2023年4月2日礼拝 説教要旨

赦されるために(ルカ23:32~49)

松田誠一牧師

 

兵庫県尼崎市に、脳神経外科の医師として長年働いておられた川本圭司さんという方が開設されたミュージアムがあります。シャレコーベ・ミュージアムという名前で2011年に開館して、世界中から集めた頭蓋骨に関係するいろいろなものが展示されています。それは単に集めるというだけではなくて、頭骸骨に関する研究を通して、人の死、そして命ということを脳神経外科の医師の立場から、学問として体系化されています。その館長さんが、このミュージアム開設に際して、次のような言葉を残されています。「日本では、骸骨、どくろ、などといわれると、きもちの悪い印象がありますが、私の本やこのミュージアムを通して、自分の最後の姿である死 そして自分の人生を見つめなおしていただきたいのです。」

 

つまりどくろとか、頭蓋骨、頭の骨だけを言うと気持ちの悪い印象ではあっても、頭蓋骨がそこにあるということは、かつてその頭を持った方が生きておられたということと、その人生の中でいろんなことがあり、その死を迎えたということが、そこにあるということです。それほどに、その人の命、存在が尊いものとしてあったということが、頭の骨を通して表されているということでもあります。そういう意味で、自分の人生を見つめなおすということへと導かれるんです。

 

それが「されこうべ」のことであり、そのされこうべ、を通して見えて来るものです。そしてその場所には、かつて生きて歩まれたたくさんの方々の頭蓋骨がありますから、たくさんの方々の、それぞれの人生、生き様、いのちということを思わずにはおれない場所でもあるのではないでしょうか?

 

そのされこうべで、イエスさまや、2人の犯罪人が十字架につけられ、やがてその上でなくなっていくという出来事の舞台となり、「わたしは道であり、真理であり、命である」イエスさまも、その命を生きて、十字架の上で召されていくのです。その命がいよいよ終わる時に、イエスさまが祈られた祈りが

 

(34)そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」なんですが、このイエスさまの、父なる神さまに、赦してくださいと祈る祈りの内容が、「自分が何をしているのか知らない」と言う祈りなのでしょうか?というのは、今イエスさまは、人々からいわれのない罪を着せられ、処刑されようとしているのです。だから、その中で、赦して下さいと祈る祈りの内容は、いわれのない罪、えん罪によって十字架につけられていく、その道を作った人々のこと、自分を十字架につけた人々とその行為を赦してくださいというのが、今、この現場で祈られる祈りの具体的な言葉ではないでしょうか?ところが、イエスさまは、「自分が何をしているのか知らない」ので、彼らを、赦してくださいと祈られるのです。

 

つまり、イエスさまに対して、いろんなひどいことをしていく議員たちも、兵士たちも、そして「これはユダヤ人の王」と書いた札を書いた人、掲げた人も、イエスさまと同じく、十字架にかかった犯罪人たち2人も、皆、自分が何をしているのか知らないのです。それは自分がどうしていけばいいのか分からない、自分が何を目指していけばいいのか?どう生きるのか?どう生きたらいいのか?ということが分からないでいるということでもあるのです。その彼らを赦してくださいと祈られるのは、自分の人生を探して、自分の生きる道を、探しながらも、それでも迷い続けていることを、イエスさまは赦して、受け入れようとしている祈りではないでしょうか?

 

そして、そんな迷いながらも、探しながらも、見つけられないでいる彼らが、イエスさまに対して言っていること、イエスさまに対してしていること、そしてイエスさまが十字架において、それらのことを受け入れ、受け取っているすべてのことが、イエスさまが救い主であるということを、逆に証明していくのです。

 

というのは、「他人を救った」と言っていることも、「もし神からのメシアで選ばれた者なら」も、あなたは神さまからのメシアなのだから、選ばれた者なのだからという意味で言っていることも、また酸い葡萄酒を突き付けられ、それを受け取っていることも、「お前はメシアではないか」と言う意味で言っている「お前がユダヤ人の王なら」も、そして「この方は何も悪いことをしていない」も、さらには、百人隊長の「本当に、この人は正しい人だった」と言っていることも、全部、神さまがイエスさまにおいて現わされた、メシア、救い主であるということを、証明している言葉になっているのです。

 

そのことを証明するために、イエスさまは、十字架にかけられ、その上で苦しまれ、自分では何もできない状態に、自らを置かれるのです。そしてそれは、イエスさまが何もできないという形によって、赦しがあるということを表し、示し、与えていかれるのです。

 

その赦しが完成した時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」出来事は、神さまと人との隔ての壁を、イエスさまの十字架の死、十字架の赦しによって、取り払ってくださったということです。同時に、私たちにとって、自分との関係、人との関係で、やぶれた関係の真ん中に、イエスさまの赦しがあるということなのです。

 

その時、その破れたことがもう一度つぎはぎされてとか、縫い目のない元通りになるということでは必ずしもありません。破れたままの状態でもあります。破れたままということは、人生の中で、これまでの生きて来た歩みの中で、破れたことがら、破れたことによって、与えられる、襲い掛かって来る感情、出来事も、破れたままになっているということではないでしょうか?そしてそれを、抱えて生きているということではないでしょうか?

 

もちろん、それらのことが、万事解決されて、お互いに破れから、もう一度元通りにされて、繋がっていけるなら、あるいは、もう一度元通りにやり直すことができたら、それが何よりです。けれども、どんなにそうなることを願っても、かなわないままになっているということも、関係において、きれいごとではないけれども、1つの真実ではないでしょうか?それなのに、きれいごとにしようとしたら、きれいごとじゃないのに、破れたことなのに、全部適当にしてしまうと言いますか、水に流せないことなのに、どこかでごまかしてしまうことにはならないでしょうか?そしてそれは、どこかで真実を曲げ、真実から離れていくことにはならないでしょうか?なぜならば、生身の人間として、実際には、破れたこと、それに伴って受けたこと、感じたこと、あったことは、流すことができないからです。それらのことを抱え続けているからです。

 

だから、それがどこかで出て来るのです。それが十字架のイエスさまに対して出て来る姿と重なるのです。でもそれを全部、イエスさまが十字架の上で、赦して下さった、と言う意味は、それがすべて私たちから、きれいになくなったということでは必ずしもありません。むしろそれがあり続けることであったとしても、その破れも含めて、それをイエスさまが受け入れて下さって、それを十字架の上で、全部受け取って、全部十字架の死と共に滅ぼして下さっただけではなくて、そこから全く新しいものに、造り変えてくださるイエスさまに、委ねることができる道を、示して下さっているからなのです。

 

その委ねるということが与えられているからこそ、私たちの、破れも、いろんなことを、イエスさまにぶつけていけるし、ぶつかっていけるのです。当然受ける側も、ぶつける側も、傷を負います。しかしそれで終わりではなくて、復活があるということは、破れ口に立ち、それらを受け取って下さったイエスさまが、十字架の死で終わったのではなくて、その後がある、その次があるということを、現わし、示し、与え続けてくださっているからこそ、破れたことも、それで終わりではないということも受け取ることができるのです。

 

病院のチャプレンで働いておられる先生が、病院での出来事としてこんなことをおっしゃっておられました。

 

先日、自分の配偶者を呪いながら亡くなっていった人を看取ったんです。「あんなことされた、こんなこと言われた。許せない!」て。その怒りをただただベッドサイドで聞いて苦しくなって、チャプレンとしての指導者に相談したんです。できるなら和解して、最期を迎えてほしいって。そしたら、その方から叱られたんです。それは自分のためじゃないかって。現実はそうじゃない。どんな思いをその方が持っていてもサポートするのがあなたじゃないかって。雷に打たれたような衝撃でした。でも、気づかされたんですよね。十字架のイエスの最期もそうだったって。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」イエスが、苦しみながら十字架の上で命をささげたことは、美談なんかじゃないって。それでも、いや、それだからこそ、その声が神と繋がっていたんですよね。怒り、悲しみ、絶望。その中にこそ神がおられるのだと信じて、今日も目の前の人の声に耳を傾けていきたいと思っています。

 

人生の中で、繰り広げられ、織りなす悲喜こもごもには、きれいごとばかりではありません。喜び、悲しみ、怒り、恨み、嫉妬、数えきれないほどのことが、山のように、それぞれにあります。その時、喜びや、悲しみ、怒りといったことが、極限に達してしまうと、自分が何をしているのか、分からないでいることがあります。それを受け取り、ぶつけることを赦してくださっているイエスさまは、されこうべという、人生とは何か?どう生きるか?という問いの只中で、又その真ん中で受け取り続けてくださっているのです。

 

その時の、イエスさまの姿は、何もできない中で、ただ受けるだけでしかない中にいます。しかしそこで、何を言われても、何をされても、それをそのままただ受け取っていかれ、受け入れていかれる、そのところに救い主が立っておられ、父よ、彼らを赦して下さいとの祈りがあります。

説教要旨(4月2日)