2022年12月18日礼拝 説教要旨

主があなたと共におられる(ルカ1:26~38a)

松田聖一牧師

 

アフリカのエチオピアと言う国で、出産を控えた女性の方々が、共同生活をする施設があります。「妊婦の家」と呼ばれていて、エチオピアの西南部にあるマーレという町を始め、各地にエチオピア政府が中心となって、そういう施設をこしらえています。理由として、いわゆる産婦人科での出産がなかなかできないということ、交通手段がないこと、経済的なことや、昔からの言い伝えとか慣習によって、なかなか出産を控えた女性の方々が、お医者さんにかかろうとしないし、かかることができないという現実があるからです。もう一つは、生まれたばかりの赤ちゃんの死亡率が大変高いということもあります。そういう意味で、出産を控えた女性の方々が、お互いに助け合って、少しでも安心して出産ができるように、これから出産する女性同士が、そのための準備をいろいろとしていきます。日本もかつては新生児の死亡率が高かったですから、そういう習慣があったかもしれません。いずれにしても、その施設では、初めて出産される方もあれば、何人目からの出産の経験のある方もそこにはいましたから、そこでいろいろな話、いろいろな知恵などを分かち合えます。そしていざ出産の時には、周りに人がいますし、その施設では保健師や、大きなところでは医師、看護師がいるとこともありますので、何かあった時には、できるだけの対応ができるようになります。その結果、エチオピアでは、妊娠された方、赤ちゃんの死亡率が改善されつつあるとの報告がなされています。

 

イエスさまが生まれた当時の、出産を取り巻く状況も、そうです。生まれたばかりの赤ちゃんの死亡率は大変高かったですし、出産するということは、今以上にいのちの危険と隣り合わせでした。その意味で、今日の聖書箇所のすぐ前には既に高齢だったエリザベトがヨハネを身ごもるという出来事が語られていますが、これは大変な高齢出産です。ですから、彼女のリスクも非常に高いです。ですから出産が近くなってからではなくて、ご懐妊されたその時点から、いろいろなケアが必要になったのではないでしょうか?ということから、「5カ月間身を隠していた」という意味とは、赤ちゃんが与えられて、その赤ちゃんが安定期を迎えるまでの間、エリザベトの命も、ヨハネの命も守るために、出産を控えた女性たちと一緒の共同生活をしていたということでもあるのです。その命がまずは守られた5か月間を通り過ぎた中で「6カ月目に」「天使ガブリエルは、ナザレと言うガリラヤの前に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」が、続くのです。

 

このおとめマリアの年齢は、12歳から14歳くらいと言われています。今で言えば、中学生の年齢です。でも当時の平均寿命は今とは比べ物にならないほど短かった時代とされています。きちんと統計が取られていたわけではありませんが、平均寿命は30代後半くらいか、あるいはもっと短かったかもしれません。そう考えると、12歳から14歳くらいであっても、もうすでに人生の半分近くを生きているということになるし、逆の見方をすれば、自分に残されている人生は、それほど長くないということも、当時の平均寿命からすれば、彼女自身に迫ってくるのです。そしてその残された時間の中で、次の世代へと繋げて行くこと、次の世代を育てるということも、悠長に考えられない現実も迫っているのです。そういう年齢であったマリアが、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ、すなわちヨセフと婚約中であった意味も、「ダビデ家のヨセフ」ということからうかがい知る中で、見えて来るものがあります。

 

「ダビデ家のヨセフ」ただヨセフとあるのではなくて、ダビデ家のヨセフとある意味は、ダビデ王という偉大な王さまの家系につながる子孫の1人であるヨセフということになりますから、家柄と言う言葉がそのまま当てはめられるかどうかは別として、かなり高い立場の家であったということが窺えます。その家柄の人であるヨセフと婚約中であったというマリアも、ダビデ家のヨセフに相当する家柄であったと言えるでしょう。そして別の視点は、ヨセフとマリアの婚約は、2人が恋愛して結婚しましょう、と約束する時代というよりも、家同士の婚約、あるいは親同士が2人の婚約、結婚を決めて、そして2人を結婚へと導いたとも言えます。そしてこの2人に子ども、特に男の子が与えられた時には、このダビデ家とマリアの家柄の、両方につながる子供が与えられたことになりますし、何よりもダビデ家の系統を継ぐものになります。そういう目論見、計画があったことも、当時の平均寿命の中で、ヨセフやマリアに次の世代を産み育てていく時間の長さが、今とは比べ物にならないくらいに切実に、それほどにはないということが迫って来ていた中の、いいなずけ、婚約です。何とかしてダビデ家が続くように、お家が断絶しないようにするための、切実な婚約でもあったと言えるでしょう。しかし、神さまは、そういうこととは全く別の次元から、マリアに、ただ神さまによってあなたは身ごもって、男の子を産む。その名をイエスと名付けなさいというお告げが、与えていくのです。

 

でもそれはマリアにとって、ダビデ家の系統を継ぐ者とは違う、全く違う男の子が、自分の子どもになるという知らせでもあるのです。そしてそれはマリアも、又ヨセフも含めて、それぞれの家に連なる者にとっても、ダビデ家の系統を継ぐ者が、ヨセフ、マリアからは生まれないということでもあるのです。

 

つまりこの告げ知らせは、ただ単にヨセフとマリアとの関係だけのことではなくて、ダビデ家という家柄、系統と、マリアの家柄という、両方の家同士の関係にも、とんでもないことをもたらす知らせです。そんな知らせの一番初めに、天使がマリアに告げた言葉は、「おめでとう、恵まれた方」なんですが、マリアにとって、このおめでとう、万歳!という挨拶が、どういう意味なのか分からないということと、何がおめでとうなのか?何が恵まれた方なのか?ということがさっぱり分からない中で、この言葉に戸惑い、狼狽し、かき乱されるのは、当然です。印象的なのは、この戸惑いという言葉は、新約聖書の中で、ここでしか使われていない言葉です。ここにしか使われていないということは、それほどにマリア自身が、この言葉に戸惑い、狼狽し、動揺しているわけですが、いくら困惑し、動揺する中で、考えても考えても、考え込んでも、マリアには何のことはさっぱりわからないのです。さらに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」も、もっとさっぱり分からない知らせであると共に、先に触れた通り、ヨセフとマリアだけではなくて、両家、ダビデ家とマリアの家との間にも、天地がひっくり返るくらいのとんでもないことです。

 

マリアに、男の子が生まれる、その名前をイエスと名付けることも、ヨセフにイエスと名付けなさいと言われたのではなくて、これから結婚しようとしている婚約中のマリアに告げられたことも、あり得ないことです。男の子を身ごもるという、全く身に覚えのないことであるにもかかわらず、神さまによって身ごもるということが、恵みをいただいたとは到底受け取れない知らせと、出来事が、どんなにかマリアを戸惑わせ、どうしていいか分からない状態にさせたか!想像に難くありません。

 

しかし、その戸惑わせた知らせは、神さまの側では、変更がないんです。天使を通して告げられた、あなたは神から恵みをいただいた、は、マリアがどんなに困惑し、狼狽し、かき乱していても、変わらないのです。と言う意味は、神さまから恵みをいただいたは、こちらの御都合や、こちらがどう受け止めようとも、マリアがどんなにとまどい、困惑し、狼狽していたとしても、変わることがないということです。そういう意味で、神さまからのお恵みとは、どう受け止めようと、その受け止め方に左右されるのではなくて、変わらないものであり、永遠に続くものであるからです。不変なのです。

 

でもそれを受け取る側は、受け取りたくない知らせです。受け取れない事実です。受け取れない時には、戸惑い、狼狽、困惑のトンネルが続きます。抜け出せないトンネルです。出口が見えないトンネルの中にいるようです。そういう時を、通り過ごさないといけないというのも、本当につらいです。答えが見えないし、答えがあっても、その答えに納得できないからです。でもそういう中を通り過ごさないといけないというのは、気持ちの問題だけではなくて、マリア自身にも、その身ごもった男の子、イエスさまにも、命の危険が迫る時を、通り過ごさないといけなかったからです。

 

なぜかというと、これから結婚しようとしている婚約中というのは、お互いに清さを守るということが決められていました、いくら結婚を約束していると言っても、まだ結婚前ですから、そういうことは禁止されていました。その決まりを守られなかったら、マリアは石打の刑に処せられ、公衆の面前で、石を投げつけられ、死ぬまで投げつけられていくという刑罰がありました。だからこの知らせが、本当にその通りにマリアの上になったら、マリアも身ごもった赤ちゃんも含めて、殺されなければならないのです。命を失うのです。でも神さまの側では、マリアが男の子を産むこと、その名前をイエスと名付けることも、変更なしです。でも変更がされなかったら、マリアの命も、イエスさまの命も、そのイエスさまが誕生する前に、失われてしまうのです。

 

しかし、神さまの側では、そういうことが想定されている中でであっても、変わらないんです。変わらず、男を産むこと、その名をイエスと名付けること、そして「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」こと、「彼に父ダビデの王座を下さる」こと、「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」ことも、変わらないのです。

 

どうして変わらないのか?それは神さまからの約束、神さまがおっしゃったことが変わらず与えられるときには、命の危険が迫るいろいろなことが、どんなにあっても、その命の危険が通り過ぎていくこと、そこから生きられるように、生きる道、いのちの保障を、神さまは与えて下さっているからです。

 

そして、男の子を産むこと、その名をイエスと名付けることも、そしてその子聖なる物、神の子と呼ばれることも、神さまからの約束です。神さまの約束なので、その約束は、神さまの責任において、完全に果たして下さる約束でもあります。たとい、どんなことが起こり得ようとも、どんなに戸惑い、狼狽するという時を通り過ごさなければならなくても、神さまは、そういうギリギリのところにも立ってくださって、その一番ピンチな時にも、共にいてくださるお方です。共に歩みながら、具体的な助けと、具体的な逃れの道をちゃんと用意していてくださるのです。

 

その根拠となる約束が、「主があなたと共におられる」神さまがあなたと共におられる!神さまが約束されたことは、どんなことがあっても、実現してくださる。その只中を行き交う時にも、困難を感じる時も、もうだめだ~とどうしていいか分からなくなった時にも、主があなたと共におられ、いのちの危険、いのちの危機が迫る時にも、その危険が通り過ぎるようにお守りくださり、そしてその危険が通り過ぎる時にも共にいてくださるのです。

 

あるお母さんが、男の子を出産されました。ところがその男の子は、超未熟児として生まれました。そのために地元の産婦人科では対応が出来ずに、救急で大きな病院に運ばれました。その時、出産されたばかりのお母さんはお祈りしました。「神さま!どうかこの子の命を助けてください!」必死でした。その祈りの中で、生まれたばかりの小さな命は、一命をとりとめ守られたことでした。

 

私たちには、戸惑うこと、狼狽し、困惑すること、自分自身を本当に揺さぶられることがあります。そしてそれが続いていくこともあります。これからどうなっていくのか分からないことが、続く時、その時を通り過ごさなければならない時、出口が見えませんから、大きな不安に陥ります。マリアもそうでした。しかし、そんなマリアに与えられた約束「主があなたと共におられる」の通り、神さまは共にいてくださいました。そして共におられるということの具体的なこととして、マリアを神さまが包んでくださったのでした。神さまはマリアを包み込んでくださったのでした。

 

包むというのは、その人を抱きしめ、抱き寄せ、包み込んでくださることですね。神さまの大きな手でハグされることでもあります。ハグされたことで印象的な出会いがありました。あるアメリカ人の方で、学生時代に、本当にいろいろと良くしてくださった方でした。10日間という短い期間でしたが、いよいよお別れするという時に、彼が、ハグをしてくれたことでした。アメリカの方というのは、本当に体が大きいです。体も大きいだけじゃなくて、お腹も半端なく大きいです。こんなに出ているお腹です。そんな彼が、大きな手と大きな体と、大きなお腹で、ハグをしてくれた時、包みこまれたような感じでした。そして別れ際に、「天国でまた会いましょう」と言ってくれた言葉がありました。また会えるよ!という希望の挨拶でした。神さまが「あなたを包」んでくださるとは、それ以上です。神さまの大きな無限の大きさの手で、全てを受け入れ、抱きよせ、抱きしめて、包み込んでくださる、それが神さまの、あなたと共におられるこの約束と共に与えられている、真実です。こちらがそうは受け取れない時にも、神さまはいつも「主があなたと共におられる」この真実を与え続けてくださっています。

説教要旨(12月18日)