2022年10月16日礼拝 説教要旨

「幸いである」(マタイ5:1~12)

松田聖一牧師

 

 

先日亡くなられたエリザベス女王の戴冠式が1953年、昭和28年に行われました。そのいろいろな式の中で、女王が椅子に座るという場面があります。おつきの方やら、列席された方々の只中で、女王の椅子に座る、着座する、という意味は、この国の女王として、正式なものとなり、それを内外に明らかにし、公にするということです。そういう女王ですから、その女王に誰もが、気軽に近づけるかというと、そんなことはできませんね。とんでもないことです。定められた方、それ相応の立場にある方、あるいは近づくことを許されている方でないと、近づくことが、できません。しかも近づくということが、その時初めて許されてこそ、近づくことができます。そういうことなしに近づこうとしたら、周囲にいる警備に取り押さえられてしまいますね。

 

イエスさまが山に登られ、腰を下ろされるというのも、王さまが王さまの座席に着くことを意味しますから、それと同じです。その時、「弟子たちが近くに寄って来た」ということは、近くに寄って来たということの前に、イエスさまの近くに寄って来ること、近づけることを、イエスさまが受け入れて下さっているからです。弟子たちが、イエスさまからここにいらっしゃい、近くにどうぞと、受け入れられ、招かれてこそ、イエスさまの言葉を聞く機会に恵まれ、与えられるのではないでしょうか?

 

それは教会も同じです。教会と言う言葉の意味は、呼び集められたもの、その集まりと言う意味です。それが教会ですから、教会に今あること、つながりを持っていることは、自分から行こうと思って来られた方もいらっしゃいますし、生まれた時から、教会に連れられて来ていたということもあるでしょう。そのいずれも、その前に、イエスさまが、いらっしゃい!と招いて下さっているから、ここにいるのです。招かれているからこそ、そこに行くことができ、辿り着けるのです。そういう意味で礼拝も同じです。礼拝の意味は、神さまが招いて下さったここで、神さまが奉仕してくださるということです。神さまがサービスしてくださるのです。そこで御言葉を神さまが与え、神さまがお語り下さり、神さまのお恵みと、命が分け与えられていくのです。

 

そのために「そこで、イエスは口を開き、教えられた」とき、天がイエスさまに向かって「開く」時に使われる言葉と同じ言葉が使われている通り、イエスさまが口を開き、教えられた、その言葉は、神さまがイエスさまに向かって開き、神さまから語られたその言葉が、イエスさまを通して、そこに招かれ、近く寄って来た弟子たちにも語られているということであり、その同じ言葉が、神さまに招かれている私たちにも語られているのです。

 

それが「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と続いていきますが、この言葉を別の視点から見る時、そもそも、イエスさまが山に登られ、腰を下ろされ、そして弟子たちに教えられたのは、病気を抱え、苦しみに悩む者といったあらゆる病気や苦しみを抱えていた群衆を見たからです。

 

でもその群衆に向かって、イエスさまが直接語られるのではなく、弟子たちに語られるのはなぜでしょうか?イエスさまの目には、本当に苦しんでいる群衆が映っています。この目で見ておられます。でも、その群衆に向かって、直接教えられたのではないということは、群集に対しては、教えたくないということではなくて、この時の群衆の必要に、もうすでにイエスさまは応えておられ、具体的には、人々を癒しておられるのです。まずは病気などを、イエスさまは癒されているのです。つまりその時点での群衆の必要は、まずは癒すことであり、教えるどころではないということです。

 

というのは、けがをされたりしたとき、ご病気になられた時には、まずはそのケガや、病気を治療するということ、あるいはその場所に何とかして連れて行くことが、何よりも優先されますね。例えば、けがをして、足から血が出ているその人に向かって、血を止める治療を放っておいて、「なんでけがをしたの?」とか、「だれと遊んでけがをしたの?」と聞いて、その理由と要因を探っていくことではないですよね。まずはその血を止めること、治療することです。その上で、治療が落ち着いたら、そこからいろいろ話ができていきます。それと似たようなことは、他にもいろいろあります。ともかく、そういう時は、先にあれこれと教えていく場合じゃないですね。つまり、群集を癒すこと、イエスさまの癒しが何よりも先決だったからです。でもそれで終わりかというと、今度は、弟子たちを通して、またその口を通して、神さまの命の言葉を、群衆に与え、教えようとされているのではないでしょうか?そのために、神さまの命の言葉を弟子たちに託そうとしておられるのではないでしょうか?

 

それは、イエスさまは、助けを必要としている方に、いのちの言葉を与えたいし、「幸いである、」幸せになってほしいからです。そしてその幸いである、は、幸いである、をイエスさまから託されて語る弟子たちにも、幸いである、を弟子たちをして、弟子たちにも帰って来るということを、見ておられるのではないでしょうか?

 

というのは、これから弟子たちはイエスさまの十字架と共に、幸いとは言えない状況になります。群衆と同じ内容とは言えませんが、とにかく平安がなくなるし、平和でなくなります。それは具体的には、これから病気を抱え、悩みを抱えていた群衆に、教えようとすればするほど、本気で向き合うことになっていきます。

 

本気で向き合えば向き合うほど、どうなるか?どういう出会いとどういう経験をすることになるかというと、弟子たちも辛い所を通らされていくのではないでしょうか?確かに、弟子たちは、いろいろな病気に苦しむ人ではないです。悪霊に取りつかれた者ではありません。てんかんの者でも、中風という体の自由が利かなくなっている者でもありません。でもそういったいろいろなことを抱えている方々と向きあえば向き合うほど、自分たちが、十分に寄り添えない、限界を感じることになるでしょうし、その時には自分がいかに心貧しいものであるか!無力なものであるかということを、身に染みて味わわされることになるのではないでしょうか?

 

それは悲しみに共感しようとすることもそうです。でもどれほど共感しようとしても、同じ経験をしていない立場では、そこにも限界がありますし、自分の限界を感じてしまいます。でも本当は、一緒に悲しんで共感したいし、イエスさまのおっしゃられる通りに、柔和でありたいし、義に飢え渇きたいし、憐れみ深くなりたいし、心の清い人になりたいし、平和を実現する人になりたいし、義のために迫害されるということも、そういう人になりたいと、どこかで願いつつも、現実は、一緒に悲しめない、柔和でない、怒りっぽい、いらいらしてしまう、義に飢え渇かない、憐れみ深くない、心が清くない、平和を実現しない、といった、逆のことがあり、それが目について、それでまた自分の限界を感じ、周りと比べて自分ができていないと思ってしまうこともあるのではないでしょうか?

 

こんな問いかけと、それに対する一つの答えがありました。

 

自分の能力に限界を感じた時、どうしたらまた希望を持てるようになりますか?

一旦何もしない考えない時間を作ってください。 あなたが人を大事にしてきたのなら その人が動いてくれると思う。

 

つまり、自分ではできない、と限界を感じた時には、できないということを認めて、受け入れていくということではないでしょうか?人は、大きなことも一人では決してできませんし、小さなことも、一人ではできません。誰かの助けが必要です。その時、何でも自分が自分がと、自分で何もかもやろうとしてしまったら、いくら人が助けようとしても、助けたいと思っても、そこに入り込める余地がなくなってしまいます。でも一人でできることは、知れています。限界があります。それは悪いことでは決してなくて、むしろ逆に、人に助けていただけるチャンスにもなるし、その人とのつながりを得られる大きな恵みの時ともなっていくのではないでしょうか?イエスさまが、幸いである、とおっしゃられるのは、イエスさまのおっしゃられる通りにできたから、幸いである、というよりもむしろ、反対に何もできなかった、限界を感じたという時でさえも、与えられる幸いです。そしてその幸い、は、一人だけで受け取る幸いではなくて、わたしという一人の人のために、助けてくださり、支えて下さった、沢山の方々と一緒に受け取れる幸いとなっていく・・・のではないでしょうか?

 

そしてその限界を感じるということは、わたしと言う一人の人が、出会ういろいろな方と、本気で向き合っているからこそ与えられることです。関われば関わるほど、自分の限界を感じるのです。そういう意味で、イエスさまが弟子たちに、この言葉を教え、託された意味は、弟子たち自身も限界を感じながらも、自分では何もできないということの中で、そこに、イエスさまが助けて下さっていること、イエスさまが共にいてくださり、道を開き、そこに進めるようにと導いてくださっているということを、出会う人々との出会いの中で、行く先々での中で、与えられていく、その道が繋がっていくのではないでしょうか?

 

だからできないと感じる時にも、もう限界だ~と言う時にも、いいこと、恵みと感じられることが、あります。その時には分からなくても、後からでも、あああの時は、助けられた~と言えること、受け取れることを、イエスさまは与えて下さっています。

 

そういう意味で、「幸いである」には、点があるのです。丸で完結ではないのです。幸いである、は続くのです。

 

だからこそ「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」と約束された通りに、喜べること、大いに喜べることを、イエスさまは、ちゃんと与えてくださいます。

 

17世紀にヨーロッパ、オランダで生まれた讃美歌があります。17世紀というと、1600年代のことです。この時、ヨーロッパでは30年戦争という戦争があり、町は破壊され、多くの方々が傷つき、国土は荒廃しました。加えて、ペストの流行があり全人口の多くがこのペストでなくなられるという悲しい出来事がありました。一つの村が全滅するということも実際にありました。ある意味で暗黒とも言える中で、生まれた讃美歌です。「主なる神をたたえまつれ」

 

主なる神をたたえまつれ まごころささげひれ伏し 聖なる主の御名をあがめて み栄を歌わん ときわに。とわにいます神をほめよ、あらしを静め導き、なやみ迫る中にありても、御力を給うわが神。声をあわせ、たたえうたわん。あめつちしらす御神を。強き御手に導かれつつ 救い主あがめん、ときわに。

 

とてもじゃないけれども賛美できるような状況ではなかったはずなのに、そこから神さまを賛美できる賛美が生まれるのです。それは神さまから与えられる喜び、喜びなさい、大いに喜びなさいと約束されているその通りの喜びが、喜べない中でさえも、与えて下さったからこそ、感謝し、喜ぶのです。讃美歌が生まれる背景は、おおよそ、そのような中から生まれることがほとんどです。でもそういうことの中にも、幸いである、とおっしゃり、幸いを与えて下さるイエスさまが、共にいます。嵐を静め、導いてくださり、悩みが迫る中でも、力を与えて下さり、神さまの強い御手があり、私たちをも導き続けてくださいます。

 

幸いである、はその時に終わりではありません。続きがあります。幸いである、は続くのです。

説教要旨(10月16日)