2022年4月10日礼拝 説教要旨

苦しみの中から(マルコ14:32~42)

松田聖一牧師

 

神学校を卒業して初めて赴任した教会でのことでした。ご病気のために入院中の方がいらっしゃいました。早速、その方のところにお訪ねするということが始まりました。病状はだんだんと進んでいかれ、赴任して一月後に天に召されたのですが、入院中訪ねる度に、先生の事、祈ってますねん~と毎回おっしゃってくださり、こちらが励まされる日々でした。そんな日が続いたある夜のことでした。真夜中だったと思います。その方から電話があり、電話口で尋常ではない声で、「もしもし、もしもし、祈ってください!」叫びに近い声でした。ところが、私はそれまで電話口で祈ったことがありませんでした。それで、もたもたしておりましたら、「もしもし、もしもし、祈ってください!」という尋常ではない声に、しどろもどろだったのですが、電話口で初めて祈ることになりました。祈った後、ありがとうございましたと、ほっとされた様子で、「また明日伺いますね」とそれで終わりましたが、その日を境に意識がなくなっていかれました。

 

そういう意味では会話のできた最後の時だったと言えます。何かがあったんですね。もしもし、もしもし、祈ってください。そう叫ばずにおれなかった何か、いよいよと言う時になって迫りくる何かがあったと思います。でもその方の祈ってくださいという言葉に押し出されて、電話口で初めて祈ることができるようになったのでした。

 

尋常ではないことに襲われた時、不安になり、恐れます。怯えます。それは怖いからです。まさにそれは、命にかかわること、存在そのものを脅かされる何かが、自分の身にあったときかもしれません。

 

イエスさまがゲッセマネに弟子たちと一緒に行かれた時のイエスさまもそうです。イエスさまが、それまで見せたこともない、恐れと、もだえ始める、言い換えれば怯え始める、という出来事は、尋常ではありません。というのは、これまでイエスさまは、風に向かって黙れ、静まれと叱られ、嵐を静められたりしました。また弟子たちを励まし、チャレンジを与えていかれました。さらにはどんなに権力を持っている相手であっても、ひるむことなく、弱腰になることなく、正面から向かっていかれました。ところが、ここゲッセマネでは、今まで見せたこともないような恐れと不安、そしてもだえ始め、ご自分の弟子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネに「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と語るのです。

 

わたしは死ぬばかりに悲しい。すなわちわたしの命、わたしの魂は、死ですら、悲嘆に暮れているのです。つまりイエスさまの命、イエスさまの存在すべてで、そしてその命が終わる死ということですら、悲しんでいる、悲嘆に暮れているというのは、それまでのイエスさまの言動とは全くかけ離れた弱さが、ここで吐き出されているような感じです。そしてイエスさまは3人に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」、ここから逃げないで、ここにいて!と、イエスさまは弟子たちに近くにいてほしいということです。遠くじゃない、近くにいてということです。

 

タイタニックという映画がありましたが、タイタニック号が氷山にぶつかり、いよいよ沈没するという時、いろんな人間模様が描かれていました。そのいろいろあった人間模様の中で、2つの場面と重なります。1つは船の中に水が入り込んできている最中、お母さんと子どもたちが、1つのベッドに横になって、お母さんは子どもたちと一緒にいて、本を読んでいる場面と、もう一つは、ある老夫婦がしっかりと手を握り合っているその場面です。船の沈没という、自分たちではどうすることもできない時、これからいよいよその時が迫る、そんな中で、お互いに離れていないのです。一緒にいるんです。お母さんであれ、子どもたちであれ、ご夫婦であれ、それぞれが、お互いに、ここを離れていないんです。いよいよと言う時には、何かできるわけではないし、迫りくる命の危険、死と向き合う中で、それに抗って立ち向かえるすべがない時、ここを離れないで、一緒にいること、それがどれほどに大きなことか、はかり知れません。

 

イエスさまは、それを弟子たちに願われるのです。そして目を覚ましていなさい、別の意味では油断しないで注意しなさい、ともおっしゃいますが、目を覚ましていなさいというのは、ただ弟子たちにここにいる間、起きていてと言うこと以上に、目を覚ましていることで、敵から守ってほしいという思いもあるのではないでしょうか?それには理由があります。当時の王さまはいつ自分が襲われるか分からない、不安と恐れがありました。特に寝ている時です。寝ている時というのは、一番無防備です。寝ている時に襲われたら、ひとたまりもありません。だから王様の周りには、寝ずの番をする護衛が絶えず一緒でした。寝ないで目を覚まして王様を守る人がいたから、王は寝ることができたのでした。

 

その王様以上に、イエスさまは世界を治める王でもあります。どんなことでもできるし、恐れる必要は神さまですからないはずです。ところが、弟子たちにここを離れないで、ここにいてほしいという願いと共に、自分を敵から守ってほしいと願うのは、これまでと全く違うじゃないか?イエスさまが弟子たちと一緒にいて、弟子たちを守るとおっしゃっていたのに、その立場が弟子たちと逆転しているじゃないか?と思われるかもしれません。しかし、それほどに、イエスさまは、この時弟子たちにここにいてほしかったし、イエスさまを捕まえに来た者たちから、寝ないで守ってほしいという、思いが赤裸々にあるのです。

 

そして、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』と、イエスさまは、神さまに向かっても赤裸々に訴えていくのです。

 

その時イエスさまは、地面にひれ伏しますが、これは、はは~とお行儀よくひれ伏されたという姿ではなくて、地に倒れ、崩れ落ちるのです。さらには「堕落する」と言う意味もありますから、イエスさまがこれまで顕されてきた神さまとしての姿から、全くかけ離れた神さまとは思えないような、崩れ落ちた中で、苦しみや不幸が臨まないで通り過ぎるように、イエスさまご自身の苦しみが、神さまによって、苦しみや不幸が臨まないで通りすぎるようにと祈られるんです。でもそれは、ご自分に襲い掛かる苦しみを、イエスさま自身で取りのけようとすることではなくて、あくまでも神さまによって、神さまに、取り除いてくださいと、苦しみを取り除いてくださいと、つまり、自分の苦しみが取り除かれるかどうかは、神さまの手の中に委ねようとしておられるのです。

 

イエスさまは神さまですから、自分で取り除くこともできたはずです。でもそれをしようとはなさらなかった。そういうことですらも、神さまに任せていかれるのです。まさに「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」を、イエスさまは、まことの神さまでありながらも、神さまにこの身を委ねていかれるのです。

 

一方その祈りの時、弟子たちは、イエスさまが目を覚まして祈っていなさいと言われたのに、イエスさまのために、祈れなかったし、イエスさまを守るために目を覚ますどころか、眠っていました。弟子たちも緊張の連続で、疲れがたまっていたことでしょう。起きることができなかったと思います。しかしそうであっても、イエスさまが、一番、助けを必要としたときに、彼らは、何もできませんでした。イエスさまを助けようとした弟子はいなかったのです。祈ることもできなかったんです。弟子なのに、守ることができなかったのです。

 

そんな弟子たちが眠っている中で、イエスさまは、祈っている場所と弟子たちのところとを行き来します。そして戻ってくるたびに、弟子たちは眠っているんです。その行き来が3回続くのです。ペテロも一時も目を覚ますことができず、眠っていました。そんな中でイエスさまは、そんな目を覚ましていられなかった弟子たち、眠っているペテロも含めた弟子たちに、のところに3度も戻られ、引き返される中で、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」と眠っていた弟子たちにおっしゃられるのです。

 

このイエスさまの行動は何を意味するのか?それは、イエスさまは、ご自分を寝ないで目を覚まして祈ってほしいと願ったのに、眠ってしまった弟子たち、ここにいて守ってほしいと願ったのに、出来なかった弟子たちを守るために、祈っている間、何度も、何度も祈っては彼らのところに戻り、また祈っては戻りということを繰り返しているのです。でも彼らは眠っていますから、イエスさまが戻って来て下さったことも、何をおっしゃられたのかも、耳に入っていません。

 

それなのに、イエスさまは、眠っていた弟子たちに、3度目戻ってきたとき、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。」「もうこれでいい」と、ここにいてほしいと願ったのに、目を覚ましていなさいと願ったのに、それができなかった彼らに、「もう、これでいい」と、もう、これでいい、もう十分であると、彼らを赦して、眠っているということを受け入れておられるのです。

 

すごいことですよね。何を言っても眠っている、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い、と弟子たちのすべてを受け入れ、眠っているから、聞こえていないであろう彼らを守りながら、誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい、と何もできなかった弟子たちのために祈って、「もう、これでいい」と、赦しておられるのです。

 

ある日曜の夜の礼拝のことでした。一人の方が、仕事帰りに来られていました。土曜日の夜から宿直勤務で、日曜日も朝から働かれて、やっとのことで礼拝に来られたのでした。ところが、一対一の礼拝を守った時、仕事の疲れで、起きていられない状態でした。でも讃美歌を歌う時には、立ち上がりますから、何とか歌われます。信仰告白も立ち上がって告白しますから、何とか起きられます。ところが説教の時には、どうすることもできなかったのでしょう。舟をこいでおられました。眠っておられました。そういう時に、御言葉の取次になるんですが、何とも言えない出来事でした。眠っておられる方に、説教がある。み言葉が語られるのです。おそらく聞こえていなかったと思います。寝ていたから。でも舟をこぎながらも、眠ってしまっていた中でであっても、礼拝を守られた、たとい眠っていても、主の恵みの中にあるんだ!という姿でした。その姿は今も目に焼き付いています。そして礼拝が終わって、眠っておられた方を「礼拝が終わったよ~」起こして差し上げ、教会から家に帰られる時には、いつも、「ありがとうございました」と帰って行かれたのでした。

 

イエスさまは、イエスさまの願いにこたえることが、全くできなかったとしても、「もう、これでいい」と受け入れてくださり、そして誰も助けがない中で、裏切る者が来て、捕らえられ、十字架にかかるために引き渡されるのです。罪人たちの手に引き渡されるということに、誰も助けがない中で、無防備のまま、抵抗することなく、イエスさまはこれからのことを全て、命も神さまに委ねていかれるのです。

 

何のためにですか?それは赦すためです。もう、これでいい、と赦すために、イエスさまは命を神さまに委ねていかれるのです。

 

イエスさまは、そういうお方です。イエスさまはどんな苦しみの中にあっても、イエスさまのために、何もできなかった者であっても、「もう、これでいい」と赦してくださり、受け入れておられるのです。

説教要旨(4月10日)