2022年11月13日礼拝 説教要旨

生かされてある日々(ルカ20:27~40)

松田聖一牧師

 

神さまの言葉、神さまが命じておられ、お語り下さっている言葉すべてにある目的と意味の1つは、何よりもまず、私たちを守り、支え、大切にするために与えられているものです。それは、私たちが神さまの道からそれて、離れて、それによって苦しみ、迷わないように、神さまはいつも、ここが道だ、ここを歩めとおっしゃっておられるのです。その1つに、申命記25章5節にこうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は、家族以外の他の者に嫁いではならない。亡き夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名が、イスラエルの中から絶えないようにしなければならない」この意味は、何よりもまず、その兄弟の中の1人と結婚された妻が、その家族の中で、守られるためです。妻だったその人を、ご主人をなくされた女性、未亡人のような弱い立場に追いやるのではなくて、またその奥さんの実家に帰らせるのではなくて、しっかりとご主人の家族全体で受け止めて、受け入れて、守っていくために、その家族の中で、亡き夫の兄弟と結婚するようにと命じられるのです。その結果として、その家族の名前が絶えることなく祝福されていくのです。まず子孫を残すために結婚せよ、というのでは、全くないのです。まずはご主人を亡くされた彼女を守るためであり、彼女のこれからを守り、導くためでもあるのです。

 

ところが、サドカイ派の人々は、まったく別の受け止め方をしています。それがイエスさまに、「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、7人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、7人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。7人ともその女を妻にしたのです。」と尋ねる言葉に現れているのです。

 

この問いの内容は、7人の兄弟がいて、長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、7人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にこの女も死にましたという、彼女が結婚した7人の兄弟が、次々と死んでしまい、その度ごとに、その妻は、次々とその兄弟と結婚し、その兄弟がおられる限り、その結婚が続くのです。こうした結婚を、順番の結婚と言う意味で、順婚、レビレート婚と呼ばれています。

 

そして最後にこの女も死んだとき、「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。7人ともその女を妻にしたのです。」と復活の時に、誰の妻になるのかということを、イエスさまに尋ねるのです。

 

このことを尋ねているサドカイ派は、復活があることを否定しています。だから、復活の時に、みんな復活してしまったら、何度も結婚されたこの妻は、誰の妻になるのかという問いは、イエスさまがおっしゃっておられる復活なんて、あるはずがない、あったら困るじゃないか、この妻は7人の兄弟とそれぞれ結婚したのだから、だれの妻になるのか?彼女はどうなるのか?といった難癖をつけ、イエスさまに迫り、復活を否定しようとする問いであり、そのために、本来、主人をなくされたその妻を守るために、与えられている神さまの言葉を、自分たちの復活はないという考えに照らし合わせて、都合の良いように、利用していく問いでもあります。

 

それはそうなのですが、そもそもこの問いを、サドカイ派の人々がイエスさまにするのはなぜでしょうか?復活はないということを固く信じ、信条としているのですから、私たちは復活はないということを信じていますと、宣言すれば、それでいいのではないでしょうか?わざわざイエスさまに難癖のような問いをつきつけなくても、私たちはこうだ、復活はないということを表明すれば、それでいいわけです。

 

でも復活の後、次々の結婚し、死に別れたその妻は、誰の妻になるのでしょうかという問いは、この妻だった彼女の行く末を問う問いというよりも、これはサドカイ派自身のこれからのこと、自分たちがこれからどうなっていくのか?やがては召されるその時が来た時、自分たちがどうなっていくのかを、知ろうとした問いでもあるのではないでしょうか?つまり、彼女のこれからを尋ねていながら、自分たちの問い、私たちはこれからどうなっていくのですか?そういう問いかけをそこに重ねているのです。

 

なぜそう言えるのかというと、復活があることを否定するという意味から言えることがあります。というのは、復活と言う言葉には、立ち上がるとか、倒れていたものが起き上がるとか、過去からこれからの事が新しくされるとか、全く新しく始まるということが含まれます。それを否定するということですから、過去から未来に向かうということを、否定することになりますから、サドカイ派の人々も、これからという未来が描けないだけではなくて、これまでという、過去にとらわれてもいるのです。

 

それと同じことが、私たちにもあるのではないでしょうか?これまでという過去にとらわれてしまうこと、過去の出来事に引きずられてしまうことも、なくはないですね。本当に嫌だったこと、辛かったこと、悲しかったことなどは、それが深いものであればあるほど、どうしてもそれに引きずられ、振り回されてしまいますね。これからを描けなくなり、過去に閉じこもってしまうこともあります。それは辛くて、大変です。

 

そういう同じような過去を引きずっておられる方々同士で集まって、お互いの体験を語り合う場というものもあります。教育テレビで、以前あった番組にしゃべり場というものがありました。それは若い子たちの集まりでしたが、自身が経験したこと、そういう自分を受け入れられないでいること、それで悩んでいること、今自分が考えていることなどを、同じ世代の者同士で語り合います。結論を出す集まりではなくて、お互いの思いを出し合って、そしてそれをそうだったんだ~それはあるある、僕にも、私にも・・・とお互いにそれぞれが受け取っていく場になります。そういう同じような、似た経験を持っている者同士で集まって、答えを出す場ではないけれども、お互いに分かち合い、経験を語る場は、必要ですし、大切な場となります。なぜかというと、自分の口から、こんなことがあった、こんなことで辛かった、悲しかった、自分を否定していることも含めて、お互いに内容は全く同じではないけれども、似たものを抱えている者同士だから、お互いに理解しやすいわけです。そういう相手だから、自分が抱えていた思いに、言葉を添えやすくなります。反対に、思いを持ち続けて、それを言葉に出せないでいると、本当にそれは辛いことです。でも言葉にすることで、少しずつ整理できるようにもなるでしょうし、自分の中で、いろいろな気づきも与えられていきます。そうすることで、すぐにどうこうなるということではなくても、少しずつでも、過去から解放されていく方向に向かっていきます。

 

サドカイ派の人々が、復活があることを否定するのは、復活があることを、彼らの過去からずっと否定され続けていたからです。否定する思いが、生まれた最初からあったわけではなくて、途中から、刷り込まれていったからです。それが繰り返されたことで、復活があることを否定するという選択しかできなくなってしまい、そういう意味で、過去に受けたことから解放されないでいるのではないでしょうか?

 

それを彼らは、彼らなりに、イエスさまに難癖をつけたかのようではあっても、言葉に出しているのです。一人でそれをしたわけではなくて、何人かの人々で、言葉に出せていくのです。確かにこの問いは無茶苦茶な問いであるかもしれません。けれども、その問いを、イエスさまに向けて言うことができたのは、そこにイエスさまがいてくださって、その問いを、しっかりと受け取って下さっているからです。

 

そして彼らが、受けて来たこと、モーセはわたしたちのために書いています。と言う内容について、イエスさまは、同じモーセが示している、死者の復活について、モーセも示していますと語りながら、神さまが本来与えて下さっている意味を、彼らにとっては新しい答えとして、返して下さるのです。この時、イエスさまは、サドカイ派に対して、あなたたちは間違っていると頭ごなしに否定していないことです。もちろん彼らの「その女性はだれの妻になるのでしょうか」には直接答えてはいませんが、頭ごなしにダメだという答え方ではなくて、彼らがイエスさまに尋ねている根拠となるモーセを引き合いに、実はモーセも死者の復活について別の所で示しているよと、説明、説き明かしてくださっているんです。

 

このやりとりは、大切なことを教えてくれますね。それは自分と考え方が違う場合に、どう答えるかということです。頭ごなしに、違う!という答え方もありますが、それはよっぽどお互いに信頼できていないと、考え方の違いを言われただけで終わりません。全部否定されたかのように受け取られますから、頭ごなしに否定することは難しいですね。もちろん是は是、非は非、という是々非々ではあっても、違うと感じることを、どう受け止めて、どう返していくかという時、自分にとっては正しいと思うことも、相手にとっては、正しいとは受け取れない場合があります。それでも正しい~とごり押ししてしまうと、相手のその方の、その考え方だけではなくて、全部を否定してしまうことになりかねません。そういう意味で、イエスさまのサドカイ派の方々に返していく、返し方は、本当に、彼らにとって、その違いは大きな違いだけれども、寄り添いながら正しいこと、神さまが本来教え、示していて下さることを伝えようとしておられるのです。

 

それが「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と答えた、その答えに、あるのです。すなわち、イエスさまは、サドカイ派の人々がかつて教えられ、刷り込まれてきた教えについて、彼らを否定するのではなくて、彼らが聞いてきた、教えられてきた、過去のことについて、実はモーセもそうだったんだ、だから柴の箇所でというのは、モーセがそれまではいていた履物を脱ぐように、脱ぎ捨てるように言われたところであるのです。

 

それは神さまが語り掛けられる聖なるところだからということと、モーセ自身も、自分が40歳の時、とんでもない出来事をしてしまったという過去を、脱ぎ捨てるということへと導く言葉でもありました。そこからモーセは新しい出発をすることになるのです。それはイスラエルの民をエジプトから導き出すという、壮大な出エジプトの出来事が、80歳になったモーセのこれからに、与えられていくのです。80歳から120歳までの、40年の始まりがこの柴のところにあるのです。そういう形でイエスさまは、実はモーセもサドカイ派の人々と同じように、これまで受けて来た過去にとらわれていたものがあったんだ~モーセにも同じことがあったんだよ~ということに触れながら、神さまは過去にとらわれるお方ではなく、生きている者の神であり、生きている者に、これからを与えて下さるお方であり、生きているその人、その人に、これからのことについて、思い描けるように、導いてくださる神さまであるということなのです。

 

今生きている人の神さまでいらっしゃることを、イエスさまは、今生きているサドカイ派の人たちにも伝えて行くのです。

 

過去に留まる生き方ではなくて、これからを与えるために、今生きている者に、神さまが生きていること、神さまによって、生きていることを、今置かれたところで、今ここで現わせるように、導いてくださるのです。

 

イソップ物語の中に、こんなお話があります。ある町に男らしくないといって、いつも人々から非難されている競技者がいました。彼はあるとき、他の町に旅に出かけました。しばらくして帰ってくると、ほらを吹き始めました。「俺は他のまちまちでしばしば堂々と競技をやった。」それを聞いていた人の中から、こんな声が挙がりました。それがこの言葉です。「だが君、もしそれが本当なら、何も君は証人を必要としないだろう。ここがロードスだ。さあ、ここで跳んでみたまえ」

 

この言葉を、見知らぬ地での活躍を放言したことに対して、心を打たれ、感心した人もいたかもしれませんが、でもそういうことではなくて、ここがロードスだ、ここで跳んでみたまえ、という意味と目的は、今置かれたところで、いろいろなものを抱えながらも、それにとらわれることから、これからを与えて下さる神さまは、ここがわたしの置かれたところだ、ここで踊ろう、ここで生きてみよう、ここでやってみよう、ということへと導かれるお方でもあるのです。でもその時、わたしにはできないとか、あの人のような能力はないとか、あの人がいるからできないとか、こんなところは嫌ですとか、というつぶやきを、ついついしてしまうかもしれません。過去にとらわれて、これからを描けなくなることもあるでしょう。でもここが私の置かれた場所だ、ここで踊ろう、ここで跳んでみよう、ここを神さまが与えて下さった場所として受け入れ、そういうことなんだから、神さまが与えた場所にしようじゃないかと、自分の描いたこれからに夢見ることから、神さまの与えて下さったこれからのために、今、与えられている現実の中で、ここで踊ろう、ここで跳んでみようとしていくこと、結果がついてこなくても、今ここでやってみようということが、生かされている者に与えられていくことではないでしょうか?

 

その連続が、生かされてある日々になっていきます。今置かれたところから離れるのではなくて、今置かれたところで、これからを与えて下さる神さまに出会えます。今ここで跳ぼうじゃないか!踊ろう!と神さまによって生きていることを、神さまが現わし、与えてくださいます。

説教要旨(11月13日)