2022年11月20日礼拝 説教要旨

自分を受け入れて(ルカ23:35~43)

松田聖一牧師

 

阪神大震災の際、神戸市内は至る所で火災が発生しました。特に火災の被害が大きかったところは、長田区というところでしたが、灘区にあった水道筋商店街にもあちこちで火の手があがりました。でも水道管は壊れていて、消防が駆けつけ、消火しようとしても水が出ないのです。そのために火を消すことができませんでした。その当時、消火にあたろうとしていた消防士の方から、震災の一年後にその時のお話を伺った時、ただ茫然と立ち尽くすしかない中で、本当に何とも言えなかった~と、言葉を詰まらせながらおっしゃっていたことが焼き付いています。それはそうですよね。消防士なのに、何もできなかった・・・火が出ているのに、水がなかった・・・火を消そうとする手段がなかった・・・どうすることもできなかったとは言え、忘れることができないのです。

 

そのように、目の前で起きていることに対して、何もできない、手も足も出せないことが、あります。そういう時、自分の無力さを感じます。どうすることもできないという自分に打ちのめされていくようなことでもあります。

 

イエスさまを取り巻く民衆もそれに重なります。イエスさまが、捕らえられ、あざ笑われ、自分を救ってみろ、自分自身を救い出せ、救いを与えよと嘲笑する議員たちに対して、そして兵士たちの、イエスさまに向かって酸い葡萄酒を突き付けながら、侮辱し、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」という言葉を浴びせていったときも、民衆は十字架に付けられるために引いて行かれたイエスさまに、嘆き悲しむ婦人たちと一緒に、イエスさまに従っていくだけでした。イエスさまが十字架にかけられることに対して、抵抗することも、何もできませんでした。ただ嘆き悲しむ婦人たちと一緒にイエスさまに従う中で、「立って見つめていた」単に見たのではなくて、見つめていたのでした。

 

不思議なことですが、この時、議員たち、兵士たちのイエスさまに対する言動を見る時、まずは議員たちの、イエスさまに対する「もし神からのメシアで、選ばれた者なら」と言う言葉も、イエスさまがもしも神さまからのメシア、救い主であったなら、という仮定のことを言っているのかというと、実はイエスさまに対して、神さまからのメシア、救い主で、選ばれた者であることを、認めている言葉でもあるのです。ですから、こうも言えます。神さまからのメシア、救い主であり、選ばれた者なのだから、と、議員たちは、十字架にかかられたイエスさまを、あざ笑いながらも、救い主であると認めているのです。それは兵士たちも同じです。「お前がユダヤ人の王なら」も、お前がユダヤ人の王なのだから、とイエスさまが、王であることを認めているのです。つまり、議員たちも、兵士たちも、イエスさまに自分を救うがよいとか、救ってみろと、単にそれだけを言っているのではなくて、イエスさまは自分を救うことができるお方であることを、実は彼らも認めているのです。

 

そして、兵士たちの酸い葡萄酒を突き付けるという行為も、イエスさまに祈り、イエスさまに向かって礼拝をささげるという意味の言葉が使われているのです。つまり、イエスさまに向かっての礼拝をささげているということになりますが、しかし、そういう祈りと礼拝をささげるという行為を示しながらも、イエスさまを侮辱しているのです。ということは、表向きはそういうそぶりを見せてはいても、事実はイエスさまに祈っていないし、イエスさまを礼拝しようともしていません。そこにはイエスへのいろいろな思いがあったからだと言えます。

 

ではその言動は、何の意味もなさないということなのかというと、議員たちや兵士たちの屈辱的な言動であることは間違いありませんが、それらの言動の向かっていく先は、救い主イエスさまです。でも、言っていることなどは、無茶苦茶です。しかし無茶苦茶なことであっても、すべてがイエスさまに向かっている中で、「民衆は立って見つめていた」ただ単に見ていたのではなくて、イエスさまを観察し、見物し、見て知ったとの姿は、議員たちや兵士たちのような、屈辱的ではないけれども、イエスさまに対して、何もできなかったこの民衆も、その目はイエスさまに向かっているのです。

 

つまり、イエスさまに対して、何をしたか、何をしなかったかということでは、それぞれの立場の違いはあっても、置かれたところでイエスさまに向かっているという意味では、同じです。イエスさまに向かうということからは全くずれてはいません。そんな中で、イエスさまの十字架が立てられ、そこに十字架があるのです。

 

このことを別の視点から見る時、議員たちも、兵士たちも、そして民衆も、その言動も含めて、イエスさまの十字架に向かって、用いられているということでもあります。というのは、議員たちや、兵士たちの言動、そして民衆は、神さまが既に約束されたことの、実現でもあるからです。その証拠として言えることは、この一連の聖書箇所は、ルカによる福音書ではありますが、同時に、この福音書の1つ1つの御言葉の背後には、旧約聖書詩編とか、イザヤ書、創世記において神さまが約束された約束が、あるからです。そしてその約束の実現のために、それぞれが用いられていることに繋がるのです。でもそのご本人たちが、神さまが約束された通りに、用いられているという意識があったのかというと、なかったと言えます。けれども彼らがそういう意識はなくても、神さまの、イエスさまにおける救いの約束の実現のために、用いられている格好です。

 

ここから言えることは、神さまに用いられるというのは、私は用いられています!という意識がなくても、用いられる時には、用いられているということです。そういう用いられた感と言いますか、その実感のあるなしに関わらず、神さまは、私たちをいつも、私たちが気づかないところでであっても、用いていてくださるのです。

 

ある日曜学校でのことでした。来ている子どもの1人に、何を言っても言うことを聞かない男の子がいました。とにかくじっとしていないんです。落ち着きはないし、話を聞こうともしないし、本当に手を焼くという感じでした。その子は、ある時、日曜学校の礼拝が終わった後、今日は誰が来ている?何人来ているかな?と聞きました。すると、礼拝堂中をバタバタ~と走り回ったかと思うと、礼拝堂にある椅子を次から次へと叩き始めました。それを見た瞬間、またいつもことが始まった!とこんなことを聞かなきゃよかったと思った、その時でした。全部の椅子を叩きながら、大きな声で、全部~と言い始めたのでした。その時、この子は、並べた椅子全部に、人が座ってほしいと思っているんだ、全部の椅子に、人が腰をかけて、一緒に神さまを礼拝したいんだと思いました。はっとさせられました。でも、そのことを本人が覚えているかどうかは分かりません。でも本人の意識、自覚はなくても、神さまが用いて下さる時には、たといその行動が、奇異に映るものであっても、無茶苦茶に感じることであっても、用いられています。なぜならば、それが無茶苦茶なことであっても、それが実現しているということが、神さまの赦しの中にあるからです。神さまが赦して下さっているから、それが出来ていくのです。たといイエスさまに対して屈辱的なことであっても、自分が何もできないという無力さを感じていたとしても、それが出来ているということ自身に、神さまの赦しがあるので、それもまた用いられているのです。

 

そういう意味で、十字架にかけられていた2人の犯罪人もそうです。十字架にはりつけにされた状態です。手や足を十字架にくぎで打ちつけられて、身動きが取れません。もはや十字架の上で、衰弱死するばかりでしかありません。全く抵抗できません。

 

その犯罪人の1人は、イエスさまに向かって「お前はメシアではないか」と言う言葉は、イエスさまが救い主ではない、全然違うということを言っているのかというと、全く逆で、お前はメシアだ!という告白でもあるのです。確かにイエスさまを十字架の上でののしりました。悪口を言っています。冒とくしていますし、けなしています。でも無茶苦茶なことを言っていても、彼自身の口から出た言葉は、お前はメシアではないか!お前は救い主だ、ということなのです。それに対して、もう1人の犯罪人からは、たしなめられます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と、神をも恐れないのかともう一人に、怒鳴りつけながら言っていくのです。この二人がこれまで友達だったのか、どういうつながりがあったのか?犯罪人同士仲間だったのか?具体的には分かりませんが、イエスさまが、今ここにおられることに対して、神さまを恐れなくちゃいけない!ということと、イエスさまが、何も悪いことをしていないということをも、ここではっきりと言い表されているのです。ということは、この2人の犯罪人も、何もできない状態の中で、イエスさまが神さまであり、救い主であること、イエスさまが何も悪いことをしていないということを、自分の口から告白していることは、最後の最後で、信仰告白をしていることでもあるのです。

 

そういう告白と共にあるのは、自分をあるがままさらけ出していることと、同時にそれは、そういう自分であることを、自分自身が受け入れているということでもあるのではないでしょうか?

 

侮辱することも、ののしることも、怒鳴り散らすことも、それはとんでもない姿であるかもしれません。でもそれが本当の姿であるから、それをここでイエスさまに向かって、さらけ出すことができたのは、ここにも身動きが取れないでいる、自分であることを、受け入れざるを得なくなっている状態であっても、その2人の真ん中に一緒の立場に立って、十字架に付けられているイエスさまが、共にいてくださったからです。そしていろいろとぶつけて行く彼らをも、イエスさまは十字架の上で、全部受け入れているからです。

 

ある家庭集会にずっとこられていた村の区長さんがおられました。家庭集会には欠かさず、熱があっても、風邪をひいていても、ご病気になっても来られていた方でした。

 

その方に、ルーテルアワーのラジオ放送の働きをされた先生を迎えての教会の礼拝に誘われたことがありました。そしてその日礼拝に、区長さんが来られま

した。そしてその後の昼食の時にもご一緒されて、メッセージをされた先生に、いろいろと尋ねられ、先生はそのことに答えて下さって、こうおっしゃったのでした。「亡くなる前に、ひと言、イエスさまと言いなさい!そうしたら救われる!大丈夫だ!」そんなことを言われたやり取りの中で、区長さんが、こうおっしゃられたのでした。

 

「わしは、今日宗教行事やいろいろな予定がありましたけれども、お誘いを受けて出席することができました。でもそれは誘ってくださったからとは違う。誘ってくれる人を支えておられるお方に引かれてここに来ることができました~」それを聞かれた誘った方は感激してしまいました。誘ってくれたからじゃなくて、誘ってくれた人を支えておられるお方に引かれてここに来ることができた~そのことを感謝して、こんな言葉にされていました。

 

本当に感謝です。神さまは私たちのいまわの際迄、赦しと救いの手をもって、わたしはここにいる、ここにいると呼び求めてくださいます。神さまは私たちには見えませんが、いつも愛と祝福をもって支えていて下さると確信をもって、この家庭集会を続けてまいります。

 

この区長さんは、後に病を得、召されていかれましたが、召された後、ご家族をお訪ねした時、家族の方から、うちのおじいさんは、家庭集会を本当に楽しみにしていました~そして最後に出かけた時の、あの満面の笑顔を忘れることができません~本当に喜んで、喜んで、家庭集会に出かけていました~その言葉を伺いながら、神さまは最後の最後までずっと共にいて、導いてくださったのだと受け取れることでした。

 

イエスさまは、最後のところでであっても、手放したりは、決してなさいません。最後の最後まで、ずっと共にいてくださいます。それが共にそこにいた一人に向かって言われた言葉「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」この約束がありました。この犯罪人も、洗礼を受けたわけではありませんでしたし、そういうことはもうできない状態でした。でもその彼も含めて、イエスさまは2人の真ん中に一緒にいてくださり、何も悪いことはしていないのに、同じところに立ち続けてくださいました。そして「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」あなたと一緒に神さまがおられるところに、私と一緒にいると約束してくださった、その約束通りに、いろんなことを言いながらも、それでもイエスさまに、人生の最後のところでイエスさまに向き合い、何もできない自分であるということも、受け入れざるを得なくなった中で、自分を受け入れて下さるイエスさまが、共にいてくださいました。その出会いが、最後の最後のところにも与えられていました。

 

自分を受け入れること、それは自らの力で受け入れるということ以上に、何もかもを受け入れて下さるイエスさまが共におられることを、受け入れてこそ、与えられていきます。その時、イエスさまから「今日あなたは私と共に楽園にいる」との約束が、与えられているのです。

説教要旨(11月20日)