2023年2月12日礼拝 説教要旨

赦すために(ルカ5:12~26)

松田聖一牧師

 

ハンセン病元患者と家族の57年間というドキュメンタリーがあります。その中で一人の男性の方が登場されますが、10歳の時、隔離され、家族とはもう一生会えないと言われた時、絶望しかありませんでした。それから19歳で隔離された島から出ることになりましたが、故郷には帰らず、大阪で仕事をしながら、人と深く関わることなく、医者も信用することができないままに、ずっと過ごして来られました。そのことを振り返りながら、こうおっしゃっていました。「隠すことだけ。隠れて人生を送ることだけ。まあ、その時は人を疑っているときやな。裏もあれば表もあるという感覚やな。いつなんどき、人間裏切るか分からんし・・・」そんな思いを吐露されたのですが、その方が、57年ぶりに故郷に帰ることができ、お兄さんと再会したとき、そのお兄さんも、家族として、本当に苦しまれていたとのことでした。そして妹さんは、まだ会えないということでした。そのように、半世紀以上たっても、ご本人も、家族にも、大きくて、深い深い傷が残り続けているのです。これが、隔離させられること、引き離されることによって、引き起こされる現実です。

 

それは全身重い皮膚病にかかった、この人もそうです。皮膚病になったその時からずっと、それまで生活していた共同体からも、家族からも隔離され、もう二度と帰れないとあきらめている人生に変わっているのです。そして、人は信頼できない、信頼してはいけないんだ、ということも、身に染みて味わい続けた日々でもあるのです。そういう背景の中で、この人が、「イエスを見てひれ伏し、主よ御心ならば・・」と願う時、すなわち、倒れるように崩れ落ちるようにして願うのは、隔離されていますから、イエスさまの近くで、ではないのです。イエスさまから遠く離れたところから、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願っているのです。しかも、治して下さいとか、清くしてくださいとか、自分の願いをストレートに願う言葉を出せていないのです。それは、彼のどこかに、誰も信頼できないということが心の壁となっていたのかもしれません。それでも、イエスさまをどこかで信頼したい!でも、信頼していいのだろうか?と、揺れ動いていることの現われではないでしょうか?

 

そんな彼に向かって、イエスさまは手を差し出して、その人に触れられるんです。でも彼は、隔離されています。人に会うことがゆるされないでいるんです。別の見方をすれば、皮膚病になったら、隔離されなければならない、という決まり、に縛られ、支配されていた人だからです。でもイエスさまは、その決まりを乗り越えて、彼の中にある心の壁を越えて、イエスさまは、彼に向かって、手を差し伸べ、触れて下さる、すなわちつかんでくださるのです。その時、その人は、神さまであるイエスさまの御前に立つことができているのです。そして、「よろしい、清くなれ」私はあなたが清くなることを、私は望んでいると、宣言してくださったので、「たちまち重い皮膚病は去った」のです。

 

私たちにとっても、自分の中で、壁を作ってしまうことがあります。信頼できない、信頼してはいけないのではないか、信頼していいのだろうか?どうなんだろうかと、揺れ動くことがあります。それは自分の中に、信頼していいのだろうか?どうだろうかという思いが、自分を縛り、支配する決まりも含めての、その壁を作り上げているからです。そしてその壁が、自分の中で、どんどん大きくなり、あるいはまた大きくしてしまうこともあるのではないでしょうか?しかし、その壁がどんなにあったとしても、どんなに揺れ動く時があっても、イエスさまの方から、それを乗り越えてくださり、私たちに、私に、手を差し伸べ、触れて、そしてつかんでくださるのです。その時、私たちは、神さまであるイエスさまの前に立つことができるのです。そして初めて、生きていることが神さまからのお恵みだ!ということに気づき始めるようになるのではないでしょうか?

 

イエスさまはその人に、そして私たちに、私に、してくださったことは、そういうことなのです。が、その時イエスさまが、厳しくおっしゃられた言葉は、「だれにも話してはいけない」です。

 

この意味は、話すということを、誰ともするなということですが、それは同時に、今この時点で、誰にも会うなということでもあります。というのは、誰かに会うということを、今、この時、してしまうと、隔離されているのに、隔離されなければならないというその決まりを破ったことになります。そうなるとせっかくイエスさまに、癒していただいても、共同体や、家族にとっては、決まりを破った彼になってしまうのです。そうなるとせっかく癒されても、引き離された家族との再会が出来なくなってしまいます。だからこそ、イエスさまは、重い皮膚病を祭司に見せて、祭司から、清くなったと公に認めてもらえるように、「ただ、行って祭司に体を見せ」なさいとおっしゃられるのです。そして祭司から、清くなったと認められ、公に宣言してもらうことで、初めて、誰かと会うことも、誰かと話すことも、できるようになるという当時のやり方を、分かっておられるからこそ、そこに導かれるのです。イエスさまが、誰にも話してはならないという意味は、そういうことです。ただ単に誰にもしゃべるなということだけではないのです。

 

しかし、この人は今、人を信頼していいのか、信頼してはいけないのではないかという、揺れ動きの中にいますから、「ただ、行」くことも、祭司に体を見せることも、大きなことではないでしょうか?いくら癒された体であっても、その体を、人に見せるということは、何もかもをさらけ出すということです。でもそれは、関わりを持とうとしなかった、人と関わることが出来なかったその人にとって、その方向に向かうには、自分の力では到底できないと言ってもいいでしょう。だからこそ、イエスさまから「行きなさい」「祭司に体を見せなさい」「人々に証明しなさい」と背中を押していただくことが必要ではなかったでしょうか?それだけではありません。その時、助けていただくことを、自分が受け入れることも必要なのではないでしょうか?

 

それはこの人のことだけではありません。周りがいくら、背中を押そうとしていても、助けようとしても、それを嫌だと断ったら、その先に進めません。助けてあげようとせっかく、助け舟を出してくださっているのであれば、それをそのまま受け取ることも必要ではないでしょうか?それを断り続けることは、もったいですね。

 

それは中風の人もそうです。自分の足で立ち、動くことはできないでいました。だから、誰かに運んでもらわないと、誰かに動かしてもらわないと、自分ではどうにもできないのです。ただですね、この中風の人も、イエスさまのもとに運んでくれる方々にどうも抵抗していたようです。

 

というのは、その人を、男たちが、床に乗せて、イエスさまのところに運んでくるのですが、それはイエスさまのところに、無理やりに引っ張って連れ込もうとする意味でもあるのです。つまり男たちは、この人を、彼の足となって、イエスさまのもとに連れていこう、イエスさまに導こうとしている時、この中風の方にとっては、無理やり連れて行かれると受け取っていたことで、断り続けていた彼であったし、連れて行かれることを嫌がっていたのです。連れて行ってくださる男の方々に、いやもういいよ~とか、遠慮の気持ちもあったのかもしれません。

 

けれども、この男の方々は、断られても、断られても、彼を無理やりに連れて行こうとするのです。無理やりに、イエスさまの前に置こうと、導こうとするんです。それは決して悪意から出たことではなくて、何とかイエスさまのところに連れて行きたい!イエスさまの前に連れて行けば、イエスさまが、何とかしてくださるという思いでいたからです。そして、この中風の方が、自分では動けないということが、かえって、周りの無理やりを、この人に対してはできるということへと繋がるのです。

 

そしてその無理やりが、続きます。群衆に阻まれて、イエスさまのおられる家の中に運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、屋根から、人々の真ん中のイエスさまの前に、この人を床ごとつり降ろすのです。この行為も、イエスさまの家じゃない、別の方の家なのに、はがせる土レンガであっても、人の屋根をはがしていくということは、無理やりです。とんでもない行動に映ったかもしれません。

 

そんな「その人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と、イエスさまは、赦しを宣言し、赦しを与えてくださるのです。この中風の方が、ゆるして下さいとか、助けてくださいと言っているわけではありません。イエスさまの所に連れて行かれることにも、抵抗していた彼です。でもイエスさまは、この人を何とかイエスさまの前に、無理やりにでも引っ張っていきたいというその願いと、イエスさまなら何とかしてくださるという、男の人たちのイエスさまへの信頼を見てくださり、あなたの罪は赦されたと宣言くださるのです。

 

それに対して、17節からの、ガリラヤ、ユダヤの全ての村から、そしてエルサレムから、イエスさまの所に、来られていたファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスさまが神さまであるということは、認めていません。イエスさまを信頼する言葉もありません。イエスさまに対する言葉は、「神を冒瀆するこの男は何者だ。」です。つまり、彼らの中では、イエスさまが、神さまを冒瀆する男であり、イエスさまが、誰なのか?何者なのか?どんな人なのか?という思いであり、イエスさまが、どんなお方であるかが、分からないということを言っている言葉でもあるのです。

 

その一方で、彼らは、イエスさまに対して、そうは言いながらも、神さまだけが罪を赦すことができるということを、しっかりと信じて、受け入れて、そしてそこに生きているのです。神さまは罪を赦されるお方だということは、彼らの中でも揺るぎないものなのです。でもイエスさまに対して、そんなすごいことをおっしゃられるのは、なぜかというと、一言で言えば、神さまと、イエスさまとが結びつかないからです。神さまが唯一絶対のお方であり、このお方のおっしゃられることも、絶対だということは、ファリサイ派の人々も、律法学者たちも、その通りだと心底信じて、受け取っています。でも、その赦しを、目の前でされたイエスさまが、神さまのなさることと同じことをすることに対しては、神さまとイエスさまとのつながりが、分からないから、どういうことなのかもわからないのです。だからこそ、何者だ、が出て来るのです。でも、何者だ、この人はどんな人だ?という問いは、見方を変えれば、イエスさまについて、もっと知りたい、イエスさまがどんなお方なのかを、分かりたい、確かめたいという願いでもあるのではないでしょうか?

 

イエスさまは、そういう「彼らの考えを知って」分かっておられるからこそ、「何を心の中で考えているのか。」と問いながら、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

 

イエスさまが、この地上で、罪の赦しの権威を持っているお方だということを、分かっているからではなくて、分からないからこそ、知らせようとしてくださるのです。その方法が、彼らの神さまを冒瀆しているという考えによって、十字架に付けられ、その上で命を失われるという方法なのです。なぜならば、イエスさまが、十字架に付けられたのは、彼ら自身が、イエスさまを十字架に付けることを、自分たちで考え、その考えを訴え、自分たちのことを決めて、それを自分たちがしたからです。でもその彼らの考えていたことをそのまま、イエスさまは、罪を赦す神さまからの権威をもって、十字架の上で、全部受け取って下さっているんです。その上で、イエスさまを十字架に付けるということを考え、実行した彼らに、十字架の上から、祈りをもって届けてくださるのです。

 

それがこの祈りです。「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分たちが何をしているのか、分からずにいるからです」父よ、彼らを赦して下さい。この祈りは、イエスさまが、赦しのお方だということを、分かっていたからではなくて、分からなかったからです。けれども、分からなかったからこそ、分からなかった彼らのために、赦してくださいと祈っておられるのです。

 

赦すためですという讃美があります。この賛美を、ある村の教会の方々が、教会のテーマソングだとよく歌っていらっしゃいました。

 

赦すためです 主の十字架 払いきれない 死の代価

あざけられても 打たれても 祈られたのは だれのため

救うためです 主の十字架 滅ぶばかりの この命 いばらのかむり 釘の跡

耐えられたのは だれのため カルバリ山は 濡れたでしょ

主の流された 血と涙 ごめんなさいと お詫びして

従いましょう 主の招き

 

イエスさまの十字架は、ゆるすためです。そして、その赦しのイエスさまに従おうとする時、イエスさまからの「知らせよう」は、あなたがたは、イエスさまが罪を赦す権威を持っていることを知らせる、あなたがたなんだということへと、イエスさまは新しく導いてくださるのです。

 

そのために、自分で動けること、自分で考えることができること、その能力と立場が用いられていくのです。神さまに赦された、その赦しの前に、赦された恵みを、喜んで讃美できたことを通して、私たちにも、その赦しを知らせ、与え、受け取ることができた私たちをして、その赦しを、あなたがたは知らせようという方向へと導いてくださいます。

説教要旨(2月12日)