2022年2月20日礼拝説教要旨

穴をあけて(マルコ2:1~12)

松田聖一牧師

何かをしようとするとき、結果として2つに分かれますね。それはうまくいった!と言う時と、やってみてダメだった!ということがあります。それは何をするにしても、同じことがありますね。2つに分かれます。その後者、うまくいかない、うまくいかなかった、ということが起こった時、だめだったからもうやめよう、諦めようとすることもあるし、後ろに引き下がることもあるでしょう。しかしその反対に、だめだったという結果の中で、他に何か方法があるのではないか?何か別の道があるのではないだろうか?と可能性を求めて、捜して動こうとすることもあるのではないでしょうか?それは、うまくいかなかったという結果をどう受け止めるかということに関係しますね。うまくいかなかった、あそこからはだめだったという現実を、自分自身がどう受け止めるかということです。

 

それがこの中風の人を、御言葉を語っておられたイエスさまのところに運んできた4人の人たちの姿に通じます。

 

彼らは、イエスさまの所に中風の人を運んで来ました。でも、イエスさまがおられるところに行こうとしても、「戸口のあたりまですきまもないほどに」なった状態の中で、イエスさまのところに運んで行けない、連れて行くことができなかった時、はい分かりましたと、連れて行くことを諦めたかというと、あきらめてはいないのです。後ろに引き下がってはいないのです。「連れて行くことができなかったので」と、連れて行くことができなかったという、残念な結果が彼らにもたらされた、その結果に敵対心を燃やして、何で戸口から入れないんだ~という所に立って、立ち向かおうとするのではなくて、うまくいかなかった結果を、そのままそうだったので、と素直に、前向きに受け止めていくのです。

 

これはどういうことかというと、うまくいかなかったということは、4人の人たちにとって、またこの中風の寝たきりになっていたであろうこの人にとっても、戸口から入るという方法は、この時、開かれた方法ではなかったということです。戸口からイエスさまのそばに連れて行くという方法は、この時そうではないということを、彼らはそのまま素直に、そうなので、と受け取っていくのです。つまり、最初に取ろうとした戸口から連れて行くという方法は間違った方法だったという意味ではありませんし、戸口からイエスさまのところに連れて行こうとした4人の人たちが悪いとか、間違っているという意味でもありません。そういうことではなくて、今この時は、戸口からイエスさまの所に連れて行く方法ではない、その方法が閉じられただけ、のことです。それをそのまま受け取っていくことによって、別の方法が与えられていくということではないでしょうか?

 

私たちにとっても、自分の願った方法、自分の願った道に進めないこと、行けないことがあります。それはその方法が間違っているというよりは、今はそういう方法ではないということです。今はそれではない!そのことを、そうなので、と受け取っていく時、新しい道、新しい方法が与えられていくのです。それが「屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」という、イエスさまのもとに連れて行く方法、戸口からではなくて、屋根からつり降ろすという別の方法が開かれ、そこに、導かれていくのです。

 

それにしても、屋根をはがして穴をあけ、そこから寝ている床をつり降ろすという行動は、無茶苦茶な行動かもしれません。屋根をはがすなんて、何ということをするのか?と思われるかもしれません。

 

ある教会の礼拝中に屋根裏に上がって遊んでしまった子どもたちがいました。礼拝の場所の真上の天上をばたばたばたばたという音がしたかと思うと、天上から足が出てしまった~みんなびっくりしましたし、説教中でした。すると説教者の先生は、聖書に書いてある通りですね~天井から足が出た~ということでその場をユーモアを込めておさめていかれました。でもびっくりです。実際に何ということをということを思う人がいたと思います。でも、屋根をはがして穴をあけるという方法も、屋根を壊すという意味ではないのです。というのは、屋根も含めて、当時の家は、一つ一つ天日で干して作った日干しの土レンガを組み合わせて作った家ですから、レンガ一つ一つを外してバラバラにすることもできます。屋根も土レンガが組み合わさっていますから、そういう屋根を構成している土レンガを一つ一つ外して、屋根をはがす方法をとることができます。つまり、彼らにとって、手に負えない、できない方法ではなくて、彼らが出来る方法、出来る手段が与えられ、その方法を、誰が何と言おうとも、一人のこの人をイエスさまのもとにて連れて行くために、そばに運ぶために、4人の人たちが使っていくのです。

 

それはこの4人の人が、この人を何としてでも連れて行きたい!いや連れて行かなければならないという思いを持っていたからです。誰が何と言おうともイエスさまの所に戸口からの方法はだめだったけれども、新たに屋根をはがしてつり降ろすという方法を、実行に移したのです。

 

私たちにとって、自分にとって、大切な方をイエスさまの所に連れて行こうとどれほどに思っているでしょうか?何とかして連れて行きたい、何とかしてあげたい、その思いを持っているでしょうか?その人は、誰かに連れて行ってもらわないと、動くことができない人です。その人は誰の事を指すかはわかりませんが、誰かがその人のために動かなかったら、連れて行くことはできません。何も動いていきません。じゃあどうするのか?誰かが動かないといけないのです。その誰かと言う時、自分以外の誰かではない。私も含めての誰かです。

 

何かをしようとするとき、「みんなでしましょう」と言いますね。みんなで協力してやりましょう!と掛け声があります。みんなというのはいいですね。でもその時、みんなの中に、私は入っているでしょうか?自分も含めてみんなで!と言っているかというと、どこかで自分以外のみんなでと、自分は関係ない、自分以外の人たちでやってくれるとどこかで思っているところがあるのではないでしょうか?それをお互いに持っていたら、誰も動かないことになりますね。みんながみんな、自分以外のみんなが動くと思っていくと、誰も動かないですね。誰かがと言う時も同じです。自分以外の誰かが動いてくれる!と思った時には、もう誰も動かないです。動いていきません。動けない人は、そのままです。イエスさまのところに行くことはできません。だからこそ、自分が動かないと、動こうとしなければ、何も動いて行かないのです。それをどれほど大切に思っているでしょうか?もちろん一人ではできないこともあるでしょう。じゃあそれで諦めていいのか?というと、助けを求めたらいいのではないでしょうか?助けてくださる方を求めたら、誰かが動いてくれます。誰かが、その求めに反応してくれます。問題は、何もしないで、動こうとしないことです。そういう意味で、誰かが動かないと、というときに、自分は動こうとするかどうか?それは他の誰かの問題ではなくて、自分の問題です。

 

その時、自分の事として受け止めて行ったとき、物事は進んでいくのです。4人の人が運んできたとき、群衆に阻まれて、イエスさまのもとに連れて行くことができませんでした。それは隙間のないほどに人々がいた、本当にすきまがなかったのです。でもそれは隙間のないほどに集まっていた群衆が悪いということではありません。この群衆も必死だったと思います。イエスさまのところに来て、そばに来て御言葉を聞きたい!癒してほしい!何とかしてほしい!この問題を解決してほしい!その願いで集まってきたと思いますから、彼らは彼らで必死です。後がない、イエスさまにしか頼ることできないのです。

 

だからこそ、この4人は群衆をどこかにやってしまおうとはしません。群衆を排除しません。群衆の必要も知っていたと思います。切羽詰まっていたことも分かっていたことでしょう。だからこそ、それを受け止めた時、自分たちでできること、出来る可能性が与えられて、屋根をはがす行動に出るのです。

 

そしてこの人をイエスさまのもとにつり降ろした時、イエスさまは「その人たちの信仰を見て」中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と罪の赦しを宣言くださったのでした。

 

この中風の人が、私を赦してくださいと頼んだわけではありません。何も言えない状態だったかもしれません。でもこの人に代わって4人の人たちの信仰をイエスさまは見られたのでした。癒されなければならない人だけでなくて、その人のためにどれだけ自分のこととしてやろうとしているか?イエスさまに会うことができる!イエスさまは癒して下さる!ということをどれだけ信じていたかということを、イエスさまはご覧になられたのでした。

 

このことから教会に与えられた1つの恵みがあります。それは幼児洗礼というものです。赤ちゃんに洗礼を授けることもありますし、幼稚園くらいの小さな子どもさんが洗礼を受けることもあり、いろいろなケースがあります。この幼児洗礼がなぜあるのか?というと、それは神さまのお恵みが全ての人に与えられているということに基づくものだからです。全ての人を神さまが大切な一人として命を与えて下さったからこそ、与えて下さった神さまに向かい、神さまを信頼していくこと、信じて洗礼を受けるものは皆救われるという御言葉の約束に基づくものだからです。だからたとい意思表示ができない赤ちゃんであっても、親御さん、あるいは親に代わる方がこの子に洗礼を授けてほしいと信じて願う時、自分にとって一番大切なものは、イエスさまを信じていくことだということを与えてほしいというイエスさまへの信頼が、信じて受けてほしいというその赤ちゃん、幼子も洗礼の恵みにあづかることに向かうのです。

 

もちろん幼児洗礼を、受けたその子供のために受けてほしいと願った親御さんだけではなくて、教会のみんなで、その子がイエスさまをずっと信じていけるようにと導く大切な役割があります。幼い子供にもイエスさまは信仰を与え、育ててくださいますから、そのことのためにできることを私たちにもちゃんと与えてくださいます。

 

ある宣教師の方が本国に帰国されることになりました。その時、その先生のご家族には、小さな赤ちゃんがいました。その時先生は、この子のためにイエスさまからのお恵みである洗礼を、受けてほしいと願われ、洗礼が授けられることになりました。帰国直前の礼拝で洗礼式が執り行われることになりました。その時、周りの方は尋ねました。「どうして帰国前に幼児洗礼を授けるのですか?本国に帰ってからでもいいじゃないですか?」すると先生はこう答えました。「帰国する間、船で帰国します。でもその船旅の間に、命に関わるようなことがあったとき、洗礼を受けていたらこの子は、どんなことがあっても、神さまの子どもとして守られていきます。だから今洗礼を受けてほしいのです。神さまはこの子を神さまの愛する大切な子どもとしてくださっていますから、その神さまからのお恵みを頂くのです。だから洗礼を授けるのです!」そうおっしゃられて、この子は幼児洗礼を受け、神さまのお恵み、神さまがどんなに大切にしてくださっているかを、どんなことがあっても神さまを信頼していけばいいという信頼を洗礼を通して、いただくことが出来たのでした。

 

もちろん、この子が自分から洗礼を受けたいと言ったわけではありません。でもこの子のために一番今大切なものを与えてほしい!それは神さまのお恵みである洗礼を受けることだということを、宣教師としてだけではなくて、一人の人として、親として子供に一番大切なものを信じて願ったのでした。

 

4人の人たちのしたこと、はそれです。この人のために、何とかしたい、イエスさまに何とかしてほしいです。そしてイエスさまは何とかしてくださるということを信じて、イエスさまのところにそばに連れて行った、その行為以上に、イエスさまに対する信頼、信仰を見られるのです。

 

その具体的な姿が穴をあけることなのです。確かに穴を空けて、穴が出来たら、穴があいたことでいろいろな反応がありました。穴をあける時、それはもともと穴があいていなかったところに、穴をあけますから、空けたその人に対して、空けたその行為に対して、いろいろが出るのは当然と言えば当然です。もちろん皆がもろ手を挙げて喜んだのかというと、そういう喜びの反応は、穴をあけた時ではなくて、この人がイエスさまに癒されて、起き上がって人々の見ている前を出て行ってからの反応です。しかし、そういうことであっても、4人の人が、穴をあけたことによって、自分では動けなかった、どうすることもできなかったこの人が、イエスさまから今、ここにいていいんだ!という赦し、あなたは赦されるんだ!という赦しの宣言、赦しの約束通り、本当にこの人は「あなたの罪は赦される」赦されたのでした。そしてこの4人の人も、そのあいた穴から、「あなたの罪は赦される」とおっしゃってくださったイエスさまに出会えたのです。

 

さてこの4人の人はだれか?名前は出てきません。しかし名前がないということは、この4人に誰もが当てはまるということです。連れてこられたこの人もそうです。誰もが当てはまるのです。

説教要旨(2月20日)