2022年9月11日礼拝 説教要旨

適切な答えが(マルコ12:28~34)

松田聖一牧師

 

電子レンジに入れて、温めると、中に入れたものが、温かくなっていますね。なぜ温められるかというと、電子レンジから出される電磁波が、中に入れたものの中に含まれている、水の分子を激しく動かしていくからです。そしてその分子同士がぶつかって摩擦を起こすことで、摩擦熱が発生します。水分子がおしくらまんじゅうしているような状態ですね。この熱によって食品が温められていきます。

 

つまりぶつかり合う、おしくらまんじゅうによって、熱が生まれ、それまで冷たかったものが、温かい新しいものになります。それでおいしい、おいしいと言って、おいしく食べられるようになりますし、時には、その温かさが寒さや、いろいろな出来事の中で、冷え切った体に、もう一度やってみようといった力を与えていくものにもなります。

 

人と人との議論も、それとよく似ています。というのは、その議論は、もちろん議論なので、お互いに違う立場あるいは、違う意見を持っている者同士ですから、スムーズというわけにはいきません。ぶつかり合います。時にはそのぶつかり合いに、熱を帯びていくこともありますが、その2つがぶつかることによって、新しくされていきます。具体的には、議論をすればするほど、実は、少しずつ前に向かっていきます。少しずつ、少しずつ前向きになっていくのです。それは誰かとおしゃべりをすることもそうかもしれません。結論を出すためでなくても、ただおしゃべりをするだけ、会話、対話をするだけでも、前に向かっていきますね。逆に言えば、そういう前に向かっているかどうか?が、議論しているかどうか?議論になっているかどうか?の判断基準にもなります。

 

それがイエスさまと律法学者たちの議論にあることを、その議論を聞いていた一人の律法学者は受け取っているのです。この律法学者は、これまでの議論で、いろいろな事柄を挙げて、それについての決まりを出して、イエスさまにどう思うか?ということを問うていくことを聞きながら、イエスさまが答えたり、あるいは逆に問いを返していったり、またイエスさまを陥れようとする問いに対して、イエスさまは、逆にその問いを問う彼らの誤りを指摘していく、その議論を聞いていました。そんなやり取りの中で、イエスさまが、決してしなかったこと、それは、無茶苦茶なことをいろいろ言われてもなお、そういうことをする彼らを無視したり、放っておかれませんでしたし、別の見方をすれば、見捨てようとはしませんでした。そのイエスさまの言葉を聞いて、何かを感じ取ったのでしょうか。あるいは、こんなことができるイエスさまは、すごい方だとか、どうしてそこまでできるのか?と思ったのでしょうか。そんな彼が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」すなわち、「すべての中で、一番大切で、重要な第一の、最初の掟はどれですか」問うのは、一番大切で、重要な第一の、最初の掟を、彼が知らなかったからではありません。彼は、律法学者ですから、答えを知っています。ですから、イエスさまが答えていかれる答え「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』に、彼は「先生、おっしゃる通りです」と答えた通り、その答えを知っていますし、それに生きようとしていた人です。

 

ところが、イエスさまは、彼の問い「どれが第一でしょうか」に対して、「第2の掟はこれである」「隣人を自分のように愛しなさい」と、第1だけではなくて、第2はこれだと、さらに重ねて答えていかれるのです。

 

これはどういうことでしょうか?彼の問いは、どれが第1でしょうか?であって、第2は、とまでは聞いていません。でもイエスさまは、彼に、第1はこれである。に続いて、第2はこうだとおっしゃられるのは、ただ一人の唯一の神さまを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すなわちすべて、命そのものを尽くして愛しなさいということと、自分を愛することと、隣人を愛すること、しかも自分のように愛するということとが、繋がっているんだということを伝えようとしているからです。

 

つまり、神さまを愛すること、言い換えれば、神さまを大切にするということは、ただ単に神さまだけを大切にすれば、それで完結ではなくて、自分自身のこと、そして周りの人のことも大切にすることなしには、完結しないということです。

 

では、自分自身のことを大切にすること、周りの人のことも大切にするということに対して、私たちが時にしてしまうことは、自分自身を、傷つけたり、自分自身を低く評価したり、自己卑下とまではいかなくても、自分がダメなものだとか、役に立たないとか、といったことを、自分で決めてしまうことがあるのではないでしょうか?そうなると、自分を大切にしていないし、そういう自分を大切にしていないと、周りの人も、大切にしようという方向に向かっていきません。そして、大切にしようとしなくなると、無関心という方向に向かっていきます。

関心を持たなくなるのです。自分との関係にも、人との関係にも、関心を持たなくなります。そういう意味では、好き嫌いという感情から言えば、嫌いと言っている方が、むしろ関心はおおいにありますね。嫌いとは、関心があるから、嫌いと言えるし、思えます。ですから、愛するということは、単に大切にするとか、好きになるということだけではなくて、嫌いだ~ということも含めて、関心を持つということでもあります。ですからイエスさまは、「敵を愛しなさい」とおっしゃられるのも、敵を好きになれと言うことではなくて、敵になっていること自身が、関心をそこに向けているということの証拠でもあるわけです。

 

それは神さまに対しても同じでいいのです。神さまは私たちのどんな思いでも、どんなことでも、ちゃんと聞いて受け取って下さるお方です。こんなことを言ったら叱られるんじゃないか?ということは全くありません。どんなことでもしゃべることが出来ます。その神さまとの関係は、私たちに与えられた自分自身と、そして周りの人との関係を通しても、神さまとの関係に繋がっていくのです。

 

だからこそイエスさまは、自分という私との関係と、私と隣人との関係という具体的な目の前にいる人との関係に向かわせようとされるのです。

 

というのは、もう一つの理由があります。それは神さまを大切にするというのは、ある意味で、曖昧と言いますか、分かるようでわかりにくいものです。なぜなら、神さまは目に見えないし、触ったり、顔を見て対話したりという、そういう存在ではないからです。そうですよね。見たことはないし、触ったこともありません。ですから、神さまを大切にするということは、言葉の上では、何となく、そういうものかな?と思う内容です。でも自分自身と、自分にとって、近い存在、近い関係の、その人は、目に見えます。触れることもできます。会話もできます。もちろん関係が大いにあります。そういう近しい関係の、その人、私自身も含めて、大切にしているか?関心を持っているか?というと、いろんなことがあるのではないでしょうか?

 

ある方の質問に、別の方がこう答える、こんなやりとりがありました。

 

父親が大嫌いです。 僕は21歳で父親は50歳です。 父親はすぐ怒るんです。 こちら側に非がある場合は分かるのですが、例えば急に10日後に出かけようと言ってきます。 そうするともちろん10日前にそんな事言われても母も兄弟も僕もスケジュールが合いません。(遊びやバイトで) もう10日後は予定が入っちゃってるんだ…というと怒ったのか機嫌悪くなったのか、こちらが話しかけてもほぼ無視。 僕が幼い頃には怒るといやなことをしてきたりしました。今でもトラウマです。 こういう質問をすると「お父様がお金を稼いでいるのですよ」とか言われますが、そんなことはわかってます。 生活費稼いでもらってる感謝よりも短気で理不尽に怒る嫌悪感の方が大きいのです。 母も兄弟も僕も父親が怒っても気にしてませんが、やはりイライラします。 母は特に父親の趣味に合わせて自分のやりたい事を我慢したり毎朝早起きして家事してくれたり、父親に思うことがあっても絶対怒ったり気を荒立てたりした事ないです。 なのに怒ると無視したりキツく当たったりするのが1番むかつきます。 僕はなにをいわれたって良いですが、母に対する態度に1番腹立つし、どこかで大事故して消えてほしいとまで思ってしまいます。 こんな父親どう思いますか?

 

この問いに、こんな答えがありました。初めまして。22歳の女性です。文を読んでいて、 今の私と全く同じで驚いています。 本当に機嫌悪くなるのが分かりやすく、もう毎日どう過ごせばいいのか分からなく泣いてしまう時もありました(笑)。そんな父親にばかみたいにすごい怒鳴られた事があって、私はそれがトラウマで、大きい音とか怒鳴り声とかが本当に無理になりました。 父親が稼いでるから、の文は本当に共感でしかないです。私に言われてもないのに凄いイライラしてしまいます。 自分はこれ以上ずっといると限界を感じて爆発しそうになるので家を出ようと考えてます。解決法はもうそれしかない気がして…だけどそんな父親がいて、母親や兄弟を置いて家を出るのはまた何かされないかと思って気が気でないです^_^; お互い大変ですが、リラックスして 毎日を送れるよう頑張りたいですね。

 

このような親子関係がすべてではもちろんありませんが、一番近しい関係である親子の関係の中には、いろいろあります。そういう意味で「隣人を自分のように愛しなさい」は、第1の掟と合わせて、この2つにまさる掟はほかにないということは、第1も、第2も、両方が第1、最も大切、最も重要であるということが、本当にその通りだということと併せて、自分と自分、自分と人とのある意味ではぶつかり合う、ということが必要だということをおっしゃっているのではないでしょうか?適当に当たり障りのない関係も、もちろん必要なことがありますが、でもそれだけではなくて、ぶつかり合うということも、時には必要になるのです。もちろん喧嘩がいいとか、けんかをしなさいという意味ではありませんが、イエスさまが答えられた、この言葉を、本当に受け入れようとすればするほど、誰かとぶつかります。

 

でもこの律法学者がイエスさまに、答えた時、イエスさまは「適切な答えをした」のを見てはいますが、適切な答えをした通りに、行動したとは見ていません。それは彼の答えは正しいものだったし、適切な答えではあったけれども、その適切な答えをした通りに、彼が、それを実行したとか、実行しようとしたという事には触れていないのです。実際に、自分と、あの人と、この人との関係はどうなっているのか?隣人を自分のように愛しましたという、実際はどうだったのか?を、彼のその答えに、見ていないのは、実際の関係では、適切な答えをしたとは言えないことがあっても、彼の答えられないその現実を、イエスさまは、見ておられるのではないでしょうか?

 

それは、守らないといけないとか、がんばったら、守ることができるようになるという、その方向からというよりも、むしろ逆で、守ろうとすればするほど、この掟、決まりとは反対の姿、そうではない事実が、ますます見えて、わかってくるということを、指し示しているのではないでしょうか?それは神さまを大切にすること、隣人を自分のように大切にすること、を本当にしようとすればするほど、ますますその掟から離れていることに気づかされるということであり、それが見えてくるのです。

 

そういう意味で、自分自身と、自分と隣人との関係は、いつも、どこかで、破れがあるということです。関わろうとすればするほど、破れます。破れないものではなくて、破れるものなんですね。障子に穴をあけることがありました。あれは面白いですね。最初は、ほんの少し穴をあけて、障子の向こう側を見ようとしますが、その内に、もっと見たくなって、もっと関心が出てしまうと、その穴がだんだんと大きくなっていって、それで叱られます。破れもそうです。関心を持っているということによって、最初は小さな穴程度であっても、だんだんに穴が大きくなっていきます。

 

そういう関係の破れを、イエスさまは、見ておられるのです。そして見ているだけではなくて、その破れ口を見ながら、その破れ口の、真ん中に立ってくださるのです。

 

それが十字架です。十字架を見るとき、縦の木と、横の木がありますね。縦は神さまと私の関係、横はわたしと私の隣人との関係です。それが組み合わさって、十字架になります。どちらか一方では十字架になりません。どちらもあって、初めて十字架になります。その意味は、どちらの関係にも破れがあって、足りないことだらけであっても、その真ん中に、イエスさまがいてくださるということです。イエスさまがその破れ口の真ん中にいてくださることで、破れ口が覆われ、ふさがれていくのです。

 

今年の冬は、雪が何度か降りました。そのたびに、玄関も真っ白。駐車場も真っ白になりました。雪がない時には、石がごろごろしていますが、そこに雪が積もった時、その駐車場の石も含めて、全部が真っ白に覆われていました。本当に奇麗でした。その降り積もった雪に、太陽の光が当たると、ますます奇麗でした。きらきら輝いていました。駐車場がきらきら輝いていました。

 

覆われるというのは、そういうことです。イエスさまは、破れ口に立って、それを真っ白な雪で覆ってくださるように、破れをふさぎ、破れたところを癒してくださいます。無理やりにではなくて、雪が少しずつ降り積もるように、時には時間をかけて、ゆっくりと覆ってくださいます。それは本当に関係を大切にしようとすればするほど、出て来る破れが覆われた出来事であり、その真ん中には、十字架のイエスさまが、いつも立っておられるのです。

説教要旨(9月11日)