2022年12月11日礼拝 説教要旨

この喜ばしい知らせ(ルカ1:5~25)

松田聖一牧師

 

いろいろな物事にはタイミングというのがありますね。タイミングがぴたっと合うと、物事が前に向かって進んでいきますが、逆にタイミングが合わないとなかなか前に向かってはいきません。それはいろいろなことに言えるのではないかと思いますし、神さまの与えてくださるタイミングというのも、そうですね。神さまの時というのがあります。その時でなければ、いくらこちらがしゃかりきにやっても、前に向かってはいかないですね。

 

それは祭司ザカリアが、神さまの御前で祭司の務めをするということもそうです。というのは、祭司ザカリアについて、「アビヤ組の祭司」と紹介されていることと「自分の組が当番」であったというタイミングと関係するからです。具体的には、アビヤ組というのは、神さまの前で礼拝をささげる時の、当番の1つの組のことです。この時、どれだけの組があったのかというと、アビヤ組も含めて24組あり、その24組ある組がだいたい1週間交代で、神さまの御前で、祭司の務めをする順番が、回ってくるわけですが、今回、その務めにアビヤ組があたったので、そのアビヤ組に属する祭司、ザカリアが、神さまのみ前で祭司の務めをしていたということなんです。

 

ここで、この1週間交代ということについてですが、1週間とは、朝から夕方までの1週間ではなくて、24時間ずっとの1週間です。1週間の内1日は休むとか、そういうことはありません。1週間徹夜の連続です。そして「祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」とあるのも、ザカリアは1週間ずっと神さまの礼拝の場所、神さまがここにおられるという聖所と呼ばれる場所で、1週間ずっと香をたくということをし続けて行くのです。そういう意味で、このザカリアについて、「既に年をとっていた」とありますから、相当年齢を重ねているにも関わらず、ザカリア一人で香をたくということをしていることは、すごいことです。お年を召されているのに、大変な激務ですから、大丈夫かなと思うくらいです。しかしザカリアは年齢を押して、神さまに礼拝をささげるということを、その生涯の終わりに差し掛かったこの時、神さまに選ばれたことを感謝しながら、1週間に及ぶ務めをしようとしていたのではないでしょうか?それにしても、どうしてそんなことができるのか?と思われるでしょう。それはザカリアが超人的な体力を持っていたからとか、特別な体をいただいていたということ以上に、ザカリアも含めて、その奥さんのエリザベトも「神の前に正しい人」であったからです。というのは、「正しい人」とは、神さまの義をいただいている事実、義とされた事実と結果をいただいている人と言う意味だからです。つまり、ザカリアも、エリザベトも、年を重ねていた事実は、その通りですし、完全な人ではないし、年齢も、それに見合う体力も、精神力も、若い時とは違うという事実が確かにあります。でもそうであっても、神さまから、義とされた、神さまから良し、とされ、神さまから完全にゆるされ、完全な愛で愛されてきた事実を、ザカリアもエリザベトも、お互いに受け入れながら、神さまに向かって歩んでいたという事実があったからではないでしょうか?

 

じゃあそれで何もかも、幸せに感じられることばかりがあったのかというと、「しかし、エリザベトは不妊の女だった」妻エリザベトには子どもを産むということができなかったという事実でした。要因はいろいろあったと思いますが、いずれにしても、赤ちゃんを産むことができなかったということ、お母さんになれなかったという事実は、エリザベトにとって、言うに言えない苦しみ、悲しみであったでしょうし、その辛さも背負い続けていたのではないでしょうか?そして年を重ねて来た彼女でしたが、それでもなお、神さまに忠実に従おうとし、神さまから完全にゆるされ、義とされた事実があったという意味で、「しかし」があるのです。それもまた、このご夫婦の置かれた事実であるんです。

 

私たちにとってもそうですね。神さまがいつもお恵みをもって支えて下さっています。たくさんのお恵みがあります。しかしその中で、お恵みとは感じられないようなことも、ないのではなくて、大なり小なりあります。そういう意味で、たくさんの感謝の中でも、しかし、と言わなければならないこと、しかし、と思ってしまうことが、それぞれにあるのではないでしょうか?

 

それはザカリアが(10)香を焚いている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現われ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いが聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」との知らせもそうです。この知らせは、もろ手を挙げて喜べることだったのかというと、少なくともザカリアにとっては、喜べるどころか、それを否定していくのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」素直に受け取れてはいないのです。でもザカリアは、妻エリザベトが赤ちゃんを産めるようにと、ずっと祈ってきましたから、この知らせは、祈っていたことが実現するという約束です。それなのに、そんなことがあるはずがないということと、その理由を、自分が老人であり、エリザベトも年をとっていること、男の子を産むことを知る手段がないということを答えていくのです。

 

でも天使が告げた内容は、「あなたの願いは聞き入れられた」ですから、祈って願っていたことが実現したという約束です。それはザカリアにとって、大きな喜びのはずです。多くの人もその誕生を喜ぶということもその通りです。でもこの時、ザカリアにとっては、その誕生の知らせが、喜べなかった、むしろそんなことはないと否定していく、その具体的な理由は分かりません。ただ言えることは、本当は喜びなのに、喜ぶべきことなのに、それを心から喜べない、それを否定したい何かがあったからです。ザカリア自身の年齢もその1つだったかもしれません。自分が年老いて初めて父親になれたとしても、これから先のヨハネの成長を見届けることができないのではないか?ヨハネをちゃんと育てられないうちに、天に召されるのではないか?もう子育てをするような年齢ではないということから来るいろいろなことがあったのかもしれません。

 

でもそういうザカリアに向かって、天使を通して告げた神さまからの約束は、ヨハネがこれからどんなに神さまから託された素晴らしいことをしていくか!主の御前に偉大な人となること、既に母の胎内にいるときから聖霊に、神さまに満たされていること、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせることといった、偉大な働きを、「主に先立って行」く人となっていくことなのです。それはヨハネが神さまとバラバラに働くという意味ではなくて、彼と主という、それぞれのもともとの言葉には、同じ言葉が使われていますから、主に先立って行くヨハネと共に、主がヨハネと共におられ、神さまと共に、神さまに先だって行くということなのです。その歩みの中で、「父の心を子に向けさせていくのです。」父の心を子に向けさせ、とは神さまの心を、イスラエルの子らに向けさせていくということと、神さまの心を人々に向けさせていくということと共に、父親の心を、その子供に向けさせていくということでもあるのです。

 

父と子の関係というのは、様々ですね。お父さんと子どもとが仲がいい場合もあれば、その反対もあります。母親と子供との関係とは、また違いますね。なかなか父親と子どもとの対話が成り立つかというと、なかなかそうではないことも多いですね。だいたい子供は、自分の思っていることを、まず母親に言うということが多いように思いますし、病気になった時にも、ピンチな時にも、言う言葉は、お母さん~ですね。お父さん~とはなかなか言わないです。それは父親が嫌いということではなくて、母の胎から生まれたということから来るとも言われていますが、父と子の関係とは、どこかそういう関係になりがちだからこそ、ヨハネが神さまと共に、神さまにその心を向けさせ、悔い改めということへと導かれる時、漠然とではなくて、具体的に、父の心を子に向けさせていくということを通して、神さまへと向きを変えて行くということを導いていかれるのではないでしょうか?

 

なぜならば、神さまに向きを変えるというのは、ある意味で漠然としているからです。神さまは目には見えませんから、目に見えないということは、漠然としているということも言えます。だから神さまに祈ったらいいですよ~とお伝えしても、どっち向いて祈ったらいいんですか?という問いが返って来ることがあります。どっちむいて祈ったらいいのか分からない、というのも、神さまが目に見えないお方だからです。だからどっちを向いたらいいの?という問いは、自然な問いかけだと思います。そういうことですから、神さまへと向きを変えるということの具体的な一つに、父の心を子に向けさせていくという具体的なことがあるのではないでしょうか?

 

でもそれが素直にできるかというと、そこがなかなか難しいと感じることが多いと思います。それでもその心を子に向けさせようとするとき、父も、子も、それに逆らうこともあるし、素直になれないこともありますね。神さまは、父というのは、そういう存在であるということを知っておられるからこそ、「準備のできた民を主のために用意する」すなわち、土台を破壊された民を主のために用意するとおっしゃられるのは、父であっても、どなたであっても、本当に自分自身を神さまに向かって、向きを変えるということへと導かれる時には、その人の土台が破壊されるくらいの大きなことがないと、なかなか神さまへと向きを変えることができないということではないでしょうか?

 

なぜなら自分の土台が破壊され、自分が自分でなくなるほどにならないと、言い換えれば、自分が頼りにするものが何もかもなくなってしまわないと、神さまに向きを変えざるを得ないというところへ向きをなかなか変えようとしないからです。それくらいに人は、頑固にできていますし、いろいろなものに凝り固まって、ぬりかべのようになっていますから、そんな簡単に向きを変えるということが、そもそもできないように、自分で自分を固めているからです。

 

だからザカリアも、神さまに祈り続けてはいましたが、でも年齢を重ねるうちに、体も固くなり、心も固くなり、ますます頑固と言いますか、その人の、本当の姿が出て来るんです。その土台を破壊されようとした時には、逆らおうとしたり、そこから逃げていこうとすると思います。壊されるのは、いやだという気持ちがどこかにあるからです。だからザカリアも、天使の告げていることに対して、抵抗するんですね。

 

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」神さまがいくらヨハネが生まれるということを約束しているのに、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、納得できないこと、受け入れられないことの理由として、年齢的に到底無理ということはその通りであっても、年をとったということを出していくのです。年をとったと言えば、それが理由になるという理屈ですが、不思議なことですね。1週間、神殿で香をたくという激務には年をとったなんていうことは口にしていないのに、ここでは老人とか、年を取ったとか、そういう理屈をつけていくのです。つまり自分にとって、年を取ったという理由をつけるときと、やりがいのあること、光栄に感じることには、年を取ったということを理屈に出さないのです。

 

そんなザカリアに対して「あなたは口がきけなくなり、このことが起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われたたことで、口がきけなくなってしまうのです。しゃべれなくなるのです。それは口だけではなくて、この言葉には、耳も不自由になるという意味がありますから、口も耳も不自由になったことで、自分の土台が破壊され、壊され、自分が自分でなくなるほどのことが起こるのです。

 

30代の後半ですが、突発性難聴になったことがありました。神学校のリフレッシュコースという学びの機会があり、そこに参加している時に、突然耳鳴りがして、難聴になってしまいました。リフレッシュするはずが、リフレッシュどころではなくなってしまいました。それから3カ月間は、聞こえにくいだけではなくて、右から聞く音と、左から聞く音では、音の高さが違う聞こえ方になり、その違う音が、頭の中で一緒になりますから、讃美歌を歌っていても、何をしていても、起きても、寝ても、とにかく不協和音が頭に鳴り響いていました。気持ちは悪いし、自分がしゃべる声も、とにかく気持ち悪いことでした。そういう時には、何もできなくなるんです。考えることもできなくなり、とにかくそういう日々で、いつこの気持ち悪い状態が終わるのか?それが、見えない中で、不安になったことでした。そういう状態から、癒されるきっかけとなったのが、カトリック教会の黙想の家というところに婦人会の方々と出かけた時のことでした。その場所に向かう途中も、頭の中でわんわんと鳴り響いて、ふらふらになりながらでしたが、現地に到着して、一緒に聖書を学びました。その中で、ご婦人の方々は、とにかくおしゃべり好きです。あっちからこっちからと、いろいろな声が飛び交います。でもその場所は、黙想の家ですが、そういうことがお構いなしに飛び交う間も、ワンワンと頭の中で響いていました。これは大変だなと思いましたが、それが終わってから、帰り道の途中で、治っているということに気づかされたのでした。カトリック教会がすごかったというよりも、神さまが、その場所でのいろいろなことの中で、癒してくださったのでした。その時は、本当にうれしかったです。聞こえるようになること、右から聞こえる音と、左から聞こえる音が一緒になれたということは、安堵したことでした。そのことを通して、難聴というのは、見た目には分からないことですから、周りの方々にはなかなか分かっていただけにくいということと、痛みもそれと似ていることに気づかされたのでした。痛いという痛みは、目には見えないですね。でも痛い時には、見た目には分からなくても、痛いですね。そういう意味で、突発性難聴も、見た目では分からないいろいろな辛さを抱えておられることが、どういうことかに、少しだけ気づけるきっかけとなったのでした。

 

ザカリアはしゃべれなくなりました。耳も不自由になりました。それはザカリアが「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」ということも、その通りです。でもそういう自分の土台が壊されるような出来事を、与えていかれることによって、確かにしゃべることができなくなった、自分では何もできない、何も言えないという無力さの中で、神さまがしてくださる素晴らしいこと、その実現されたことに対して、年を取ったとか、老人だとか、あれこれ理屈をこねるということが言えなくなったからこそ、素直にさせられていったのではないでしょうか?

 

神さまから与えられる恵み、喜びというのは、本当は受け入れたくない、逆らいたいと思うことであっても、それであれこれと理屈をこねることがあったとしても、それをできなくさせていくことを通して、また自分自身のこれまでの土台が破壊されるという辛い出来事を通しても、与えられるお恵みであり、喜びです。喜びとは、英語で、エンジョイって言いますね。このエンジョイという言葉は、2つの言葉から成り立っています。それはエンと、ジョイです。その意味は、喜べない中に、喜びのないところに、喜びを入れていくこと、喜びのなかったところに、喜びが入っていくことです。神さまが与えて下さる喜び、ザカリアや、エリザベトに与えて下さった喜びとは、喜びのないところに、喜びのなかったところに、喜べる喜びを入れて、与えて下さったから、喜べるようになっていくんです。この喜ばしい知らせとは、そういう喜びです。今日も、そしてこれからも与えられています。

説教要旨(12月11日)