2022年3月20日礼拝 説教要旨

自分探し(マルコ8:27~33)

松田聖一牧師

 

「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。

 

イエスさまが弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねるのですが、その場所であるフィリポ・カイサリア地方の方々の村とはどんなところかを確認しましょう。

 

イスラエルにゴラン高原という場所があります。このゴラン高原はイスラエルと、近くの国のシリアという国との間で、過去数十年間に渡って、何度も何度もこの場所の奪い合う戦争が繰り返されました。中東戦争と呼ばれる戦争です。なぜこのゴラン高原の所有権をめぐって争うのかというと、この場所が、水源地だからです。水源地をどこが所有するか?誰のものか?という水をめぐって戦争まで起きてしまうのです。その水源地は、ヘルモン山という山の雪解け水がわき出る場所で、そこからヨルダン川という川が流れ、ガリラヤ湖、死海に向かって、流れていき、ほうぼうをうるおしていきます。その水で、農作物がつくられ、人間が飲むための水ともなっていきます。まさに命の水です。その命の水は本当に貴重であり、高価です。また当地は大変乾燥していますから、イスラエル旅行などでガイドさんが口酸っぱく言われる言葉は、水を飲んでくださいね~水分を取ってくださいね~です。カラッとしているために、汗をあまりかかなくても、水分補給をしないと脱水になるからです。そういうお土地柄の中で、水源地を誰が確保するか?誰のものにするか?というのは、日本では想像できないほど大きなことです。それがゴラン高原にある水源地であり、そこから流れ出て、村々をうるおし、いのちの水となって広がっていく、その水源が、今日の福音書にありますフィリポ・カイサリア地方であるのです。この場所、水源地である地方の方々の村に、イエスさまは、弟子たちとお出かけになったという時、水があるということをそこかしこにご覧になられたと思います。その途中で、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。

 

その時弟子たちは、イエスさまについて、(28)「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに「エリヤだ」と言う人も、「預言者の一人だ」と言う人もいます。

 

とイエスさまに、いろいろな人が、イエスさまについて、いろいろ言っている、と彼らは答えていくのですが、その答えは、イエスさまについて正しい答えではありません。イエスさまはイエスさまです。洗礼者ヨハネでもなく、エリヤでもなく、預言者の人でもありません。しかし弟子たちは、イエスさまから尋ねられた通り、人々がイエスさまについて「何者だと言っているか」について、人々が言っている通りを答えていくのです。それはイエスさまについて、いろんな人が正しい答えではないけれども、いろんなことを言っている、という事実と、そして、そのことを弟子たちも、聞いているから、そう答えているのです。

 

つまり弟子たちは、イエスさまについての周りの声に、さらされていると言えるでしょう。聞こえてくるのです。いろいろが。そのいろいろにさらされているということは、弟子たち自身も、イエスさまについての正しい答えではないことを聞き、また正しい答えではない答えにさらされているということです。

 

正しくない答え、言い換えれば、正しくない情報というのは、弟子たちを取り巻くことだけではなくて、わたしたちにも同じことがあります。一昨年の丁度今頃、新型コロナが広がり始めた時、得体のしれないものとして受け取られました。その時にラインで、いろいろな正しくない情報ですが、それをどうぞ皆さんに広めてください!という情報が、いろいろな方から入ってきました。例えば、こんな統計があります。新型コロナウイルス感染症に関する間違った情報や誤解を招く情報例として「新型コロナは熱に弱く、お湯を飲むと予防に効果がある」「納豆を食べると予防に効果がある」などなどいろいろ飛び交いましたし、それがインタネットなどで、これを広めてください!という呼びかけがあり、どんどん広がっていきました。そのうちの1つでも「正しい情報だと思った・情報を信じた」人がどれくらいいたかというと、約30%弱の方々が本当にそれを信じていました。 さて、今その情報が来たらいかがでしょうか?「納豆を食べたら予防に効果がある」を信じられるでしょうか?誰も信じませんよね。正しくない情報だと分かっています。

 

しかし正しい情報が入って来ない時、何がどうなのか分からない時には、いろいろな正しくない情報でも、今聞いたら、そんなことあるはずがない!と言えるものでも、正しくない情報にさらされ続けていくと、それを信じてしまう人が出て来るんです。約3割の方々が本当にそうだ!と信じてしまうのです。他にもトイレットペーパーだとか、いろいろなことでお店からあっという間になくなりました。そういう正しくない情報を信じてしまう時というのは、人々の中に分からない、得体のしれないということからくる不安が、そうさせてしまうのです。

 

それは弟子たち自身が、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の1人だ」というイエスさまについての正しくない情報にさらされていることと同じ状況です。それを彼らも聞いていました。耳に入ってきました。さらされている状態の中で、イエスさまから、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけは、イエスさまを正しく知ること、イエスさまについて正しく受け止められるように、問いかけて下さっていると同時に、彼らの不安、正しくない情報にさらされている中で、何が正しい情報であるかということを知らせようとしておられるのです。

 

そこでペテロが「あなたはメシアです」と告白します。イエスさまがメシア、救い主だと答えていくことを導いていかれるのです。彼の告白は、信仰告白の原型とも言われています。ここから使徒信条、そして日本基督教団信仰告白に繋がっていきます。そういう意味で、「あなたはメシアです」あなたは救い主ですという告白は、正しいです。ところがイエスさまは「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」厳しく戒められたのは、どうしてでしょうか?正しいことを言ったのです。

 

正しい答えです。でもイエスさまは、ここでイエスさまについてのメシア、救い主という正しい答えを、誰にも話さないように、ようはここだけの話にせよということを厳しく戒められたのは、どういうことでしょうか?正しい答えだから、すぐにでも広めたらいいじゃないか?弟子たちが正しくない答えを言っている人々に向かって、正しい答えを伝えたらいいじゃないかと思われるかもしれません。相手が間違っているのです。間違っているのだから、正しい答えを言って、正していけばよいではないかと思われるかもしれません。

 

しかしイエスさまは今この時、正しい答えをだれにも話すなと言われたのは、正しい答えを、正しくないと言っているのではなくて、正しい答えだけれども、今は、弟子たちから正しいことを、言って広める時ではないということではないでしょうか?彼らは、ペテロをして正しい答えを答えたのです。正しい答えを知って、それを告白した。けれども、今は、それを言う時ではないのです。

 

こういうことは、実際には難しいことですよね。正しい答え、正しい情報なのに、それを言ってはいけないと言われれば、言われるほど、言いたくなるものですよね。また言ってしまうものです。

 

東京の下町に、このおばさまに言ったら、町中にぱあっと広まるという、そういうおばさまがいました。ではどうやって広めていくかというと、下町のご近所の一人一人にこう言います。「あんただけに言っておくからな~誰にも言ったらあかんよ~」会う人、会う人に、「あんただけに言っておくからな~」でもあんただけに言ったのではなくて、あんただけに言っておくからな~ということを、町中に一人一人に言っていったので、あっという間に広まることになります。そのように正しい情報は、正しいから、それを言いたくなります。弟子たちにとっても同じです。しかし、「誰にも話すな」とおっしゃられるのは、今、正しい答えを周りに言ってしまったら、それによって逆に、正しい答え、正しい情報を伝えた側に何らかのこと、ひょっとしたら危害が及ぶことを、イエスさまは知っていたからではないでしょうか?理由の1つとして、これが正しい答えですと言った時、聞いた相手である人々が、素直に、そうなんですか!分かりました!私たちが間違っておりました~と素直になれるか?というと、間違っておりました~と正しい答えを前に、自分の間違いを訂正できるか?わかりました~間違っておりました~と認められるかというと、反応は様々です。

 

それは何か習い事とか、レッスンと似ています。こちらが何かの習い事をして、先生に見てもらいますね。その時に、先生から見たら、これは直した方がいいというアドバイスが帰ってきます。どんな習い事でもそうです。直した方がいいということは、自分が間違っているということを知らされる時でもあります。自分流にどこかでなってしまっていて、正しいことからずれて間違っていることがしばしばあるからです。だから習い事や、何かの技術を教わるときには、定期的に見てもらう必要がありますね。どうしても自分流になってしまい、それで固まってしまうからです。でもその時に、こうした方が~と言われたとき、ハイ分かりましたと言えるか?というと、それを受け入れようとしないで、逆に腹を立ててしまったら、直りませんよね。しまいには、こんな先生に教えてもらいたくないと、もう結構ですということにもなりかねません。

 

つまり、正しい答えを言われた時に、その反応もいろいろだということであり、時には、正しい答えを弟子たちが言ったら、その弟子たちに何かが降りかかってくるか分からない状況もあったからではないでしょうか?

 

だからこそ、イエスさまが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められた内容も、弟子たちの口からではなくて、イエスさまご自身が、全ての権力者から排斥されて、殺されて、三日の後に復活することになっているという、イエスさまが救い主であることの事実、そのために十字架にかかられて、三日目に復活することになっているというその姿を、イエスさま自らが顕し、示していこうとされたのではないでしょうか?だから、今は彼らが伝え、広めていくことじゃない。今は、そのことを言う時ではない。イエスさまの十字架の死と復活は、イエスさまご自身が、十字架の上で、人々にさらされ、人々の目の前で起こった出来事を、イエスさまが自ら顕される方法をとられる時まで、弟子たちをして言わせようとはしなかったのです。

 

それはイエスさまからそれを顕されるから、イエスさまがそれをされるから、その時までは、ここだけで納めておくようにということだけでなく、そういうことはもうイエスさまに任せなさいということでもあるのです。イエスさまに任せること、自分が何とかしようということではなくて、イエスさまがこれからなさることは、もうイエスさまに任せていくこと、言いたいことはたくさんあるかもしれないけれども、それらを自分の手から離していくことを、イエスさまはおっしゃっておられるんです。

 

そういう意味で、ペテロがしゃしゃりでることではないし、弟子たちがイエスさまの前にしゃしゃりでることでもありません。あくまでもメシア、救い主としてイエスさまが、神さまご自身として具体的にことを動かされるまでは、下手に動くなということです。イエスさまがなさることを待つことです。でもペテロが我慢できなかったようですね。イエスさまの前にしゃしゃり出て、イエスさまに自分の考え、自分の思い通りになるように、イエスさまを「いさめ始めた」イエスさまを助けようとして、動こうとしました。ペテロ自身、自分はイエスさまのためにいいことをやっていると思っていたでしょう。これはいいことだと、でも自分はいいことをやっているのだという考えで行動に走ってしまうと、結局は、自分の事しか考えられなくなって、周りが見えなくなってしまうのではないでしょうか?

 

それゆえに、メシアだと言いながら、イエスさまがメシア、救い主となること、排斥され殺され、三日の後に復活するという十字架の死と復活ということを、否定しようとしたところに、彼の矛盾が出て来るのです。でも自分はいいことをやっていると思い続けていくと、イエスさまの事よりも、自分のことを思っていることになり、それをペテロに言っているのです。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」自分のことを思っていると、自分のことばかりを思っていると、イエスさまを、救い主と口では言いながら、実際にはイエスさまが救い主であることを否定しようとしていくのです。

 

そんなペテロに、サタン、引き下がれと叱って、怒鳴りつけた時、その意味は、私の後ろに、去れ!私の後ろに行け!ということです。つまりイエスさまからすれば、ペテロに向かって、サタン、引き下がれと叱って、怒鳴り散らされた時、ペテロの向こうにいるサタン、悪魔ではなく、イエスさまの後ろにサタンを引き下がらせ、イエスさまは、サタンと、ペテロの間に立とうとしておられ、ペテロをかばい、ペテロを守ろうとしておられるのです。

 

そういうことをイエスさまがしてくださるということに、出会うことができるように、そういう自分が、ここにいるということを、私たち自身が探し、見つけることができるように、イエスさまは導いてくださいます。そうして、イエスさまが守っていて下さったということに気づけるのです。自分探しというのは、そういう面もあるのです。

説教要旨(3月20日)