2023年2月19日礼拝 説教要旨

必要なこと(ルカ9:10~17)

松田聖一牧師

 

ある方をお訪ねすることがありました。お一人暮らしでいらして、お訪ねすると、お体の痛みや、毎日のいろいろな思いを、本当に良く話してくださいました。時には、愚痴っぽくなったり、苦しかったこと、辛かったことなど、いろいろお喋りくださいました。こちらは聞き役でしたが、次から次へと話したいことが、山のようにおありになったようで、おいとまする時間が迫って来ても、なかなか失礼することが出来ないんですね。「それではこれで・・・」と言おうものなら、又しゃべり始められる、そういうことが良くありました。そんな楽しいひと時を共に過ごせたその方から、導きの中で、その教会から転任するということになった時、お葉書をいだだきました。そこにはこれから新しい教会に行かれることを、祈っていますということと、一つの言葉が目に留まりました。「いっぱいぐちを聞いてくださいました」そのぐちには、線が引っ張ってありました。その数か月後に、その方は天に召されましたが、頂いたそのお葉書は大切なものとなっています。

 

そのように、行った先、行った先の教会でたくさんの方々との出会いがありました。そしてそれぞれにドラマがあります。言い尽くせないほどに、素晴らしい出会いがあります。その出会いをしゃべり出すと、いくらでも出て来るという感じがしますし、いろいろな人に出会うことができたのは、本当に楽しいことでした。そういう意味で、イエスさまを紹介する働きは、楽しい、のひと言に尽きます。あるフィンランドから来られた宣教師の方がおっしゃっていたことをいつも思い起こします。「イエスさまを伝える事は楽しいです。それは、神さまがしてくださることだからです。」本当にそうだと思います。数えきれないほどの、出会いの中で、神さまがしてくださったことが山のようにあります。

 

それはイエスさまから方々の村に遣わされた弟子たちが、経験したことでもあります。弟子たちは、イエスさまから遣わされたところで、いろいろな出会いと出来事があったことでしょう。山のようなエピソードがあったと思います。それを持って、イエスさまのところに帰って来たと思います。その時、「自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」弟子たちは、自分たちが行ったことを、イエスさまに、みな告げた、詳しく話したということは、大変な時間が必要になったのではないでしょうか?そして見方を変えれば、自分たちがしたことをイエスさまに話した時、それは自分たちがしたということだけではなくて、イエスさまが導き、イエスさまがしてくださったことを、イエスさまに話す中で、弟子たちが受け取りなおすひと時だったのかもしれません。でも話したすぐに、神さまであるイエスさまが導いて、してくださったことだった~と受け取れるかというと、そう受け取れるようになるまでには、内容によっては、時間も必要だったかもしれません。そのことが、この聖書の言葉の、「告げた」の後の「イエスは彼らを連れ」の間にある、空間に現わされているのです。というのは、日本語の聖書には現わされてはいませんが、ギリシャ語の聖書には、「告げた」と「イエスさまは彼らを連れ」の間には、少し間が空いているのです。そういう空間があるということは、時間的にも、内容的にも、弟子たちは一杯しゃべることがあったということと、そこから神さまがしてくださったということへと受け取りなおすことができるためには、時間が必要だったからではないでしょうか?

 

そういう中にあった弟子たちを、イエスさまは連れて自分たちだけでベトサイダという町に退かれた時、イエスさまの後を追ってきた群衆を、イエスさまは迎え、歓迎していかれるのです。そしてその群衆に、神さまのことについて語り、治療が必要な人々を癒しておられたのです。そんな中で(12)日が傾きかけたので、12人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。」イエスさまに、あなたが解散せよと、弟子たちは命令して、イエスさまがしていること、癒しも含めて弟子たちがやめさせようと、命令しているのです。

 

どうしてでしょうか?せっかくこれだけの人々が集まっているんです。人里離れたところ、荒れ野とも言えますが、そんなところに人が集まって来るというのは、すごいことです。そもそも人が大勢集まるということと、しかも不便なところに人が集まって来るというのは、よっぽどのことです。

 

一般的にも人が集まるというのには、何かしら理由がありますね。例えば、いろいろなイベントを開催する時、主催者は、人が集まるように、いろいろ工夫されます。ぼーっと待っているだけでは、人は集まってきません。広告、宣伝をします。昨年でしたか、岐阜県で有名人が来るということで、往復はがきで申し込むという方法が取られましたら、往復はがきが売り切れてしまうほどだったようですが、それもまた広告塔があるのと、宣伝です。他にもいろいろあります。スーパーのチラシもそうです。あるいはお店のオープンセールもそうです。チラシを配り、広告をします。ここにこんなものがある、こんなお店が出来たというお知らせを、広く知らせます。時々、そのセールに桜役の人もいます。ある一人の方がこんなことをおっしゃっていました。「私ね~よくオープンの時には、桜になって~と頼まれることがあるんです。いろいろな方から頼まれるんですが、どうも私が桜になると、私の後ろに行列ができるんです~なぜか分かりませんが~」その人がいるだけで、人が集まってくるのですね。

 

そういういろいろな方法で、人が集まるように案内して、その案内も工夫しています。そして人が来るというのは、そこでいいものをやっている、いいものが与えられるということがあるからです。どんなに不便なところであっても、そこでいいものがあれば、そこに人が集まってきます。イエスさまのところに集まって来たのはチラシなどを作っての広告、宣伝ではありません。けれども、そこにイエスさまがいるということだけで、人が集まってくるのです。どんなに辺鄙なところであっても、どんなに不便なところであっても、人がイエスさまに向かって集まってくるのです。それは教会もそうですね。どんなに不便と感じるところであっても、イエスさまが語られ、イエスさまの救いと赦しが与えられるところには、人が集まってきます。主が呼び集めて下さるので、集められて来ます。

 

そういう状況は、イエスさまに従った弟子たちにとっても、喜んでいいことではないでしょうか?神さまであるイエスさまのところに、こんな人里離れたところ、いつ何時強盗に襲われるかもしれない、獣に襲われるかもしれない、危険と隣り合わせの場所なのに、しかも、人里離れたところというのは、荒れ野とも訳すことができますから、そんなややこしいところに、沢山の方々が来られ、イエスさまに出会い、イエスさまから教えて頂き、治療までしていただける方々がいる!ということは、驚くべきことです。素晴らしい出来事です。お恵みの出来事です。けれども、そういう中で、彼らは、「群衆を解散させてください。」と言い出し始めるんです。しかもこれはイエスさまに対して、命令口調です。あなたがこの群衆を解散させよ!という命令を、弟子たちがしているのです。イエスさまに、解散させてください。集まった群衆自身が自分たちで、宿を取ったり、食べ物を見つけるようにと、それをイエスさまが人々に伝えるように、イエスさまに命令した弟子たちに向かって、イエスさまが言われた言葉は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」なんです。彼らに差し戻されるのです。

 

でも言われた内容は、無茶苦茶です。イエスさまが迎え、歓迎した結果、群集が集まって来たのですから、イエスさまがその群衆の為にいろいろするのは、当然でしょという弟子たちの言い分は、ある面正しいと言えることです。

 

けれども、イエスさまは、弟子たちに、あなたがたが、と言われるのは、先にいろいろな村に遣わされた時に、自分たちが、したことをイエスさまに話した時の弟子たちと同じく、主に従うということがどういうことか、を彼ら自身に教え、経験させてくださるためではないでしょうか?だからこそ、弟子たちには無茶だ!と感じることであっても、イエスさまは、それをあなたがたがやってごらんなさい!とおっしゃられるのです。そしてその与えなさいにあるもう一つの意味、あなたがたが、その食べ物を神さまにささげなさい、です。それは自分の持っているものが、自分のものでありながら、神さまにささげるものだ!ということへと、方向転換くださり、またそこに向かって、一歩踏み出すように導こうとされるのです。その時言われたことが「人々を50人ぐらいずつ組みにして座らせなさい」です。

 

この50人ずつ組みにするというのは、ここでは男性の方々5000人を念頭に置いています。この5000人を、単純に50人ずつぐらいに割って、100組ほどの組を作るようにと言う意味でおっしゃっているのかというと、このイエスさまの内容は非常に興味深いです。

 

というのは、イエスさまはここで、まずは5000人を横たわらせよ!当時の食事のやり方、寝そべって、肘をついて食事をするというスタイルに、まずはさせよ!ということをお命じになられるのです。そしてその横たわらせた結果、50人ずつぐらいの組になっているということなのです。どういうことなのでしょうか?まずは食事のために、横たわらせて、その結果、50人ぐらいずつの組になるということを、イエスさまがなぜ弟子たちに命じたのかという1つの理由があります。

 

それは、ある大学の先生が、集団における人間行動の社会心理学的考察というタイトルで論文を書いておられますが、その中でル・ボンという学者の方がおっしゃっていることを引き合いに出されて、それについて人間の集団というものが、どういうものであるか?集団の中の、一人の人は、その集団の中で、どうなっていくのか?について、述べています。少し紹介させていただきますが、

 

人々は集まると各自の個性が容易に消失し、その感情および思想が一斉に同じ方向をとるようになる。これが群衆の行動の基本的な特徴である。さらに,群衆の中にいるときには匿名状態にあることから,責任感は消失してしまう。こうして、「興奮しやすく」「激怒しやすく」「暗示にかかりやすく」「残虐な」群衆の行動が起こると考えたのである。

 

つまり、ここには少なくとも5000人、本当にもっといたはずですが、それほどの集団に人がなっていると、何かの感情が一斉に同じ方向を取るようになるということです。ここでは、夕暮れになり、食べること、寝ることに人々の関心、気持ちがそこに行ってしまっています。でもこの場所には、食べ物や、寝る場所もないという、人里離れたところ、荒れ野です。そして食べ物がない、寝る場所もないという中で、群集は、一斉に食べる事、寝る事に向かって、同じ行動をとるようになります。平たく言えば、一人がお腹がすいた~となったら、周りもお腹がすいた~となりますし、一人が疲れた~となれば、同じように周りも疲れた~となってしまうんです。でもそういう彼らの欲求を満たすものはここには何一つないということに気づくと、一斉に食べ物、寝る場所をめぐる争いが起こります。暴徒化します。それと似た出来事がありました。教会でキャンプをした時に、子どもたちが会堂で50人くらい、寝ていました。夜中になったとき、一人の子がお腹がすいた~と起き出して言ってきました。すると、一人の教会学校の先生が、気を聞かしてくださったのですが、おにぎりを握ってくれたんです。おにぎりにはノリが巻いてありました。するとそのノリのにおいが辺り一面に漂い始めましたら、次から次へと子どもたちがむくっと起き上がって、僕も私も~とおにぎりとなっていったことがありました。人間って、そういうものなのですね。

 

そういう意味で、イエスさまが、まずは5000人からの群衆を、食事をとる時の姿勢、寝そべるということをまずさせていったこと、そしてその結果、暴徒化しないで、自然な形で、50人ずつの組が出来上がっていったというのは、そこで暴徒化しないで、秩序が出来ていくのです。それによって、群集もお互いに争わなくてもよくなりますし、お互いに気遣うことができる距離感と秩序が生まれていくのです。イエスさまはそれを考えて見通しておられたので、弟子たちに、まずは食事の姿勢、寝そべるように、横たわらせなさいと命令したのは、そういうことなのです。

 

その上で、神さまであるイエスさまは、彼らが言っている、パン5つ、魚2匹しかありません、が神さまにささげられたとき、これしかないと思っていることを、これしかないから、豊かな祝福へと変えてくださるのです。その祝福が、その食べる物をお互いが争奪し合うのではなくて、分け合うことになり、神さまに、ささげられたものを、イエスさまは、祝福して、もう一度彼らに戻して下さった時、必要なものは十分に、与えられていくのです。しかもパン5つ、魚2匹をささげた弟子たちには、確かに自分の手元にはパンはもうなくなってしましたが、人々に配られた後、残ったパン屑を集めると、12の籠いっぱいになったように、神さまにささげたらもう自分の手元にはなくなるという計算が、見事に外れて、12人の弟子たちにも十分に食べる物が与えられていくのです。

 

大草原の小さな家という番組がありました。そのある場面では、ウォルナットグローブの教会に鐘がついてないことから始まりました。当時の教会は集会所や学校も兼ねていたので、「始まり」を知らせる鐘は必要でした。それで、みんなで鐘をつけようということになりました。すると真っ先に手を上げた方が、「全部費用を負担するから私の名前を刻んで」と要求したことで、これに賛成する人と、反対する人が出てしまい、子どもたちもその影響を受けることになってしまいました。そこに、金物を売り歩いているジョーンズおじさんがやって来ました。彼は口がきけないのですが金物を作る腕は確かで、子どもたちに馬の像などをプレゼントしていました。でも大人たちがいがみ合っていることに心を痛めたおじさんは、ある日子どもたちに、教会の鐘を作ろうと提案し、子どもたちに、家にある金物を持って来るようにと伝えると、子どもたちは家にあったバケツなど、いろんな金物を、次々と持ってきました。それを溶かして金型にはめて鐘を作るのですが、まだ足りないということで、子どもたちはそのおじさんからもらった馬の像なども、ためらいながらも、思い切って一緒に溶かしていきました。そして出来上がった鐘を、教会に取り付けて、それを鳴らし始めると、町中の人たちが集まってきました。最初は、そんなことを知らない人たちは、「あの人が抜け駆けしやがった」と思いこんでいましたが、教会の鐘は子供達とジョーンズおじさんが、ささげて協力して作ったのだとわかったとき、それまで争い合い、いがみ合っていた方々が心を打たれ、お互いに和解へと導かれ、教会に入り鐘が出来たことを感謝して讃美歌を歌うのでした。子どもたちが持っているものは小さなものでした。けれども、その小さな一つ一つを神さまにささげていく時、大きな祝福となっていきました。祝福がますます祝福となり、喜びがますます大きな喜びとなっていったのでした。

 

弟子たちがささげたものも、そうです。たったパン5つ、魚2匹です。それしかないと思っていたものです。でも、そのそれしかないと感じていたものも、神さまにささげられ、神さまの手の中で、用いられていく時、それは~しかないで終わりません。こんなに豊かにあるという、ものへと変えられていきます。そのように神さまのために、使えば使うほど、減るのではなくて、どんどん増えていきます。使えば使うほど、喜びがますます大きくなっていきます。そのためにイエスさまは、これしかない・・・というものを必要としてくださっているのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月19日)