2022年7月10日礼拝 説教要旨

思いが言葉になるとき(マルコ7:14~29)

松田聖一牧師

 

私たちは誰もが家族のもとに生まれました。両親を始め、兄弟、姉妹、そして親戚の方々も含めて、家族ですね。その家族のもとに、わたしという一人の人が生まれたわけですが、そういう意味で家族というのは、どこまでなのか?どこまで家族というのか?というと、それぞれの家族によって様々ですし、お国柄もそこにはあるように思います。

 

あるバイオリニストの方が、南米コロンビアの方と結婚され、そのコロンビアに夫婦で一緒に帰った時の話をしてくださったことがありました。コロンビアの空港に出迎えた家族の方々が、何十人といて、びっくりした!とおっしゃっていましたが、もっとびっくりしたのは、何十人も出迎えてくれたその家族同士の、お互いの名前とか、誰の子どもさんなのか?親は誰なのか、聞いても分からなかったということでも、びっくりされたのでした。あまりにもたくさんの人たちだったので、この子は誰?誰の子ども?と聞いても、誰が誰だかわからなくなるほどだったとのことでした。そういう意味で、家族という関係は、ここまで、と言い切れるかというと、どこまでも広がり、どこまでも続いています。ただその中で、普段から付き合いがあるかどうかで、疎遠になってしまうということもありますし、疎遠になっているとはいっても、財産などのことで、どうしても必要な手続きをしなければならないこともあります。場合によっては、関係が難しくなることもあります。そしてその関係の中で、大人も子どもも、いろいろと振り回されることもあります。そういう意味で、家族と言えども、いろいろあるし、場合によって、家族の中でぎくしゃくしてしまうこともあります。

 

今日の箇所にヘロデ王という王さまが登場しますが、このヘロデ王というのは、イエスさまが生まれた時に治めていたヘロデ王ではなくて、その息子たちの一人であるということです。ヘロデ王には10人の妻と多くの子どもたちがいたとされていますが、その子供たちの中で、3人が、それぞれの地域を治める王さまとなり、その一人が、今日のヘロデ王です。ヘロデ・アンティパスという名前と言えますが、アンティパスのお兄さんアルケラオと、弟フィリポが、王として領主として治めていたのです。

 

他にも兄弟がいたでしょうが、王になれたのは、この3人だけです。ではこの3人の王はお互いに信頼し合い、仲が良かったのかというと、洗礼者ヨハネをめぐって現わされた関係が見えてきます。それは(17)にこうあるからです。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。」つまり、このヘロデ王は、弟であり王であるフィリポの妻へロディアと結婚していたという事実、弟の妻、奥さんなのに、その奥さんであるへロディアとヘロデ王は結婚していたので、それをヨハネは許されていないことだと、本当のことを指摘したために、ヘロデ王は人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいるのです。

 

ヘロデ王にしてみれば、しちゃいけないと決められていることですよと、はっきり、本当のことを言われたわけですが、そのことを指摘するヨハネが自由に動きまわっていたら都合が悪いわけです。弟との関係はどうなっているのでしょうか?相手も王さまです。それぞれに領地を与えられ、治めている王です。その弟フィリポの奥さんなのに、その奥さんであるへロディアと結婚しているという事実、それは許されないことだということも、どこかで分かっていたと思いますが、そういう中で彼はヨハネを「聖なる正しい人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」つまり、ヘロデにとって、真実を告げ、耳の痛いことを言ったヨハネを、王にたてついたとんでもない人として受け取っていたのでは必ずしもなくて、ヨハネをヘロデは、聖なる正しい人であることを知っています。彼を恐れています。そして、保護し、に続く言葉をよく見ると、「また」の前後には、空白があるんです。空白があるというのは、印刷間違いではなくて、空白には何かがあるのです。

 

それは丁度音符と休符との関係と似ています。音符があれば、音を出しますね。でも、休符では音は出しません。演奏であれば、弾きません。休符のところで音を出したら、大いに目立ちます。そうかといって休符には何もないのかというと、休符も歌います。音は出さないけれども、休符は次の音を出すための準備でもあるし、休符は休みではないのです。だから指揮者の方は、休符も歌え!休符は休みじゃない!休符も歌え!とご指導されるのです。つまり空白があるという意味は、何もないということではなくて、次につながるための何かがあって、それは時間的なことかもしれませんし、ヘロデがどうしたらいいか、途方に暮れながらも、迷っている時間をあらわしているのかもしれませんが、その空白に続いて「その教えを聞いて非常に当惑しながらも」すなわち方法、手段がない、途方に暮れ、決心がつかずに迷っていながらも、「なお喜んで耳を傾けていた」ヘロデがいるのです。同時に、彼を保護もしているのです。その方法が、捕らえて、牢につないでいるということなのです。

 

それだけを見たら、ヨハネを捕えて、牢に入れたということですが、なぜそうするのか?なぜそうしたのか?というと、彼の結婚相手であるへロディアがヨハネを殺そうとしていたからです。ヨハネを恨んで、殺そうとしていたからです。なぜ彼女は恨んでいたのか?殺そうとしていたのか?具体的なことは記されていません。ただ言えることは、へロディアはフィリポの妻であったこと、そのフィリポはヘロデの弟であったということから来る何かがあるわけです。それはヘロデ王と結婚することで、へロディアは、自分の立場を、より強力なものにしたかったのか、フィリポよりもヘロデの方を好きになったのか?当時何人もの女性と結婚し、妻が何人もいた中で、妻同士の権力をめぐる争いがあったからなのか?具体的には分かりませんが、いずれにしても、へロディアはヨハネを恨み、殺そうとしていたのです。いきなり殺そうではなくて、恨みから発展しているのです。だからヘロデは、ヨハネが殺されないように、ある意味で厳重に囲われた牢に入れられていたし、そのことによって、殺されるということから守られた形になってもいるのです。

 

(21)ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、へロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで王は少女に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。

 

この時へロディアの願いが実現していくことになりますが、実現するために、へロディア自身が動いたわけではありません。実際に動き回ったのは、へロディアの娘です。少女です。この少女とヘロデ王と、へロディアとのやり取りから見えてくることがあります。それはこの少女が、高官たちのいる前で、食事の席で踊るのです。おどるというのは喜びを表現するものではありますが、この場面は、彼女は、皆の前で踊らされ、皆が喜ぶということのために、踊っています。喜ばせたから、王から「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言われ、更に「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言われるのですが、彼女は、何でも言えたはずなのに、自分の思いを何でも言ってよかったのに、王のいる場所から立ち去って、逃れて、へロディアに、「何を願いましょうか」と言うと、母親であるへロディアから「洗礼者ヨハネの首を」と言われた通りのことを、彼女は、王に答えていくのです。その姿は、母親の言いなりです。母親の手先となって「今すぐに、洗礼者ヨハネの首を盆に戴きとうございます」とヘロデに願うのです。

 

やり取りとしてはそれだけと言えるかもしれません。しかし少女にとって、自分の父親はヘロデの兄弟であるフィリポです。そしてそのフィリポとの間に生まれたのが、わたしだということは知っています。でも母へロディアは、父であるフィリポだけでなく、ヘロデの妻でもあるということは、彼女とヘロデ王との関係には、複雑なものがあります。と同時に、その只中で、彼女は振り回されているのではないでしょうか?少女ですから、どの程度客観的になれていたかというと、母親の主人となっているヘロデの言いなりですし、フィリポではなく、ヘロデ王の妻となっている母親にも顔色をうかがいながら、母親の言う通りに動いていくのです。いわば親と親戚との、狭間で、どちらの言うことも聞こうとしていくのです。

 

それゆえに「ヨハネの首を盆にのせて戴きとうございます」という言葉も、彼女の思いから出たというよりも、へロディアの言いなりなのに、それを王ヘロデに願う時、血のつながりのある父親ではないけれども、父親フィリポの兄、彼女にとってはおじに当たるヘロデ王が、彼女の言葉を、少女の願いとして受け取り、誓ったということは、彼女自身の本当の願い、心からの思いではなくても、それが、彼女の願いとなっていき、その願いがどんな願いであっても、固く誓うということまでした結果、その少女、彼女の願い通りになっていくのです。

 

しかし一方で、彼女は、自分がへロディアの言いなりになったことで、ヨハネが、どんな目にこれから合うのか?どんな恐ろしい出来事がこれから起こるのか、その内容を、どこまで感じ取れていたのか?というと、感覚が麻痺していたのではないでしょうか?ヘロデ王、へロディア、そして本当の父親であるフィリポとの関係の中で、彼女は、自分の身を守るために、言われるがまま、自分の意思、これをしたい、こうなってほしいという自分の思いを打ちあけることができないままに、それでも、言われるがままに、言葉にしたというのは、ヨハネがこれからどうなっていくかというよりも、そうしなければ、この家庭で生き残れない、自分の居場所、生きていくすべがない、複雑すぎるほどの家庭の中では、そうするしか行き場がなかったのではないでしょうか?既に、その時、彼女自身の感覚、感情が失われているとしか言えません。その証拠に、王に願ったとある言葉の意味は、洗礼者ヨハネを後で返すことにして、願い、求めている言葉です。でも求めているものを、後で返せるかというと、返すことなんてできないものです。後で元通りになんてできないです。そんなことできるはずがないのに、ヨハネを後で返すことにして願うのです。それほどに、彼女の感覚、感情はもう失われています。

 

そういう彼女が置かれた状況を、ヘロデは充分に知っていたかというと、分からなかったのではないでしょうか?母親に言われた通りにしたこと、言ったことを、王は、少女の願いとして受け取っています。

 

そして自分が誓ったことであること、「また客の手前」もあったということで、のと、彼女の思いからの言葉ではない言葉が、彼女自身の思いから出た言葉となり、その結果、洗礼者ヨハネの結末に向かっていくのです。

 

こんな理不尽なことはありません。彼女自身はどこにいるのでしょうか?彼女の思いは何だったのでしょうか?彼女が目の当たりにした、光景によって、彼女のこれからの人生はどうなっていったのでしょうか?辛くて、辛くて、表現できません。大きな傷になります。でも、名前も記されていない、一人の少女が、聖書にちゃんと書き記されているという意味は、神さまが、この子をちゃんと覚えていてくださっているということです。この子がどんな思いで、立ち振る舞い、そして両親、家族、親戚の言うことを聞こうとし、言うなりになろうとしたこと、彼女自身が自分を見失い、分からなくなっていた、そのことも、神さまはちゃんと覚えて、目に留めて、そして神さまは彼女にも寄り添い、共に人生を歩んでくださったのです。

 

子どもは、親の期待に応えようとします。大人の言うなりになることで自分の身を守ろうともします。その時は、いい子になるでしょうし、いい子だと周りからも認められていくでしょう。でもそれは、その時、本当の思いが言葉になっていることなのか?わからないことの方が多いですね。彼女の姿に、わたしたちも重ね合わせる時、似たようなこともあったかもしれません。でも、そうであったとしても、神さまは、目を留めていてくださり、心を留め、心を配っていてくださいます。そして今日まで、歩みを共にし、守り、支え続けてくださいました。これからも同じです。そのお方を指し示すために、ヨハネは大切な役割を果たしたのです。

説教要旨(7月10日)