐れ、そしてそれぞれのしてほしいこと、してほしかったことを、受け入れながら、共に歩き始めておられるのです。それはこの2人が持っている怒り、恐れ、してほしいことが、それぞれ違うからです。その違いを違いとして、イエスさまは受け入れ、受け取りながら、共に歩んでおられるということなのです。

 

そのために、イエスさまは、共に歩みながら、彼らがどういうことについて議論していたのか、議論の前提となる出来事について、聴いていかれるんです。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と、何のことですか?どういうことですか?尋ねていかれるのです。その時、2人は「暗い顔をして立ち止まった」すなわち、不機嫌な顔、悲しげな顔、そして怒った顔、になっているのです。そして、立ち止まったというのも、抵抗したということです。つまりイエスさまが、どんなことですか?と尋ねた時、彼らは、不機嫌になり、悲しくなり、そして怒った顔になり、イエスさまに抵抗しているのです。怒ったということと、抵抗しているということが、ここで起きているのです。

 

ここで怒った顔をするということについて、忘れられない出来事があります。それは大学を卒業して小学校に赴任した時、何もわからない中で、4月、3年生を担任することになりました。その時40人のクラスでした。そしてスタートして、本当に目まぐるしい日々が始まりました。初めての家庭訪問では、車が溝にはまってしまい、訪ねようとしたそのお家の方も含めて、ご近所中が出て来てくださって、車を持ちあげて下さったこと、家庭訪問で正座をずっとしていましたら、しびれてしまい、立とうとしたら、ひっくり返ってしまったこと、そんな失敗だらけの中で、本当に暖かく迎えてくださり、田舎の小学校でしたから、一緒にホタルを見に行こうとか、一緒にご飯食べましょうといった、今では考えられないような、そんな職場の中で、1つの課題に直面することになりました。それは子どもたちに対して、本気で怒る顔ができないということでした。こちらは怒っているつもりなのですが、全くダメで、それでどうしたら怒った顔になれるか?ということを、夜に寝ながら考えていたこともしばしばでした。そんな中で、先輩の先生に、こんなことを言われたのでした。「本気で怒っている時には、心は冷静でいなくちゃいけない~」最初はそれがどういうことなのか、分かりませんでしたが、だんだんとああそうか・・と理解できるようになっていきました。怒るということ、怒った顔をするということも、感情むき出しで、本気で顔が怒っていても、心は冷静でいるということは、その時、どういうことで怒っているか?何で怒っているのか?なぜ怒っているのか?そしてどうしてほしいのか、どうしたいのか?ということが、自分の中にちゃんとないと、怒った顔ができないということなのです。

 

ということは、この2人がイエスさまに対して、怒った顔ができたということが、彼らの中に、怒りと、怒りの具体的な内容がちゃんとあったということと、それを具体的に言えるようになっていたということが言えるのではないでしょうか?それはイエスさまが、2人のそれぞれに寄り添いながら、共に歩んで、それぞれのことを受け入れて下さっていたからです。

 

だからこそ、イエスさまが十字架の上で亡くなったことについて、彼らが目の当たりにしたこと、経験したこと、イエスさまがどんなお方であったか、そしてその素晴らしいお方に対して、わたしたちの祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったこと、それによって、望みが失われてしまったことをイエスさまに出せていくのです。それがこの言葉「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」本当にイエスさまに望みをかけていたのです。解放してくださる!本当に信じていたんです。ところがイエスさまは死刑にされてから三日目、婦人たちが、私たちを驚かせたこと、婦人たちが墓に行ったが、イエスさまの遺体を「見つけずに戻って来た」こと、そして天使たちから「イエスは生きておられる」と告げたという婦人たちの言葉を話すのです。そして仲間の弟子たちが、何人か墓へ行ってみたのに、あの方は見当たりませんでしたということも、ここ数日起きた出来事を、洗いざらいに、彼らが受けた衝撃も、彼らが目の当たりにしたイエスさまの十字架の死、それが本当に怖かったこと、でもそのイエスさまに対して、自分たちは何もできなかったこと、どうすることもできなかった自分たちへの怒りも含めて、次から次へと、怒った顔をしながら、本当の思い、本音をイエスさまに次々とぶつけていけるのです。

 

それはため込んでいたことが、わっと噴き出したかのようです。

 

ある方を訪ねた時のことです。そこに、丁度東日本大震災で津波に巻き込まれながらも助かった方がおられました。私が神戸から来たと分かると途端に、自分が避難した体育館に、津波が入って来て、渦を巻いて、そこから何とか逃げたこと、逃げようとして、よじ登ったことなど、息せき言って、わ~っと話し始めました。そしていろんなことを言われた最後の方で、「怖かった~」怖くて、怖くて、どうすることもできなかった!ということを、涙ながらに話しておられました。

 

その時、本当に怖かったんだ・・・と思いました。神戸の地震とは全然違う、土台ごと流されて、跡形もなくなってしまったことが、どんなに大きなことだったか?津波が渦を巻いて襲ってきたことが、どんなに怖かったか?言葉では表しきれないものが、そこにはあったと思います。

 

イエスさまが、2人と共に歩んでくださったのは、そういう彼らをしっかりと受け止めるためです。それだけではありません。その中で、イエスさまは、彼らにはっきりと、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの行ったことをすべて信じられない者たち」彼らに、ああ物分かりが悪い!心が鈍い!ということもはっきりと返していかれるのです。いいよ、いいよ、よしよしではなくて、ああ物分かりが悪い、ああ、心が鈍い!ということをズバッと言われた時、言われた方は、痛かったと思います。でもはっきりと言われること、それが本当に当たっていることなので、それは彼らの目を覚まさせることになるのではないでしょうか?その上で、イエスさまが、聖書全体にわたって書かれていることを説明された意味と目的は、イエスさまが十字架の死で終わりではない、甦られて、生きておられる!ということなのです。生きておられるお方が、共に歩んで、生きておられるお方が、寄り添いながら、その気持ちも含めて丸ごと受け取ってくださり、そしてはっきりと返して下さるお方だということを、聖書全体から、解き明かしてくださるのです。

 

そして聖餐の恵みを与えられたとき、彼らは、そこにイエスさまがいらっしゃることが分かったのです。でもその時イエスさまの姿は見えなくなったとあります。それはイエスさまがいらっしゃらなくなったということではなくて、共に歩み、共にいてくださるイエスさまの姿は見えなくなっただけのことです。しかし二人の中には、燃えるものが与えられていました。心が燃えていました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」その時の彼らは、話し合い、論じ合っているのではありませんでした。語り合っていました。

 

主が生きておられるということを知った時、分かった時、それは話し合い、論じ合うということではなくて、「語り合う」ことへと導かれていました。それはイエスさまが彼らの真ん中に共にいて、共に歩んでくださっていたからです。そしてイエスさまも、はっきりと、本気で、ぶつかって来てくださったのです。それゆえに、彼らの心は燃やされているのです。そしてその中心には何があるのか?聖書です。聖書の御言葉を、イエスさまが生きておられるということを中心に、解き明かしてくださるイエスさまに、聞いていくということによって、心は燃やされていくのです。そして、話し合い論じ合うことから、主が生きておられるということを語り合うことへと新たにされていくのです。

 

ある有名な、そして大変優れた弦楽四重奏をされている音楽家がいました。お互いに優れていました。演奏も素晴らしい演奏をされていました。ところが、その演奏会の前のリハーサルになると、4人が、お互いに、けんかになるのです。お互いの持っているものが、本当に、本気でぶつかり合うのです。だからリハーサルは、大変な雰囲気になります。殴るけるということは、もちろんしませんが、とにかくお互いにすごいです。そんなリハーサルが終わって、本番までの時間をどうするかというと、お互いに一切顔も合わせないし、話さないのです。きっと顔を合わせたり、話したりすると、けんかになるということが、お互いに分かっていたからだと思います。そして本番直前にホールに集まり、そのまま舞台に出て、演奏されると、これまたすごい演奏になりました。お互いにぶつかり合いながらも、それがすごいエネルギーとなって、客席に伝わっていきました。そして演奏会が終わって、いい演奏だったということを、4人はお互いに受け取り合いながら、にこにこして舞台から下がっていきました。ああよかった~という安堵感と、達成感、そして何よりも、その曲そのものを演奏することができたこと、自分たちがやっているということではなくて、その曲に触れることができ、その曲を一緒にできたという喜びがありました。その後どうなったか?また顔を合わせたり、リハーサルとするとまた激しい喧嘩になるので、普段はお互いに距離をもってされているとのことです。

 

人と人との関係というのは、基本的にぶつかり合う関係です。ぶつからない関係は、関係とは言えません。なぜならばお互いに違うからです。違って当たり前です。違うからこそ、ぶつかることが出てきます。出て来て当然です。でもそういう私たちの、それぞれに、生きておられる主が、共に歩み、寄り添いながら、そしてイエスさまもまた私たちに、真正面からぶつかって来てくださるのです。そこに、イエスさまの愛、あなたをあなたとして認め、受け入れておられるという姿があります。イエスさまもぶつかって来てくださるので、私たちの心は燃やされていくのです。

説教要旨(4月16日)